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(聖) 主語を大切にして! (聖書の学び 31)

(約 2,000文字の記事です。)

正しい教えは、人種、時代、性別、価値感、それらを超えて普遍的に受け継がれている。私が信じる聖書の教えもそうだと思っている。

だからこそ2,000年以上の時を経て、人種、国家、性別を超えて受け継がれていると信じている。そうそう簡単じゃないよ、二千年以上の歴史を作るってことは。

親子20代以上語り継がれている歴史の長さ、そしてそれを信じている人がここにも一人はいるわけで。

*祈りの効果=言葉にする

祈るためには言葉にする必要がある。念じてはいけない。言葉にする必要があるのだ。念は誰にも通じません、神様にも通じません、もちろん人にも通じません。念じて通じるなら、それは最高に「楽(らく)」だからです。ですが、言葉にするためにはエネルギーが必要です。手抜きできません、楽できません。念じるのは簡単だけれど、言葉にするのはとても大変。

そして言葉にすること、それを神様は善しとしています。

*言葉にすること、これは大事なことです。

そして聖書ではなんと言っているか?はじめに言葉ありき、なんだな。なので、聖書では「言葉」をとても大切にしています。祈る言葉も、相手に言う言葉も、等しく「言葉」です。言葉を大切にするのが聖書の教えです。

*主語、それは誰ですか?人ですか?その人って、誰ですか?何さんですか?

主語を曖昧にすることは簡単だ。

世間、人、「って言われた」、「一般的に、」etc...

それ、誰ですか?

顔のない人はいない。必ずある。で、男ですか女ですか?それはどこにお住まいの、何歳の、どういう家族構成の、誰さんですか?


主語をぼやかすと、一般論を持ち出しやすい。でもそれ、本当にあなた自身に価値がある情報ですか?どこの誰が言ったことですか?発言者の責任は?

*どこの誰とも知らぬ「顔のない第三者」が作った情報に踊らされていない?

主語をぼやかすと、色んな押しつけができる。大抵は「一般論」で言いくるめて、発言者の都合のいいように話を進めるために、この手法が用いられる。

でもさ、それって「誰」が言ったの?発言内容の責任の所在は?正しさは?どうやって検証するの?

それを煙に巻いて「とにかくこれに従え!」を押しつけるために、顔の無い一般論を「主語」に持ってきやすい。

*で、それって誰?

私はそう思うのだ。それを示すのを嫌がるのは、それを提示できない人だ。つまり、主語を隠してあなたを理想通りに操作しようとしている人。

真に誠実な人は一刀両断で即答できるのだ。

そこに誠実さ=聖霊の存在を伴って言ってくれる人と、誠実さを伴わずにあなたを都合よく使おうとしている人の差、を感じる。

ほころびは必ず存在する、なぜならば、闇は光に打ち勝たなかったと聖書に書かれているように、悪しき行いは善き行いを駆逐することはできないのだ。そう信じている。

何を信じるかは各自の自由です。


*主語がなければ「祈れない」

誰に祈るの?何を祈るの?主語がなければ文章にならない。それだけ。

実はそれは全ての行動に当てはまる。特に理由、所在、責任、そういうことになると、主語無しの文章はあり得ない。責任の所在が不明確になるからだ。これは法律文章でも言える。はっきり言うためには、誰が何をどう、を明らかにする必要がある。ぼやかすことはできない。それは明言ではない。かなでなければ、祈れない。

祈りには実はそんな効果があります。日々の祈りの中で、言いたいことをシンプルに研ぎ澄ます効果。これはやってみないと伝わらないし、実感もできないだろう。


*結論:「主語」のない情報に踊らされるな!翻弄(ほんろう)されるな

今回の結論。主語は誰?どこのなにさん?

これがなければ全てフェイク。情報を操作しようとしている人がいて、その人の操作にハマろうとしている。それを見抜く唯一の情報、それは主語の存在


こんなことは聖書には書かれていない。私の解釈に過ぎない。だが、誠実に祈ろうとすると絶対に避けられない「主語」。そして日本人が苦手な「全てを明らかにした文章の作成」。ここに主語が関わる。そのトレーニングに、祈りがある。

主語を明らかにして下さい。それだけで色んな悩みがはっきりと分かります。分かった上で、対処方法を模索してみて下さい。もやもやの中で検討しても、それは時間の無駄です。

主語を明らかにせよ。


それだけ。


今回の創作活動は約30分(累積 約1,530時間)
(433回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊