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政治講座ⅴ1490「太子党、造反の兆し。共青団も動く。権力闘争と第2の天安門事件の兆候と国民の反乱」

温故知新。古きを訪ねて新しきを知る。
吾輩は、ちょうどテレビドラマ「秦の始皇帝」を見ている。人間の精神文化は進歩していないので、同じ過ちや行動は過去の歴史を俯瞰すると、未来が見えてくる。
将来の結末は、想像がつくのである。つまり、中国大陸の各王朝の盛衰の歴史を俯瞰すると、興隆も早いけど没落も早い。
 現在の中国共産党の政権の政策の軌跡をみると、秦の始皇帝の中国統一は中国共産党の世界征服の野望の「一帯一路」と類似性があるのである。
残念なことに、秦は統一後に15年の短命に終わった。その原因について後述する。習近平の中国共産党内部での粛清の嵐と理由なき反スパイの拘束逮捕は内部崩壊を暗示させるのである。
 今回は中国の歴史と現代の中国政治の報道記事を紹介する。

     皇紀2683年11月14日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

はじめに

 現代における中国共産党政権とオーバーラップする部分が多々あるので今回は歴史の「秦の始皇帝」の末路を取り上げた。
 
政権を転覆させるほどの反乱は黄巾の乱と紅巾の乱がある。 両者とも宗教がらみであり、中国共産党が最も恐れることである。
 故に宗教への介入と弾圧は常軌を逸しているのは歴的な経験則に起因すると考える。
黄巾の乱
は、後漢末期の184年(中平元年)に中国において、太平道の信者が教祖の張角を指導者として起こした組織的な農民反乱である。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことからこの名がついた。現代中国では黄巾起義ともいい、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼んでいる。この反乱は後漢の衰退を招き、劉備の蜀、曹操の魏、孫権の呉が鼎立した三国時代に移る一つの契機となった。紅巾の乱(1351年 - 1366年)は、中国の元末の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。

中国を統一した秦が15年で滅亡した理由と原因

 東アジアの古代の歴史や中国大陸の王朝の歴史、特に秦(しん)王朝について取り上げる。
 中国大陸で二百年近く続いたいわゆる戦国時代を終わらせ、他の強国を倒すことで大陸の広大な地域を統一することに成功した大国、秦王朝があまり長く続かずに15年で滅亡してしまった理由が何であったのか。
 戦国時代、秦も含めて戦国七雄と言われた強国七カ国が生き残りをかけて争い、最後まで存立することに成功した大国にしては継続出来た期間があまりに短すぎる。
それまでに誕生していた王朝と比較しても話にならないくらいの短さである。
古代中国大陸の王朝である殷(いん)は紀元前1600年から紀元前1050年くらいまで続いたと言われている。(500年以上続いた、)、その後に誕生する周王朝も異民族に攻められて都を東方に移し決定的に弱体化したのが紀元前770年頃と言われているので、王朝が誕生して300年くらいは経過している。
実際には始皇帝がこの世を去ったことが世の中に知れ渡った後、国内の各地で反乱の動きが起こり、最終的には反乱勢力に秦が降伏国が無くなった。様々な理由が指摘されているようであるが、一般の人々の間でかなりの不満がたまっていたことや、秦の政権内で出世した特定の人物に相当な問題があったということが秦滅亡の理由として挙げられる。

とても厳しい統治政策(過酷な刑罰)

 統一後の秦王朝の政策の一つとして大規模な建設事業がある。
 始皇帝本人の死んだあと埋葬するための陵墓もそうある。
そして、北方の異民族の侵入を防ぐための防護壁とするために、それまでの設備をさらに充実させようとして造られた万里の長城も当てはまる。
 皇帝が使用するための大変大きな宮殿(阿房宮)建設事業も進められた。
 こういった建設事業を実際におこなうのは、罪人と定められた人や一般の農民の方々だった。  
 農民の方々が大勢動員されるというのはそういったかり出される人々にとって相当な負担となった。
 まずこの建設労働自体に相当な負担があり、この労働が理由で農作業が滞り収穫物が少なくなってしまい決められた税を納められないということになるとその農民は罪人とされた。工事現場に決められた時までに到着しなければ厳しい罰が待っていた。厳しい罰というのは結局のところ死罪です。遅刻したら殺される羽目になってしまうのである。
秦という国は戦国時代から法律を厳格に運用するという特徴があり厳格に規則が適用されることで政権に恨みを持つ人々が増えていった。このような厳しい負担は始皇帝がこの世を去った後も特に変わらなかったようである(秦の政治について調べてみても、二代目皇帝以降で政治の大改革がおこなわれたといった内容を目にすることは特にありません)。一般の民衆の方々の立場になれば反乱を起こす動機にもなることであろう。

重用した人材の暴走

始皇帝が重要な家来としていた人物の趙高(ちょうこう)の振る舞いについて相当問題であった。
 国の頂点に立っていた始皇帝は絶大な権力を持っていた一方で統一成功の前に比べ、より一層命を狙われることにもなり疑心暗鬼となって、ごく限られた家来を重用したのだそうです。趙高はそんな家来の一人でした。始皇帝は趙高のことを強く信頼していたのですが、始皇帝の死後、彼は大変な裏切りをおこないます。始皇帝の遺言を捻じ曲げるという畏れ多いことをおこなった。
始皇帝が自分の後継ぎ、次の代の皇帝としたかった人物である嫡男の扶蘇(ふそ)に偽の遺言を届けて扶蘇を自殺させてしまった。そして自分に都合のいい人物であった始皇帝の末っ子、胡亥(こがい)次の皇帝に据えてしまう。
胡亥即位に成功した趙高は更に出世し宰相(さいしょう)に就任。皇帝の政治を補佐することとなる。出世し大きな権限を得た趙高は自分にとって都合の悪い人材、重要な人物をどんどん処刑していく乱暴な政治をおこなった。また自分が処罰されないよう政策判断の失敗の責任を他の役人に擦り付けている。国のためを思って諫めようという家来も処刑してしまうのですから間違った方向に国が進んでも修正が効かず、二代目の皇帝がよい政治をおこなえなかったことも災いして秦の体制内部がどんどん腐っていってしまった。
反乱も鎮圧できず皇帝から責任を問われることを避けるために今度は胡亥をも死に追いやってしまった。
次の皇帝となった子嬰(しえい)趙高の本性をよく心得ていた人物で、側近とともに趙高を亡きものとする。しかし子嬰が皇帝になった時の秦には反乱勢力を撃退するような力も有能な人材も残っておらず、降伏するより他はなかった。こうして秦は亡ぶのである。


中国「第2の天安門事件」潰しで厳戒態勢!その時、習近平は蜂起した人民を戦車で轢き殺す

アサ芸プラス によるストーリー • 8 時間


中国「第2の天安門事件」潰しで厳戒態勢!その時、習近平は蜂起した人民を戦車で轢き殺す© アサ芸プラス

習近平国家主席の最大のライバルと言われていた李克強前首相の急逝に、中国共産党指導部が神経を尖らせている。「独裁者」として君臨する習近平に対し、李前首相は人民に寄り添う「親民」として慕われてきた人物。指導部は人民の李前首相に対する追慕の思いが、やがて習体制批判へと転化することを恐れているのだ。

その警戒ぶりは、上海で静養中の李前首相がプールで遊泳中に心臓発作で急逝したとされる10月26日以降の、当局の動きからも見て取れる。概略は以下の通りだ。

●10月27日、李前首相の訃報を伝えていたNHK国際放送のニュース番組が、中国当局の検閲によって「異常信号」の表示とともに遮断された。

●10月28日、李前首相が少年時代を過ごした安徽県合肥市の旧居前に、1万人を超える地元人民らが献花に訪れた。献花の高さが2メートル以上にも及ぶ中、当局が動員した治安ボランティア、警察官、私服警官などが人民らの動きに目を光らせるとともに、中国のSNS「微博」では李前首相の死去に関する投稿の閲覧が規制された。

●10月29日、李前首相の旧居前が献花の花束で埋め尽くされる中、当局はSNSへの投稿も含めた、学生らの追悼活動を禁止する通知を発令。また、旧居前では治安ボランティアが弔問者らが供えた弔辞を検閲して抜き取ったり、献花後はすぐにその場を立ち去るよう命じたりするなど、監視態勢を一段と強化した。

●11月2日、李前首相の遺体が北京市郊外の八宝山革命公墓で荼毘に付される中、追悼活動が抗議活動に発展することを警戒した当局は、市内に厳戒態勢を敷いた。

習近平政権の内情に詳しい国際政治学者が指摘する。

「中国国内では今、経済の失速や失業の増加などによって、人民の不満が限界点に達しつつあります。1989年に改革派指導者として知られた胡耀邦元総書記が急逝した時も、追悼活動が学生らによる民主化運動へと発展し、同年6月4日の天安門事件の悲劇を生んだ。李前首相の急逝で『第2の天安門事件』の発生が憂慮されるゆえんです」

ならばその時、習近平はどのような「粛清」に乗り出すのか。国際政治学者が続ける。

「天安門事件では人民解放軍の戦車の前に立ちはだかった『無名の反逆者』の行動が、世界的ニュースになりました。独裁を欲しいままにしている習近平なら、蜂起した群衆を戦車で轢き殺したり、装甲車から一斉射殺したり、という暴挙も辞さないでしょう」

結局、恐怖の独裁政治は、習近平が生きている限り続くということだ。(石森巌)


参考文献・参考資料

中国「第2の天安門事件」潰しで厳戒態勢!その時、習近平は蜂起した人民を戦車で轢き殺す (msn.com)

太子党 - Wikipedia

モンゴル帝国 - Wikipedia

元 (王朝) - Wikipedia

「黄巾の乱ってどんな反乱?」「黄巾の乱と紅巾の乱の違いとは?」「曹操や劉備は黄巾の乱の時どうしていた?」わかりやすく解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ (hatenadiary.jp)

紅巾の乱 - Wikipedia

大国である秦が滅亡した理由は何だったのでしょう | 茶山(さやま)の関心事セット (iineiineiine.net)

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