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神経たち #4

キタガワナナコ、彼の恋の相手。唐突な依頼から二日後の昼下がりに、彼が知人経由で入手した写真とインターネット上のいくつかのソーシャルネットワークアカウントに簡単なプロフィールが添えられてメッセージが送られてきた。音沙汰ないまま過ぎた二日の間に、ケイゴのことだから依頼自体を忘れてしまったのだろうと思い、僕が彼の訪れる前の計測行為の繰り返しの日常に戻りつつある時に、メッセージの到来は告げられた。
まずは二つのディスプレイにナナコのソーシャルネットワークのアカウントを表示する。二つの別々のサービスのアカウント、それに紐付いたプロフィール写真、片方は随分遠くから撮られ、ブレていた、もう片方は草むらに生えた小さな赤い花の写真がアイコンに使われていた。勿論、ナナコ本人ではない。アカウントの最終更新は三年前で、いくら昔にさかのぼっても個人的な内容であるとか、ナナコ本人の姿は現れない。時たま現れる街のありきたりな日常風景、可愛らしい看板であるとか、長い真っ直ぐな坂を上から映した写真などが投稿され、アカウントの開設したての頃は時たま当時逮捕された芸能人のニュースや、都内で翌月開催されるイベントの告知などが共有されていた。投稿の数自体はあまりにも少ないし、ナナコ本人の影はあまりにも薄かった。どこにでもある、いかにも普通な、止まったままのアカウント、彼女がつながっている人数はごく僅かで、つながっている彼女の友人たちもまた、アカウントの時間を止めて過ごしているようだった。彼女の友人たちみんなで結託して、繋がりを可視化することや、その早すぎる流れに乗ることを拒絶したかのように。誰が何かをしているか、いつも誰かが見ているかもしれない不安、見ることを求められるという張力、つながりの紐から逃れるためには、張力の源を止めるしかないから、そういう選択をしてもおかしくない気がした。さて、ここまでは簡単な、簡単すぎる下調べだ。何の情報も得られない。このくらいの確認は、恐らくケイゴもやっているはずで、それで何の手がかりも得られなかったからわざわざ僕に依頼してきたのだろう。ケイゴから送られてきた短いプロフィールを見ると、彼女の卒業した学部は経済学部で、年次もケイゴと同じだった。僕は工学部だから、彼女と直接は被りがない。彼女の名前と大学名を検索窓に打ち込み、雑多な情報の山々から、今も活発に活動している火山の様なアカウントを探る。彼女の周りから、彼女の面影や残骸を拾い上げようと試みる。キーストロークの音とリンクの先へ進む時のカチカチという音は僕の電子的な足音で、自律的なまとまりを成して、僕の聴覚にある一定のリズムをもたらし、リズムに包まれる中僕が融解して形状を失って、溶けた記号の液体として、僕を情報の海の中へ連れ去られるような感覚を覚えた。液体の温度が見える気がした。集中し鋭く研ぎ澄ませた神経の温度は意外にも低く保たれ、温度上は薄い青色で示されていた。そう思えた。指先の感覚と、肌に触れる室内の冷気、対流する空気の無機質な肌触り、それらが感覚器の表面を流れ飛んでいくのを感じた。
僕が目の前に見える物に集中すると、やがて音さえも溶けて液体に混ざり、消え失せた。今はただ、僕の視線が画面上のカーソルを追いかける感覚のみが明瞭だ。一つの孤独な、一つの感覚だけの存在になったような気持ちだった。深い計測をしている時、こういう感覚に到達できることが最近増えてきたように思える。僕はケイゴから渡されたナナコの写真をもう一つのディスプレイの全面に開く。遠くから撮られた集合写真、引き伸ばされることを予期していない色素の集合体は、僕の暴力的な拡大によりぼやけて潰れてしまった。僕はカーソルで端をつまんで、写真を適切なサイズに圧縮し、顔を近づけて彼女の姿を捉えようとした。茶色に染められた短い髪、焼けた肌、まっすぐ通った鼻筋は、小さく粗い写真の中でも確かな存在感があるように見えた。逆に目は対照的なほどに主張しないで、誰であれ他者に写されることを拒絶するかのようだった。小柄な体つき、隣に立つ体格の良い男の半分くらいの肩幅と、それに比例する足の長さ、お世辞にもプロポーションが良いとは言い難い。背丈、僕は隣の男の顔を切り取り、検索窓に放り込んで素性を探った。彼はラクロス部のメンバーのようだった。好きな物は韓国料理と海だと、ご丁寧に部活動のウェブサイトに記されていた。男の顔が写り込んだ画像の中に男自身のアカウントに載せられた写真を見つけて、僕はその大元のアカウントへと飛び、覗き込む。彼は今も、活発にネットワークの世界に足跡を残していた。別のディスプレイ上で彼の名前を検索窓に放り込み、彼が彼女と同じゼミであることを確認する。彼の公開している写真に写り込んでいるものから、彼の身長を推測する。やたらと大きな男で、おそらくは185センチ近い。ケイゴから手渡された写真に視線を戻し、定規のソフトウェアを使い身長の比率を割り出してやると、ナナコの身長はちょうど150センチよりほんの少しだけ小さいくらいだった。大男の脇に立っていることで、彼女の体格の小ささがより強調され、僕はなんだか彼女が今にも存在感を消して、画像上でもぼやけたモヤのようになってしまうのではないかと錯覚した。僕ナナコが映る集合写真に映り込む他の人物の数を数える。大男と彼女の他に七人がいる。僕は彼らの顔を切り取って検索をかけて、情報を吸い上げる操作を行うプログラムを書きなぐり、別のディスプレイでプログラムを走らせる。プログラムが実行される少しの間。僕は彼女の画像に顔を寄せ、その立ち姿、顔つき、手足の持つ熱量、目の前に居たらどんな風かを想像する。いつもの計測ルーチンと同じように。彼女の体温と、部位による体温の差異を想像する。彼女の輪郭を目に焼き付けて、想像上の熱の分布を作成する。彼女の熱量が動く様を想像し、彼女がどういう人間であるのかに思いを馳せる。どういう風に歩いて、どういう風な振動を起こすのかを、空想上の計測値を躍らせる。
さて、これまでに集めた情報からでは、彼女が彼女個人の像を意図的に隠そうとするタイプの人間であるのか、それとも活動を公開する習慣のない人間なのかは判断できなかった。ただ、失礼な物言いになるけれど、一つ言えるのは、どの写真の中でも彼女の存在感は埋没しきっているように見え、僕にはとても、ナナコがケイゴのような男を惹きつける魅力を持った女性には見えなかった。プログラムは結果を吐き出し、僕はそれを追いかけていく。メモ帳を立ち上げて、彼女の周りの人物のプロフィールを、公開されている写真と対応させながら洗い出していく。かき集めた彼女の周辺情報の瓦礫の山から、透明な彼女の輪郭を探って色を塗っていく。液体というよりは気体に近い輪郭、色も形もない輪郭を蒸留して、濃度を挙げていく、そうすることでやっとおぼろげな姿を掴むことができる。その後は、計測の準備に入る。彼女の趣味や男との交友関係まで掴めれば、計測をしなくても良いのだけれど、それは望めそうもなかった。これまでに洗えた輪郭があまりにもぼやけすぎている。一回計測の準備を始めると、僕の興味は彼女個人のプロフィールから、彼女の体温と動き方に切り替わる。センサ、僕の神経の代理人達が捉えた計測値が描き起こすグラフ達。彼女がどういう時にどういう身体の状態になり、感情や思考を含めどういう精神状態にあるのかを推測する。計測を元に推測を繰り返すこと。繰り返すことで計測の経験が溜まり、計測対象についての予測が遥かに立ちやすくなる。繰り返しの快楽を思うと気持ちが昂ぶった。僕は口元が水っぽいのを感じて、右手でそっと涎を拭った。
ああ、気がついた。今回は普段の計測とは違う。僕自身のためでなく、ケイゴの依頼で行うのだ。だから、繰り返し記録をしなくてもよいはずだ。単純な事実を僕は思い出した。彼女の身体全体の温度の分布のことは一回忘れて、彼女の周辺情報の整理に改めて集中した。リストアップした周辺人物を上からなぞっていく。大学の同級生、今は貿易会社の若手、銀行員、建築事務所所属、大学院へ進学した者、海外に留学した者、飲食チェーンに努めている者、現在の職業がメモ帳に並び、彼らの顔写真と、彼らが公開する写真に映る顔たちが並ぶ。いくつかの写真はナナコを捉えていたが、彼女が小柄であることと、いつも髪の色を比較的明るめにし、短く切りそろえていること、それ以外は何も新しい情報を得ることはできなかった。写真の中の表情はいつも同じで、彼女は撮影者が彼女を捉えようとする度に少しぼやけながら、彼女の引き出しから用意された簡単な笑顔を取り出して顔の上から貼り付けていように見えた。映り込むことや撮られること拒む彼女の意図が頭の中で複数の彼女の像を重ねるとはっきりと姿を表し、鋭く声に出して「撮らないで」と、記録されることを嫌う澄んだ真っ直ぐな目で見られている様な気がした。計測しようとしている相手の意図が現れることは珍しいことだった。ナナコは、そういう意味で、僕が普段観察している女性たちと少し違うように思えた。明確な拒絶を示しながら、殺すために誘い込むかのように、毒気と色気の合間の怪しい煌きの中で、すっと長い刀身を見るものに向けているようだった。心臓がドクンと鳴る。身体にピリピリした何かを感じて、飛び上がりたくなるような何かが、胸の底から熱が湧き上がるのを感じる。僕は手元のグラスの中身を呷り、鼻に抜ける樽の香りと、アルコールで僕自身を抑え込もうとする。立ち上がって、薄っすらと差す光を見た。情報が少なすぎるせいで、僕は座っているのが馬鹿らしくなって、ケイゴから聞いたナナコの最寄り駅の場所を調べて、大体の場所を頭に入れた。
気づくと僕は外を歩いていた。昼下がりの太陽は弱々しく、染み入り張り付く湿度も温度も失せていた。どちらかというと涼しさを感じるくらいで、僕は拳を握り、首筋に一瞬だけ手をあて、自分の体温調整がまともに働いていることを確認した。なんだかいつも、僕の内部の神経、僕の感覚機器の正常さを確認したくなるのだ。もし駄目になったら、その時は僕のお手製のセンサたちに入れ替えないといけない。
気づくとナナコの最寄り駅の改札で、未だ見ぬ彼女の真の姿を探していた。過ぎ行く人々は、体温が色で可視化されなくとも、明確な輪郭を持ってそこに存在し、目で見た景色が僕のことを、振動や温度を計測するよりも、目で見る方がずっと早いのにと哀れみ嘲笑っているのが聞こえる気がした。僕はそういう声を聞かないようにし、視覚の明瞭さに助けられることも、残酷に欺かれることもあることを思った。それでも、見えるものだけを信じるよりも、僕の計測からの方が多くを知ることができることもある。
見るだけでなく、物質としてのエネルギーを通じて、そこから僕は、彼女たちの真の行動や心を推測するのだ。
真の行動?真の心?そんなものあるのだろうか?
ショートヘアの女性が改札をすぎる度に、歩き姿を正面、そして横から、横顔、そして後ろ姿、足先から首元までのフォルムを目で追いかける。その人ではない、あの人でもない。時間は経過し、数十人を追いかけたくらいで、僕は喉の渇きが我慢できなくなって、売店で買った水を喉に流し込んだ。ナナコはいつ通るだろうか。最寄り駅で待っていれば、いつか必ず姿を表わすはずだ。張り込みはあまりにも古典的だけれど、効率的なのを僕は知っていた。
頭の中にぼやかされた彼女の像の重なりが、先程部屋の中で思い浮かべたのと同じように、拒絶するような姿を織りなす。イメージは少しずつ膨らんで、彼女という刀身が再び姿を現す、切っ先を恐れながら、煌めく反射光に僕は誘われて、間合いを詰めていく。あるいは彼女の方から、一歩二歩、距離が縮まっていく。 あまりにも近い凶器との距離に身構える。 没入していた感覚が引き戻される。耳から遠ざけられていた音の粒たち、空気の振動が元の位置に戻る。ナナコを早く見つけたい。。
短く切りそろえられた茶色の髪をした女性。すれ違いざまに見えた真っ直ぐな鼻筋。僕の直感が彼女こそナナコだと告げていた。彼女に違いない。十分後ろから、見失わないようにそっと後をつけ始めた。尾行を含め、付け回すことは、本当は趣味じゃない。足裏の温度、ふくらはぎの表面の熱量、臀部の感触を予期させる運動量、腹部、その奥底に潜む臓器の熱量、運動、内容物、僕は計測される彼女を想像する。今回は本当は測る必要なんてない。ケイゴからの頼みに答えれば、それでいい。でも、僕がケイゴの頼みに答えるのは、測ることでしかできないと思った。他の誰でもなく、僕として答えたいのだ。ピッタリ電柱十本分、その距離感を保ちながら僕は住宅街を歩いていく。僕の前を偶然、スーツ姿の男が僕を遮るように歩いていた。その男には特段何の興味も湧かなかったが、僕は視線を隠すために彼の革靴からジャケットの襟までを撫でるように何度も見た。彼女が角を曲がり、僕は少し歩く速度を上げる。彼女は天井の高い小綺麗なマンションのエントランスへと入っていき、オートロックの向こう側のエレベーターへと乗って上がっていった。
運良く別の住人がやってきて、僕は一緒にエレベータの前へと入り込み、彼女の住む部屋がどうやら三階であることを確認すると、一度三階で降りて左右を見、息を飲む。招かれるように無意識に見つかる可能性の高い所に自然と足を進めてしまったが、フロアに立つと恐ろしさが眼前に仁王立ちしていた。彼女が玄関から出てきたら、非常口に逃げ込もう。端から端まで、廊下を一通り歩く。六つの部屋のうち二つのドアに名字が掲げられていた。僕はそれを確認し、名前のわからない四部屋の番号を頭の中のメモ帳に書き留めて、一階へと降り、今度は郵便受けを確認する。視線を確認する。誰も居ない。監視カメラは一つ。暇そうな目で虚空を見つめている。監視の目はない。安心した。郵便受けに掲げられた名字と、投函されている郵便物の宛名を見、頭の中のメモ帳から番号を消していく。消去法。残されたのは、一つの名前のない郵便受けだった。部屋番号を頭に入れる。偶然の重なり、見つけられた興奮、トントン拍子。筋書き通りかのように。追跡を誰かに咎められる気がして、僕は早足でその場を立ち去った。部屋の番号、ドアと鍵のイメージ、頭の中の彼女の像が少し明瞭になった。少し前から歩いてくる黒いパーカーを着た男がキョロキョロと周りを気にしていた。男が「キタガワさんの家を知っていますか?」と聞いたように思えたけれど、気のせいだった。男は怪訝そうな顔で僕を見て、何かを探しながら去っていった。
ナナコの部屋番号が頭を踊る。
彼女の研いだ刃の切っ先が僕の胸にそっと触れて、ツウと肉の上を滑って、パックリと切れた表皮に鮮血が染み出してくるように感じた。警告されているように感じた。隣駅まで駆け足で歩いた。部屋番号が偶然見つかったことは何かの予兆のように思えた。ふと悪い景色が頭の中にぐちゃぐちゃと湧き立ちそうになった。向こうから来たクルマの行く音がザラザラとしたノイズに聞こえて、何処かに押し込まれてしまうかと思った。忘れてしまうといけないから、部屋の番号を財布の中のレシートの裏に書きつけた。吹き出たさらりとした汗をティッシュで拭いながら、名前もなく、空のまま佇み、訪れるものへの拒絶の意志を露わにするナナコ部屋のポストを思い出した。冷たい黒い金属の色合い。触れるものを音もなく、意味すらなく切り裂こうとしてるようにも、暗がりで見つけて欲しそうにも見えた。口の中の水分を飲み込もうとしたが、渇ききっていて喉の運動は空を切った。僕は酒屋へ入り、ケイゴが買ってきたのと同じ銘柄、同じ年代のものを探した。時間の経過を溜め込んだボトルは美しく装飾された箱にしまわれ、熟成の時間に対して価値がつけられ、時間と価値で序列づけられて並んでいる。目当てのウィスキーを見つけて、箱の重さを確かめ、そっと置いた。時間の重さを確かめたくなるのはなぜだろう。ほとんど瓶の重さだというのに。結局、僕は安い方から四番目の、いつも買っている奴を買って、口に含んだ時の薬品のような甘みを思い返した。いつもの物を手に入れると、心が落ち着き始めた。
次は家にセンサを仕掛けなければ。彼女の家の間取りと、必要なセンサの種類と個数を検討ながら、覚めつつあり、平静に戻りつつある自分の感覚にすこしうんざりして、早く家で香りを鼻に通したいと願った。家に帰る時に、僕の家のポストが目に入った。ダイヤルを回して中を覗くと、沢山のやかましいチラシ達。こういう奴らに来てほしいわけではないのだ。薄っすらとした拒絶の色と、冷たさ。色合いが今日見たナナコのポストに似ている気がした。
とても、似ている気がした。
家に帰って、センサを一つ手にとって、じっと見つめた。振動や温度を電気信号で感知する、僕の神経の代理人、身体が裏返って、僕の感覚器はとうの昔に、お手製の小さな無器物の集合体になってしまっているように感じた。僕は右手で左手首の下をギュウと握った。握る力はセンサに伝わって振動として見えるだろうか?計測者としての僕は多分そこにいる。
だったら計測者でない僕は?
そんなもの、もうどこにも居ないような気がした。

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