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いつかまた、いけふくろうで待ち合わせを

20代前半の頃には、東京に頻繁に行く年があった。ある時は高校から付き合いのある友人たちや、またある時はかつて勤めていた職場の同僚たちと、池袋の駅構内にある「いけふくろう」でよく待ち合わせをしていた。

現在では、Google Mapなどを始めとするスマホの地図アプリさえあれば、行き方を案内してくれたりとスムーズにたどり着くことができる。
しかしあの頃はiPhoneやAndoridなどの「スマートフォン」自体が、私たちの生活に浸透していなかった時代だ。
各所に配備された案内表示板や地図に掲示されている現在地を見て覚えながら、ひたすら目的地を探すしかなかった。

そもそも東京に慣れていなかった当時は、池袋駅の構内が思った以上に複雑すぎて理解が追いつけず、目的地である「いけふくろう」に行き着くまで迷いに迷いすぎて苦労した覚えが未だに記憶に残っている。
その結果、普段なら余裕を持って待ち合わせ場所で待っているどころか、別の意味で「真打ち登場!」みたいに待たせる側の人間に成ってしまうこともしばしばあった。

そんな中、あれから10年の月日が経った。一人上京して、特に池袋駅とその周辺をあちらこちらへと足を運び、ある種の「経験」とやらを積んできた。
あの時と比べたらほとんど迷うことはない。JRや私鉄に地下鉄などの改札口がどの箇所にあるか、どの方角や通路を歩いていけば出口に辿り着けられるのか。

そして、かつてよく待ち合わせ場所であった「いけふくろう」がどこにあるのかも、ピンポイントで探すことができる。構内図はほぼ全てにおいて予習済みだ。


小学生の夏休みに家族旅行で生まれて初めて、池袋という東京の地を訪れた時から
胸の高鳴りを覚えた私の心は、今じゃ沈黙の臓器と成って止まったままである。

皮肉なことに、そこで人と待ち合わせする機会はほとんどなくなってしまったのだ。昨今の事情や自分を取り巻く事情がまるで化学反応を起こしたかのように一気に雪崩れ込み、窮地に追いやられてしまった。
自ら望んで憧れを抱いていた東京に降り立ってようやく、池袋という地にも自ら選んできた場所にも住み慣れてきたはずだったのに。

それでも、月に1、2回の頻度で用事があってそこに降り立っている。その用事もあと数回をこなせば、いずれ「用済み」という形でスタンプを押されることになるだろう。
そうなれば、自分の身の回りに足を動かすようなきっかけや、余程の行かなければならない事情が起こらない限り、やがて足跡を残すことすらなくなってしまうかもしれない。

次にあそこで誰かと待ち合わせをするのは、果たしていつのことになるだろうか。いや、それよりも当たり前のように見かけていた「いけふくろう」と会えるのは、あとどれくらい残されているのだろうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!