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政治講座ⅴ899「歴史の一ページ、伊藤博文の暗殺と天皇の一言」

 歴史を垣間見たような気がする天皇の一言の記事を発見したので紹介する。
伊藤博文は安重根というテロリストによって殺されたが、安重根のその取調の調書によると皇室には対しては敬意を持っていた人物であると記されている。天皇に重臣が悪いことをしている者(伊藤博文)を成敗するという義憤にかられたようであるが、弾道と弾痕から言うと安重根の発射した弾丸は別の人物に当たっていたのである。つまり、「伊藤博文」という人物を知らなかったことが伺える。伊藤博文は併合に反対していた人物であり、伊藤博文も暗殺されることを覚悟していたので、明治天皇にはその旨を話していたのであろう。天皇陛下の「ううん、伊藤が殺されたか」とただお一言、深いため息をおつきになりました〉この反応である程度、想像のつくものかもしれません。
伊藤博文の死によって急速に韓国を独立国でおくことに危惧を感じた日本は韓国の一進会の併合の申し出を受けて事態は併合へと進むのである。
安重根は策略に騙された人物であることは間違いない。
併合を進める大日本帝国の策略なのか、韓国の併合を進める一進会の策略に乗った人物であろう。その時は、李王朝の韓国として独立していたのであるから、今、韓国では独立の英雄と讃えられているが、歴史を俯瞰すると、騙されて伊藤博文を殺したテロリストに他ならない
その後、世界の欧米列強の植民地化や露西亜の領土侵略に対抗するために日本との併合を決断した李完用こそ韓国を救った英雄であると思う。
今韓国では「売国奴の李完用」と形容詞付きで韓国の教科書に載っているらしい。もし、日本と併合して、軍事力・経済力を付けなければ、ロシアの領土になっていたことは間違いない。今回はその時代の歴史の1ページを垣間見るような記事を発見したので紹介する。

     皇紀2683年3月5日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」 女官は聞いていた

学術文庫&選書メチエ編集部 の意見 • 11 時間前

ただお一言、深いため息を…

明治天皇やその妻・昭憲皇太后に仕えた女官として、山川(旧姓:久世)三千子という人物が知られています。

彼女は1909(明治42)年に宮中に出仕し、1914年に退官するまでの足掛け6年間、天皇家の「内側」の奥深くをつぶさに目撃しました。

彼女の当時の経験は、『女官』として1960年に実業之日本社から公刊され、世間に衝撃を与えたとされます(現在は『女官 明治宮中出仕の記』として読めます)。

現在、皇室は後継ぎの問題などによって、大きな岐路に立たされているとでも言えそうな状況ですが、同書を読んでいると、天皇家に生きる人たちの姿が、教科書で学んだものよりもいっそうニュアンスに富んだイメージとともに浮かび上がってきて、「皇室」や「天皇」について考えるために多くのヒントを得ることができそうです。

たとえば、伊藤博文が1909年10月、中国の北部・ハルビンで暗殺された際の明治天皇の反応は、少し意外なものがあります。

伊藤博文〔PHOTO〕Gettyimages© 現代ビジネス

〈この陛下を、お驚かせした事件は、伊藤公がハルピン駅頭で撃たれたとの突然の情操でございました。さすがのお上(編集部注:明治天皇のこと)も、

「ううん、伊藤が殺されたか」

とただお一言、深いため息をおつきになりました〉

この反応はある程度、想像のつくものかもしれません。しかし、興味深いのはこの直後の記述です。

〈そして数日後のお食事中、

「日本につれてこられてから、ただ一人爺や爺やと伊藤ばかりをたよりにしていた朝鮮の坊ちゃんは、さぞ心細いだろう。可哀想にね、いわば人質だから、この間東宮さん(大正天皇)が来た時、これから仲よくして可愛がってあげなさいと、言っておいたけれど」

とおいたわりのお言葉をおもらしになりました〉

伊藤博文
明治天皇〔PHOTO〕Gettyimages© 現代ビジネス

「朝鮮の坊ちゃん」とは誰か?

ここで言う「朝鮮の坊ちゃん」とは、「大韓帝国最後の皇太子」として知られる、李垠(り・ぎん/イ・ウン)のことであると見られます。

伊藤博文と李垠

大韓帝国皇帝・高宗の息子として生まれた李垠は、幼少期に伊藤博文の舵取りによって日本を訪れ、そのまま学習院や陸軍士官学校で学びました。日本にとって、大韓帝国に対する「人質」的な立場だったのではないかと考えられています。

1910年の日韓併合を経て、日本の「準皇族」となり、やがて皇族の梨本宮方子と結婚。帝国陸軍では、中将まで務めました。

李垠


李方子


戦後は、韓国において「対日協力者」として帰国を拒否されたかと思えば、朴正煕政権下では李王家の末裔として厚遇され……と、評価が揺れ動きました。混乱する20世紀の東アジアにおいて数奇な人生を歩んだ人物として知られます。

明治天皇にとって李垠は、いわば「自国が支配している植民地の王族」と言えるわけです。しかし、上記の明治天皇のセリフからは、李垠を見る際のより複雑な含みが伝わってきます。そこからは、明治天皇が置かれた一筋縄ではいかない立場も垣間見えるようです。

ちなみに、明治天皇の頼みをきちんと聞いていたのか、皇太子時代の大正天皇はその後、李垠ととても仲よくなったことが知られています。


大正天皇© 現代ビジネス

また、放送大学教授で日本政治思想史が専門の原武史さんによる「知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記」という記事によれば、同書には、天皇家の「闇」をあぶり出した側面もあるとも言えるそうで、興味の尽きない書物と言えます。


参考文献・参考資料

天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」 女官は聞いていた (msn.com)

李垠 - Wikipedia

李方子 - Wikipedia

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