シンキグタイム_1

(聖) 自分以外の何かをきちんと信じることのメリット (聖書の学び 12)

なんて罰当たりなタイトルwww 神様、お許しください。かつての私もそうであったように、「自分以外を信じることができない状態」では、まずはメリットありきなのです。メリットがなければ行動しないし、また行動したくないのです。それ自体が心にサタンさんの影が落とされているのですが、神がなければ悪魔もまた、ないのです。ないものは認識できないのです。

さて、本題。

自分以外の何かを信じることのメリットです。具体例としては「神様を信じてみよう!」ってことで書きますが、神に限らず、ご自身の信ずるに値するものなら何でもいいです。

ただし、ここで「俺は俺を信じる!」ってのは、なし。それはなぜか?

人は自分自身のことがよく分かっていないから

聖書のお話で言うと、

分かっているつもりで物事を見ていると、大切なモノが見えておらず、分かっていないことを理解した上で分かろうとすると、大切なモノが見えてくるということ。

聖書読んでから、この考え方、沢山のことに当てはまることに気付いた。そして、聖書にも何回も出てくる。普遍的な大切な考え方なんだな。きっと。

だから、自分を信じる、でおわって無宗教でい続けるってことは、これからの人生の様々な出来事から何も学ばずに生きるということに等しいのだろう。それが嫌だから、人は、日々の中で何かの成長を得るために、ミリオンセラー本や自己啓発本を読んだり、情報収集したり、富を高めようとするわけだ。

なぜ?

それは不安だから。

不安なのである。世界で「自分のことしか信じられない状態」ってのは、不安いっぱい。だって、自分の力の及ばぬ範囲のことに対して、何もできない自分という事実を認めるのが怖いから。奇跡すらも願えないのである。だって、それ、一体誰に・何に願うんだよ?

自分という小さな世界しか信じられないんだもの。ミラクルを願うことも、正しいことをしようとするための挑戦も、その結果を受け入れて生きることも、自分を信じているだけで、十分か?何か足りない気がするのだ。

最大瞬間風速なら「勢い」でなんとかなるかも知れない。でも、これから何年も、ずっと、歩き続けるのに、それで心を安定させられるのか、不安だ。

でも、、、

宗教って、怖いイメージ

これも事実なんだな。特に新興宗教による怪しい教えによる影響が、宗教に対する悪いイメージを広げた気がする。だから、ここでは、というか、今後も、「宗教」という大枠で何かを語ることはしない。そして、私自身も宗教に属したつもりはない。だから、むやみやたらと宗教について語ることはしない。

私は、聖書の教えに従い、神の教えに従って生きることを決めただけであって、それ以外には、特に何もしていない。組織団体にも属していない。信仰心さえあれば、神も聖霊さんも、常に私と共にある。風呂もトイレも一緒w 神を信じるためには聖書と信仰心の2つがあれば、それ以外に何も要らない。ルールはそれだけ。

私がnoteで書きたいのは、聖書の教えが、人が善く生きる上でとても大切なことを教えてくれているよ、ということを伝えたいだけなのだ。神を信じなくても、人としての良い振る舞いは、聖書を読書するだけでも学べる。その振る舞いの元となる考え方のコアを知りたければ、信仰心を持って聖書を読む(学ぶ)だけでいい。あとは心の声(聖霊さん)が教えてくれる。

で、メリットって何なのよ?

無駄な心配をしなくてよくなる。これです。

もちろん、心配の種が奇跡のように消え去る訳ではない。ここを勘違いしないでね。神が奇跡を行っていたのは1600年以上前の話なので、今は無理です。神も使徒さんも地上から不在なので。離席中w なので、奇跡は起こらない。残念。

どんなに信じても、無理なものは無理。

ただし、神が不在なのは「地上」だけであって、ちゃんと天から見守っていらっしゃいます。地上と天って、遠いぢゃん。どうやって通信するのよ?そこで神は人の心に聖霊さんの種を埋め込んでおいてくれたのです。だから、信仰に関わらず、誰にでも良心があるようになっているわけだな。もちろん、信仰心によって聖霊さんを卵からかえし、大きく育てれば、よりよく神の教えを聞くことができる、つまり、より正しい判断をできるようになるってことだ。

結局何も変わんねーじゃん!無駄・無意味w

だいたいの人はここで終了ですね。大したメリットだと思えないから、学びへの意欲が湧かない。分かるけどね。

でも、心配する気持ちそのものを、小さくしたり軽減したり、なくしたりすることができるって、これ、かなりのメリットだと思うのよね。

心配・不安・憂いの気持ちは、すべて自分自身で作り出しているのだが?

もちろん、論理的に、原因と結果があり、その延長線上の未来に問題があるのならば、当然ながら憂いが生まれる。根本的な対策は、その問題を解決することだ。

だが、その問題解決までに、長い時間を要したり、そもそも解決できるかどうかが分からないとき、あなたはどうするか。答え、不安にさいなまれながら生きるしかない。自分しか信じられないなら、そうするしかないし、そうすべきだろう。頑張ってください。

一方で、他人が感じている憂いの気持ちは、肉体1つ隔てた他人からすれば、まさに何でもないこと、どうでもいいことなのだ。今日は風が強いなぁ、位にしか感じない。誰も何もしてくれない。(してくれる人がいたならば大切にしてね。)

まぶたは閉じれるが、網膜は常に光に反応する

憂いを紛らわすことはできるが、あなた自身は常にその問題のことを考えている。不安な気持ちは、少しは変化させることはできても、なくすることは難しい。自分だけでは。しかしながら、不安な気持ちは「自分自身が生み出している」ということも事実。

自らが生み出している感情であるにも関わらず、自分では制御できない。

これって、論理的にはかなり不思議なこと。でも、人としては自然なこと。

信仰心とは、心を論理制御するツールと考えてはいかが?

神様、ごめんなさい。でも、見方を変えると、そうなんです。

今、私に起こったこの感情(特にネガティブな感情、不安、怒り、迷いなど)は、なぜなのか?なぜそれを生み出さねばならないのか?どうやったら鎮められるのか?あるいは消し去れるのか?

聖書では、その対処法が、イエス様や使徒の振る舞いを通じて教えてくれています。聖書の読書は、まるで、受験数学のような「問題の解き方」を教えてくれます。

聖書からの学びは、方程式や定理の理解のようなものかな?それを問題解決にどうやって使うかも聖書に書かれている。

方程式や定理が分かっていれば、未知の問題に出会っても、いけるとこまでは行ける。それから先は神がお導きになる。不安はだいぶ軽減される。やれそうなことははっきりしているから、そこに不安を感じる必要はないし、やり尽くしたら、あとは神様お願いって、不安を神に放り投げることもできる。神は喜んでその不安をお預かりくださる。そして代わりに祝福をくださるでしょう。

不安預け入れボックス、あるいは不安・安心コンバータ

なんだかいきなり世俗的www でもこれなのである。不安という気持ちをなくすることが、信仰の大きな機能なのだ。なぜならば、よりよく生きるためには不安は要らないものだからである。聖書の教えでは、自分が受ける不安と、自分が他者に与える不安とを、なくすることを教えている。

隣人愛は、互いによく知りみんな仲良くね、って事。

右頬をぶたれたら左頬も差し出せってのは、反撃することによって受けた痛みを即座に反射的に与えるな、ということ。即座にやり返すよりも前に、やることあるんだからそっちに手を付けるまでは左の頬でも差し出して、憐れな者を放っておけ、って事。

(ここで大切なことは、むやみやたらとやられっぱなしでいいよと言っているわけではない。聖書にも、本当に少しだが、確実に「怒る・反撃する」べき条件が書かれている。そのときには容赦してはならない。聖書ではことごとく、大切なモノを奪うことにより罰が下されている。あなたが生きる上で大切なもの、アレですよ、アレ。)

問題解決は人の仕事、不安解決は神の仕事

結論は、これです。問題はなんとかして人が解決するしかないが、心に沸き上がる不安は、神がきちんとぬぐい去ってくれます。信仰心を持つと言うことは、心の不安を神に預けるためのチケットを手に入れる、ということなのです。

不安解消の手段としてでもいいから、新約聖書の福音書(最初のマタイを飛ばしてマルコによる福音書からスタートがオススメ)を読書してみてはいかが?

無料の聖書アプリ(iOS用Android用


今回も、だいぶ長いな。一言で簡単に伝えるには、どれもこれも難しい。分かってしまえば、一言なのだが、分かりやすく伝えようとすると、なかなかに難しい。そして正しい解釈なのかどうかも分からないが、今のところ、きっと正しいに違いないw 初心者だからなぁ。

今日は天気がいいので青空の下で聖書を読むことにしよう。
iPadアプリは画面が広くてiPhoneよりも読みやすい。



(178回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊