神経たち #3
温度センサ、振動センサからの計測値が美しく可視化される。
温度ごとの色合い、サーモグラフィーが映し出す女性の輪郭、青、黄、赤、温度順に並べられた序列、そして序列が織りなす、三色が彩る世界。彼女の居場所、毎日通る場所、殆ど通らない場所、壁に囲まれた私的な空間の温度、部屋に肉体が入ってくることにより上昇する室温、室温と体温の相関、数々の部屋を見ることで、僕は計測相手を把握する。予測する。センサから放たれる赤外線が描き出す、計測点から彼女への距離感、僕は計測器から飛び立ち、集約されるデータの列を画面に映し出し、眺める。数の列、やってきては表示されて、新しいものに押し出されて消える。黒い背景に白地で表示される、数字の滝、僕はうっとりとする。前にインターネット上の匿名のコミュニティで、僕と同じようなことをやっている赤の他人達と交わしたメッセージを思い出した。
「音とか、ビデオとかのが面白いよ。君は少しおかしい」
僕は少し考えてから答えた。キーを打つ手が震えていた。
「なんだか、そういうのに、僕はあんまり。興味がないんです」「珍しいタイプだよ。新手だ」
「新手だね」
「変態性が高い」
「いや、作り話かもしれないぞ。目立ちたがってるだけだ」
「可能性はある」
「ちょっと程度の低い嘘だな。俺はこのチャットの設立当初からいるけど、そんな事言ってる奴、見たことない」
「嘘じゃないですよ」
僕は返した。分かりあえないと、確信しながら。
「ほら、ソフトで加工してみたぞ。サーモグラフィ風だ」
明らかに盗撮されたであろう、何処かの誰かの部屋を映し出した写真が、赤、黄、青の現職のグラデーションで加工されて投稿された。あたかも本当に計測されたかのようで、彩りは僕がいつも見ているものに近かったが、僕の目には明らかに、フェイクだと分かった、ひと目でそれが、偽物だと分かった。
「こんな感じに見えるわけだろ?俺にはわからんな」
「まあとにかく、ここでは嘘だとかは言いっこなしだ。だが、見たところ君と情報交換できるような奴はいないかもしれない。僕たちは、他人の事を、見たり聞いたりして楽しむ人間の集まりだからね」
僕は次のメッセージが表示される前に、チャットルームの画面を閉じた。盗聴や盗撮好きが戦果を交換し、時には機器や仕掛け方について相談する秘匿されたチャット、結構な数の参加者がいたようだけれど、本当の意味での僕の仲間、同じような計測者は存在しなかった。
刻一刻と変わる室温と振動のグラフを眺めながら、僕はズボンを下ろして、下半身を弄り、萎えたままのそいつを軽く撫でた。なまくらのそいつは動くことなく、ブヨブヨのまま、直立すること無く膨張しを始めた、ぐしゃぐしゃと僕の生命線であるモニターやノートパソコン、それから本棚に積まれたセンサのカタログ、ベッドの古びた掛け布団、片方の壁にピタリとその肉をつけると、そのまま僕をもう一方の壁に追いやって圧迫した。
測る時の高ぶり、興奮と、俺を結びつけようとするな。
分かっているはずだ。何度も試したはずだ。
試したはずだ?
記憶が曖昧だ。
結びつけるな。声が聞こえる。
結びつかないことはお前には分かっているはずだ。
俺は動かないわけではないが、計測と結びつけることはできない。無関係だ。
でないと押しつぶされる。
このまま押しつぶす。
分かるか?
わからないと言うなら、いつでも。
*
けだるい夢は目覚めの瞬間に実態と実像を失って、後には不気味なヌルッとした手触りだけが残っていた。体内に滞留する重たいアルコール流し落としているのは、ホースの先から放射状に飛び散るぬるいシャワーだった。僕の身体を這って流れ落ちる水滴が冷房の冷気にあてられて、ポタポタと床に落ちて描き出した軌跡、僕の動きの軌跡を残そうとする透明な粘液。それをタオルで拭き取りながら、僕はケイゴからのメッセージを確認した。「悪ぃ、ノートパソコン、結局貰ってきちまった」彼は自分が無断でノートパソコンを一台持って帰ったことを詫びていた。可愛らしい犬の絵文字が添えられていた。曰く、彼の自宅のパソコンは限界を迎えているらしい。前にも僕が酩酊している間に漫画を何冊も持って帰られたことがあったのを思い出した。ケイゴの貸し借りは大雑把だ。
とにかく、悪意のないケイゴが僕のノートパソコンを無駄に詮索するとは思えなかったが、彼が持ち帰ったマシンは古いとはいえ、お手製のいくつかの計測用ソフトウェアが仕込まれたものだった。それはつまり、何かの拍子に流出することで、僕が時間を賭けて準備した計測のためのシステムが白日に晒されて、今のこの環境をぶち壊す可能性があるということだ。突然訪れる社会からの訪問者、彼らは僕に事細かに事情を聞くだろう。僕は頭が締め付けるような居心地の悪さを感じた。僕の行為が少しでも明るみになれば、警察やら何やらがやってきて、そのまま刑務所に収容される可能性だってあるのだ。いや、確実にそうなるだろう。計測の潔白さを主張するのは難しい気がした。独房の中や監獄の中で、計測記録を見ながら思考を巡らせることだけできれば、それは理想的な計測の楽園であるような気がしたけれど、実際は自由を完全に奪われてしまい、計測機器に触ることすらできないだろう。
「ケイゴ、PCに僕の大事なデータがまだ入ってるから、すぐに一旦返してもらえる?勝手に持っていくと思わなかった」
「悪い。昨日は酔っ払ってムニャムニャ言いながら『いいよ』とか言ってたから、持ってきちまった。ごめん、返すよ。今日はもう遅いから明日の夕方で。ついでに借りっぱなしになってるマンガ見つけたから持っていく」
ケイゴ送りつけてきたマンガの写真、二年ほど前に人気だったそれが、本棚の端の方から五冊ほど消えているのに僕は気がついた。何が部屋の中にあって、何がそうでないかなんて、ケイゴが自分から言い出さなければ気が付かなかったかもしれない。持ち物に普段は頓着していないからだ。
翌日、彼と待ち合わせの約束をしたカフェで、僕は冷えたカフェラテをストローで吸っていた。買い物以外で外に出るのは久しぶりだった。カフェでコーヒーを飲むことすら、思えば暫くぶりのことだった。氷に満ちたグラスに店内の空気が次々に触れて水になって、グラスの足元に透明な円を描いた。透明な墨跡、円、途切れ目、水の跳ね方、グラスを持ち上げるたびに様子を変えるそれを、僕はいつまでも見ていられるように思えた。垂れたいくつかの水滴が僕の薄汚れたジーンズを濡らした。
濡れた所、身体はどれくらい冷えるだろうか?どんな色に、見えるだろうか?
大学に入りたての頃はカフェに入って、コーヒーを注文し、窓際の席で一日中道行く人を眺めて過ごすことが多かったのを思い出した。来ている服、話の中身、ある人は勉強の悩み、ある人は家族の病気のこと、またある人は下世話な話をしながら卑しく笑い、周囲をやたら気にしながら店に入る薄紫色のコートを着たサングラスの女性もいた。勉強に使うためのノートの端々に、目についた人々の仕草や、その人の家族構成やら、人柄を細かく書き込んだ。事実も推測も入り混じったノート、アレはいつ捨ててしまっただろう。僕はやはり、センサを使わない頃から、人の動きを観察する事をルーチンにしていた。目で見て文字に起こすだけでは、観察できる人数に限界があるから、他の方法でもっと多くの人を見れるようにしたいと強く思ったのを思い出した。
ただ、あの頃は今のように女性ばかりを計測するのではなく、老若男女誰しもを観察にしていたように思える。
いつから僕は、計測や観察の相手に女性を選択するようになったのだろう?彼女たちに性的な興味が無いのに、どうして男性を選ぶのを本能的に避けているのだろう?
記憶の中の場面が何度も立ち上がり、アイスコーヒーのグラスの外に透明な墨で情景を描いていた。僕がガラス越しに見つめる透明な墨跡を、少し焼けた指が横に切った。
「悪い、遅れた。俺も酔っ払っててさ、軽い気持ちで持って帰っちまった。返すよ。あと、この漫画も、船に載せられるところまでは読んだよ。やっぱ、面白いな」
ケイゴは僕の前に古いノートパソコンをそっと置いた。昨日メッセージをもらってから、胸のあたりに引っかかっていた何かが、緩んで落ちていくのを感じた。体の奥底へ。それはやがて体外へと、ゆっくり、それでも確実に排泄されるはずだ。
「あとさ、気になったから、単刀直入に聞くけどさ」
緩められて僕の奥底へ落ちていったはずの黒い霞は瞬時に凝り固まってツルツルしたボールのようになって、今度は喉元のあたりまでぐいと押し上がった。僕は自分の頬のあたりがこわばるのを感じた。変な力がかかって、不自然な顔つきになって居ないかが気になった。
「うん」
僕はやっとのことで、弱く息をつくようにそう返した。
「仕事、何か調査とかやってんのか?言いたくなければ、言わなくていいんだけどさ」
「調査?」
急に息苦しくなった。短い単語を返すことしかできない。
平静を装いたい。
ケイゴはノートパソコンを開いて、僕の記録を目にしたのだろう。
計測対象の女性たちのリストなんかも、ひと目で分かる場所に保管されているから、彼は興味本位で開いてしまったのだろう。
どう思われているだろう?
疑いか?中学の頃のクラスメイトと同じように僕を変質者だと思っているだろうか?誤解されたくない。それでも状況的にそう判断するのが合理的だろう。ケイゴが僕のことをいきなり犯罪者や変質者扱いするような人間だと思いたくなかった。一人の友人として、僕のことを信じてくれると思いたかった。
でもどうだろう?身体が硬直して黒い炭になりそうだった。
苦しさの源、猜疑心や不安、緊張を振り払おうと頭を回転させた。
「ノートパソコン、点けてみたんだよ。これも、本当にケイゴは怒るかもしれないけど、パスワードさ。昔大学で使ってたやつと、多分一緒かな、思って、遊びのつもりで入れてみたら、ロックが解除されちゃってさ。なんか名前と住所の書いた名簿みたいのが開かれてたから、見ちゃったんだよ。ずいぶん多いなと。なんか、いついつに帰宅、みたいなコメントも書いてあったから、何かの調査でも仕事にしてるんだろなと思ってさ。それより先は見てない。焦って返しに来た」
ケイゴは頭を掻いて、「すまん」と続けて、目の前で手を合わて僕に軽く頭を下げた。眉が申し訳なさそうに垂れていた。口調はいつものように軽やかだった。
計測相手のリストを見られてしまったのは確かだけけれど、それ以上を見ているだろうか?頭を上げた彼の顔を僕はじっと見つめた。顔の様子から本当の気持ちは読み取れるだろうか?彼はいたずらを咎められた少年のように、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
紅潮した顔の温度は、きっと普段より少し高くなっているはずで、より赤く見えるだろう。
ケイゴの口調は、何か深刻なものを見てしまったという風ではなく、ただ単純に僕のプライベートな情報に勝手にアクセスしたことに対して謝罪しているだけのようだった。彼の鼻筋、彼の目元、彼の頬、手の動き、僕はかすかな動きから彼の内面を読みとろうとする。喉のあたりにつかえていた黒い靄が我慢の限界を迎えて吹き出して、首元にベッタリと張り付く嫌な手触りの汗がブワッと現れた。
「そうなんだ。調査みたいなこと、やってる」
僕はとっさに、嘘か本当かギリギリのところに言葉を置いた。 「へえ、面白そうなことやってるじゃん。なんかスパイとかみたいでかっこいいな。危ない団体とかに潜入捜査したりするやつ、ああいうやつか?それともアレか探偵みたいなやつか?」
ケイゴは新しいおもちゃを買い与えられた子供のように嬉しそうに僕の防壁を掘り下げようとする。 純粋な好奇心が輝いていた。
「そういう格好よさそうな、大層なやつじゃない」
「じゃあアレか、浮気の調査とか、そういうやつか?」
「まあ」
「じゃあ、探偵か。スパイと比べるとスケールが小さいけど、でも面白そうだな。客先に営業に行っては怒られてばっかりの俺よりもずっと楽しそうなことやってるな」
本当は全く探偵なんかではなく、ただの好奇心、僕の感情を昂ぶらせ、僕の何かを埋めるためにやっているのだから、嘘と本当のギリギリのライン上にそっと載せた僕の言葉は、すぐに嘘側に切り立った深い崖に落ち込んでいった。言葉がコロコロと、斜面を転がる音が聞こえた気がするから、崖はそれほど急ではないらしい、崖の底に着地する音はいつまで立っても聞こえなかった。軽やかな嘘は軽やかな音を立てて転がるのだ。嘘が重ければ音を立てずに自由落下して、すぐにでも鈍い着地音を響かせるだろう。
嘘は嘘だけれど、この場を取り繕うには探偵ということにするのは悪くないように思えた。
ケイゴは何かひらめいたような顔をして席を立った。
「飲み物を買ってくる」
そう言った後、彼は律儀にも、僕が飲み干したコーヒーのグラスと、濡れてグシャグシャに丸まった紙ナプキンをトレイに載せて、テーブル上に残る丸い透明なリング二つを拭き取ってから、レジへと向かった。
ダークブルーのトレイにカフェラテを二つ載せて戻ってきた彼は、片方のグラスを僕の前に置いて、ストローを差した。
「ちょっとさ、頼みたいことがあるんだ」
こういう依頼を警戒すべきなのはよく分かっていたけれど、ケイゴの言い方と目つきは飛び跳ねる子犬みたいで、純粋な喜びが見え隠れしていた。子犬のやつは僕の方の警戒心になんて見向きもしないで、僕の防壁をひょいと軽やかに飛び越えていった。
僕は小さく息を呑んで、彼の目の辺りをよく見た。何らかの悪意や、僕の計測行為を掘り下げようとする意図は見えなかった。
「頼み?」
彼は恥ずかしそうに笑った。
「そうなんだ。ちょっとした頼みがある。友達を助けると思って、聞いてくれ。頼みを聞いてくれたら、ノートパソコンなんてくれなくていい。金を返す代わりにお願いしてるみたいで気が引けるんだが、困ってるんだ。だから頼みたい。真剣に困ってることがあるからさ、調査のプロの探偵ダイゴくんにお願いしたい」
彼は持ってきたカフェラテに口をつける。ストローを取り出して、グラスに口をつけて一気に飲もうとした。口元にミルクの跡が残った。彼はそれを紙ナプキンで拭き取って、左手と右手を左右対称にキッチリとそれぞれの太ももの上に置いて、背筋を正して、顎を引いて僕の方を見た。と思うと、僕から視線をそらして、恥ずかしそうにニヤついた。僕が笑い返して黙っていると、急いでいる訳でもないのにチラチラと何度か時計の方を見た。依頼の内容、どんな内容でどれくらい困っているのかは定かではないけれど、彼が珍しく次に切り出す言葉に困っているその仕草に、僕は見覚えがあった。僕は記憶を手繰って、彼がそういう態度だった時を思い出した。時間を巻き戻す。単線的な時間軸、キュルキュルと撒き戻る音が頭の中を抜けていく気がした。大学入学、ケイゴとの出会い、クラスメイトの顔、記憶のテープに刻まれた凹凸は劣化して、大体はぼやけてしまって思い出せない。複数人のグループで受けた授業、ケイゴと、僕と、もう二人、背の低い女の子たち、高い声がキンキンと僕の耳に響いた日々。僕にとっては若干耳障りな声だったが、結局その後しばらくして、背の低い女の子の片方はケイゴの恋人になった。
思い出した。ケイゴが少し恥ずかしそうにするときは、たいてい内容は決まっていた。
「調査はしてるけど、正確には探偵じゃない。、頼みを聞けるかは内容によるよ」
「前にも似たようなことお願いした気がするけど。実は、ちょっと追いかけてる女の子がいてさ。アプローチはしようとしてる。でも、なかなか手堅いくてさ。俺らの大学出身の、同じ会社の子なんだ。実は年次も同じなんだ。昔から可愛い子だなと思ってた子でさ。で、喫煙所とか飲み会とか、ネットとかで情報を集めてるんだけど、男関係についてはっきりとした情報が入ってこない。入ってこないと言うか、恋人と別れそうだとか、別れたばっかりだと、実は付き合いたてだとか、手に入る情報はバラバラで何にも分からないんだ。会社の奴らもハッキリとは知らないらしい。だから、ダイゴ、お前に調査をお願いしたい。その子に彼氏がいるか居ないかとか、どういう趣味なのかとか、そういうのを調べて欲しい」
恋をする時、彼はいつも、石橋を壊してしまうんじゃないかと思うくら何度も叩くのだ。耳をピンと立ててあたりのあらゆる音を拾おうとする草食動物みたいに慎重だ。その慎重さは、彼の外見や普段の振る舞いからは想像し辛いが、前にも数度、同じ様に恥ずかしそうにしながら頼み事をしてくると思ったら、女性関係の、恋愛絡みの悩みごとで、情報収集の手助けをした覚えがある。
「自分で、後をつけてみればいいじゃん」
「馬鹿、それじゃあストーカーだろ。そういうのは良くない」
調査に僕を使うということは、やっていることはストーカーと大差ないのだが、率直に伝えるのは避けた。直接やるのに後ろめたさを感じるけれど、間接的になら許容できるというのは、それはそれで、とても全うな感覚であるように思えた。
僕は視界の端に映るケイゴ以外の人影に注意を払った。
店の一番奥の方へ、背の高いグラスに注がれたアイスコーヒーが運ばれていく、それを待つ初老の男性は白いイヤホンのケーブルを耳から垂らしながら表紙の外された文庫本を眺めている。壁沿いの席に幼い顔つきの制服姿の女子学生が二人、僕が席についたときからずっと、親しい相手にだけ見せる緩く甘えたトーンの声でキャアキャアと、クラスメイトの話や、恋の話、気になっている先輩の話、部活の話、家の話、彼女達の周りの色々な話題について、賑やかに話している。甘くぬるい声は時たま店の端の方まで聞こえるくらい大きく響いていた。客は他にはほとんどいない。遠くに数名の老人が座って、何かを話しているのが見える。店のカウンターの方を見ると、店員達二人が何かを話している。ここからでは聞き取れない。僕とケイゴの座る席と他の客の間には十分な空間があった。僕はいつもより警戒していた。
よほど大きな声で喋らなければ、僕とケイゴの話が漏れ出して、他の誰かに僕が観察や計測をやっているという事実が漏れ出すことはなさそうだった。僕は息を小さく一つ飲んだ。
「あんまり、合法的な方法じゃないよ。調査、さっきも言ったけど。ストーカーっぽいよ」
今更、合法かどうかについて口にすることがあると思っておらず、僕は可笑しさを感じて、口元が緩んで笑いだしそうになった。
「警察沙汰とかにならないなら、俺は気にしない。まあほら。恋人いるか、だけでもいいからさ」
「そうは言うけどさ。まあ、僕の方はケイゴが気にしないって言うなら何でもいいよ」
「気になる子のことを嗅ぎ回るくらいのことはみんなやってるよ。ネットで色々調べたり、友達の友達から探りを入れたり、写真を見てみたり、同じ会社だったら仕事の予定が気になったり。今回はあんまりにも情報が少ないから、奥の手として探偵ダイゴくんを雇いたいんだ。なあ、頼むよ。大学の頃から追いかけていた子なんだ。どうしても諦められなくてさ。諦めようにも何も情報がなくてさ。だから頼む。恋人がいるならすぐ諦めがつく」
彼は僕の前で両手を合わせて頭を下げた。二十数年生きてきた男性をここまで駆り立てる恋、そういう衝動の力がなんだか生き物にとって本質的であるように思えた。彼は昔から、中学や高校ぐらいから、異性へアプローチするときに同じ様なやり方をしているのだろう。自我が確立し始めた頃に規定された方法論に則って、彼は恋をするときに情報をかき集め、僕は恋とは無関係に計測や観察をするのだ。店の奥の方にいる年取った人たちも、昔からあまり変わることなく過ごし続けているのだろう。
自我の確立の頃の記憶、僕はどうだっただろう。記憶が曖昧だ。その頃から、本当にこういう計測行為をしているだろうか?僕のこの計測行為の源はどこにあるのだろう?
最初、ノートパソコンのロックを解除されたと聞いたときは、疑念と恐怖の粘っこい汗が首のあたりを黒々とした油カスとなってまとわりつくように感じたけれど、十分に冷たい冷房の効いた部屋でケイゴと話すうちに、それは無色透明になって引いていった。
僕らの背景にいる他の客たちが僕らの会話を聞いている様子はない。僕らは閉じられた場所にいる。
僕の計測行為は、秘匿されたままだ。
ケイゴから誰かに伝わることはない。
恐怖を感じることはない。
彼の頼みに僕の行為を活かすことは、一種の共生関係を生み出すような気がした。これで負っている感覚を忘れることができるとしたら、一石二鳥に思えた。
「いいよ。じゃあ、その子の名前とか、そういうの、後で教えてくれよ」
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