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レクエイム・フォー・ドリーム:夢を鎮魂した20年後、夢を世間は笑う

「名作なんだけれど二度と見たくない、でも見たい」と感じる映画を数本上げろと言われたら、レクイエム・フォー・ドリームを選ばざるを得ない。誰もが抱える心の弱さ、それを埋め合わせるために見る夢がもたらす破滅的な結末は心の奥底に深く突き刺さる。夢や虚構を貼り合わせることでしか成立しない現代社会を暴きつつも、そこから逃れられないこと、逆説的に、夢がとどのつまり、救済であることを提示する。

レクイエム・フォー・ドリームのおすすめポイント

あまりにも軽快でコミカルなドラック(ヘロイン/ダイエットピル)摂取の描写、テンポが良く、見ているこちらも気持ちがいい。ドラッグムービーとしては最高峰の描写ではないだろうか

ダイエットピルのもたらす幻覚症状のリアル(人を襲う冷蔵庫)とテレビ番組と食べ物の中毒性のリアルが重なる様

登場人物四人の人生が転落していく様に没頭させられる。破滅するまでは止まらない。展開から容易に予想できる破滅への期待に引き込まれ、映像に没頭できる。

見ていない人、特に幸せな物語を見るよりも、陰鬱な物語を摂取することで世界のダメさを再認識することに癒やし(これもクソなワードだ)を感じる映画好きの皆さんにはおすすめできると思う。間違ってもTinderで初めてデートする子と見てはいけない(逆に言えば、1つのリトマス試験紙ではある)

トレイラー:ピル摂取の表現

トレイラー、サムネイルを見ていただけば、薬物摂取の結果何が起こるのかは想像に難くないと思う。最終的に「電気療法」を施されるシーンである。

1:00前後のダイエットピルを摂取するシーンを聞くだけでもこの映画の魅力は伝わると思う。人を破滅に導く薬物を、小気味よいリズムで表現している。極小の心地よい表現は、それが延々と繰り返されてほしいと思わせるような、ある種の中毒性を持って観客へ提示されう。陰鬱なシーンが嫌いなかたも、この音が聞こえるシーンまではぜひ見てほしい。むしろ一種の、楽しさすら感じるはずである。

監督:ダーレン・アロノフスキー

今検索するとスティーブ・ジョブズのような顔立ちの写真がgoogle検索により提示されるようだ。レスラー、ブラックスワン、マザー辺りは有名だろうか。ニューヨーク生まれ、ハーバード大卒のロシア系ユダヤ人は、次のfilmarksにあるように、端的に言えば、肉体もしくは精神の不可避の破滅を描くことを得意としている。

現実は固くそびえ立ち、奇跡など存在しない。落ち目から逃れることは不可能だ。肉体は老いる。不治の病に救いはない。書き上げられた物語でさえ、物語の神である作家に打ち捨てられる。彼が描く転落や破滅の物語はある種の美しさを表出させ、辛く悲しい出来事で現実が成り立っていることが描きあげられる。現実に救いはない、それ故人は物語や夢を求める。しかし、物語や夢もまた、必然的な破滅を内包している。レクイエム・フォー・ドリームは、夢を描き、そして現実からの脱出口としての夢を悼む映画だ。夢を悼む映画。それゆえ、決して陰鬱な映画ではない。陰鬱な映画No.1 という期待値で見ると寧ろ拍子抜けすると思う。私にとってはむしろ、スタンドバイミードラえもんの方が遥かに陰鬱な映画である。

登場人物とあらすじ

ハリー:サラの一人息子、高校卒業後働くこともなくヘロインを打ってラリパッパになり、自堕落な生活を続けている(いい時代だ、それが許されるのだから)、サラの唯一の生きがいであるテレビを質屋に売っぱらってクスリ代に替えようとするなど、どこの国にもいるドラ息子。恋人のマリオンとの幸せな暮らしを夢見たり、人並みに母親であるサラを気遣い、親孝行しようとする。平凡な悪を体現するような青年。

サラ:ハリーの母親、夫に先立たれ、息子も一人の人間として悠々自適に振る舞い、親友と信じられる人間もいない。友人たちは彼女を見舞ったりする描写があるから、彼女は根本的に人との関わりを苦手としていそうだ。テレビだけが生きがいであり、テレビを見ながら摂取するチョコレート等のお菓子に夢中であり、糖分に身体はだらしなく老いている。テレビに出て『成功者』として大勢から承認されることを夢見ている。

マリオン:ハリーの恋人、いいところのお嬢さん。洋服をデザインし店を出すことを夢見ている。ドラッグで得た収益でハリーと一緒に夢へと一歩一歩近づく様はいかにも幸福そうだ。職業や金銭などに見向きもせず、ハリーとの純愛を信じるが(純愛の夢)最終的には恋人に売られたり、禁断症状に苦しめられた挙げ句夢破れ、アナル相撲をさせられた挙げ句、今度はドラッグという別の夢からは逃れらないまま終わるなど、最終的に一番辛い(裏返しとしての幸せな)目に遭う。

タイロン:ハリーの友人の黒人の青年。母との幸せな暮らしを実現するため、成り上がることを夢見ている。黒人であり、学もない彼にはギャング内での実力による成り上がりしか残されていないのだ。ある意味で、夢ではなく現実を生きていると言える。それ故、彼だけは夢に破れたと言うより、最終的には強固な現実に飲まれていくのである。

次のブログにあらすじも詳しく書かれている。かなり共感度の高いブログでした。

鎮魂されている夢とは?

本作で描かれている現実は強固な平坦さを持つのであるが、直接は人を活かしも殺しもしないように見える(ハリー達も、サラも、貧しいながらもそれなりに暮らせている)。現実の空虚さはサラにダイエットピルを処方する医者の態度にも現れている。医者はサラの体調についての話を一言も聞かず、クスリのみを処方し追い返すのだ。サラを正常に戻すための手術もあまりにも空虚だ。正常に戻る見込みがないのに、電気ショックが繰り返される。それも、手術へのこれまた無意味な形式だけの同意書を元に、苦痛が与えられる。ハリーの腕が壊死に近づいていることはそっちのけで、異常な薬物中毒者の逮捕にやっきになる警官。正常な社会の構成要素がことごとく薄っぺらいことを暴く(暴くと言うより、社会は自明な空虚さを持っていることを再確認させられる)。各人をドラッグに駆り立てていく大元の夢もまた、凡庸であるが叶わない儚さを持つ。特にサラの場合は。テレビという仮構の場での多くの他者からの承認されたいという夢に溺れていく。タイトルのAは、一般的な夢に対して用いられていると言えよう。空っぽの現実から逃れるための埋め合わせとしての夢はまた空虚だ、叶わねば叶わぬほど、空いている空洞は広がる。レクイエムは「永遠の安息(レクイエム)を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ」という神への祈りである。夢などもつから敵わないという状態が生まれ、夢を脅迫的に追い続けるという負の連鎖もうまれかねないが、空虚の袋小路にいる僕らには、夢はどうしても必要だ。それゆえ、救いを祈ろう。どんな夢に対しても。「夢なんて持たないほうが良い」「夢を持つから苦しみが生まれるんだ」といった言説は福本漫画(涯)のようにしたり顔した言説として跋扈してるが、夢を想うことの経済合理性を考えるなどした場合はそういう結論にもなりうるだろう。しかし、魂の問題や社会の問題は経済合理性のみが規定するわけではない。辛い現実、それを受け止めるだけの精神的な強さの欠如(恋人を売る、純愛を捨てる、友達と呼べる人がいないと感じる、母の言葉を忘れ、ただ偉くなろうとする)、両方が反復運動をして、心の空白を広げていく。辛い世界だから心が弱くなるのか、弱いから世界を辛く感じるのか。

20年後、夢は笑い飛ばされる:ジョーカー

加速度的に格差が広がり、社会というバスに座席がたりなくなった頃、辛い社会、空虚な生活、ハリボテのような世界の中の弱者が見る夢を笑い飛ばす映画が現れた。ジョーカーである。弱き者心の埋め合わせのための夢は笑い飛ばされる。テレビで、大勢の前で。ジョーカーでも夢は救いとして描かれる。病気による障害を抱えるアーサーはコメディアンになり、人々を笑わせることを夢に見る。テレビに出演し、有名コメディアンであるマーレー・フランクリンにささやかな家族の暮らし、幸せを讃えられることを夢に見る。レクイエム・フォー・ドリームのサラと似ていないだあろうか。彼女もテレビに出演することを夢に見て、平凡な暮らしを讃えられることを夢に見る。後述の参考資料の記事にもあるが、アーサがーが囚われているのもまた、サラと同じ承認への欲求である。「普通に」生きてきたのに承認を得られなかったサラと「普通に」生きることを認められなかった、社会の内側にいることを認められず、はじき出されたアーサー。SNS全盛期のウェブの上では承認欲求は否定的に扱われがちだが、承認がなければ人が生きていけないのもまた事実であるように思える。

賞賛や承認を介して、自分自身が誇らしさや力強さを感じること。心理学の一分野では、これを「鏡映自己対象によって自己愛を満たす」と言うそうだ。

自己を愛すために夢を見て、自己を愛するためにサラはショートカットとして薬物を利用して堕ちていく。しかし、夢を笑うものはいない。彼女の友人たちも、堕ちきってしまった彼女を哀れには思うだろうが、夢自体を否定しない。ハリーに関しても同様だ。母親がダイエットピルを利用することにショックを受けはするが、最新のテレビを買い与えることで親孝行をし、夢を否定することはない。アーサーはそうではない。自己愛を満たすための夢は否定される。笑い飛ばされる。大勢の前で。夢を実現するためにクスリを手段として用いたサラと異なり、夢を見るための土台としてアーサーはクスリを利用する。暴動を起こした多くの民衆も同様だろう。夢を見るための痛み止めを利用し、貧しい状況におこまれても痛みと不安のない「正常な」暮らしをするために薬物を利用する。しかし、圧倒的格差の前に夢は矮小化され、夢を語った結果笑い飛ばされるとしたらどうだろう?荒廃した救いのない現実、現実から逃れるための夢は閉ざされる。ならば現実を壊そう、壊すためには暴動だ。それにより、夢を笑われたことに触発され、多くの民衆がジョーカーでは立ち上がる。

Arthur Fleck: How 'bout another joke, Murray?
Murray Franklin: No, I think we've had enough of your jokes.
Arthur Fleck: What do you get...
Murray Franklin: I don't think so.
Arthur Fleck: ...when you cross...
Murray Franklin: I think we're done here now, thank you.
Arthur Fleck: ...a mentally ill loner with a society that abandons him and treats him like trash?
Murray Franklin: Call the police, Gene, call the police.
Arthur Fleck: I'll tell you what you get! You get what you fuckin' deserve!

参考資料

記事を書いていて新しい記事を見つけたが、アーサーは土壇場で自殺することを止め、マーレーを殺害することを選んだという設定をトッド・フィリップス監督が語っているようだ

米Colliderにフィリップス監督が語ったところによると、アーサーは土壇場で心変わりし、自殺するのではなく、マレーを殺害することを選んだのだという。アーサーは生放送中に自殺するつもりでいたものの、「あの瞬間に考えが変わった」というのだ。


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