政治講座ⅴ1806「中国の天安門事件」
言わざる・見ざる・聞かざるの三猿。
論語には「非礼勿視 非礼勿聴 非礼勿言 非礼勿動」という一節が記されている。「礼節に背くことに注目するな、礼節に背くことに耳を傾けるな、礼節に背くことを口にするな、礼節に背くことをおこなうな」という意味である。翻って、中国共産党の人民の弾圧・虐殺はこれ礼節なるか?とても天安門事件は礼節のある所業と思えない。言わざる・見ざる・聞かざるの三猿で人民を弾圧しても、歴史から抹消したいのであろうが、歴史から抹消はできない。今回はその報道記事を紹介する。
皇紀2684年6月5日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
中国が歴史から葬り去ろうとしている天安門事件、30枚の写真
Business Insider によるストーリー
2024年6月4日、天安門事件から35年を迎えた。民主主義と自由を求めた学生の抗議活動は流血の惨事で結末を迎えた。
抗議活動は1989年4月、学生たちが政治的・経済的自由を求めて、広場を占拠したことから始まった。
だが学生たちと政府の交渉は失敗に終わり、中国共産党は戦車と兵士を広場に送り込んだ。
兵士たちは集まった学生たちに発砲、数百名が死亡した。
中国は事件を歴史から葬り去ろうとしている。事件に関するキーワードの検索もしばしば禁止している。
1989年6月4日早朝、中国共産党政府は天安門広場に戦車と兵士を送り込んだ。政府は軍に対して「どんな手段を使っても」広場から学生たちを排除するよう命じていた。
事態は翌日の朝まで続く流血の惨事となった。数千の兵士が群衆に発砲し、死傷者数は数百人にのぼった。だが、正確な犠牲者数は、現在も分かっていない。
天安門事件を振り返る写真をまとめた ── 中国政府が闇に葬りたい30枚の写真だ。
※本記事は、2019年6月4日に公開した記事の再掲です(日付の部分のみ情報を更新しています)
抗議活動は1989年4月に始まった。民主化に理解を示した胡耀邦・元総書記の死を追悼する学生たちが集まった。
胡氏は在任中、改革開放路線と自由化路線を推進し、多くのエリート学生の支持を集めた。
数万の学生と市民が北京の中心地にある天安門広場に集まった。
抗議者たちは多くの不満を抱えていた。言論の自由の拡大、収入アップ、インフレの抑制などを求めていた。4月22日、胡氏の追悼大会が開催された後、学生たちは政府に要求を出したが、政府はこれを拒否した。
4月26日、人民日報は集会を「混乱」と呼び、党を攻撃していると批判する記事を掲載。記事は集まった学生と市民の怒りに輪をかけた。
1989年4月24日。学生たちが作って貼った新聞を読む市民。© BUSINESS INSIDER JAPAN 提供
5月13日までに、天安門広場の群衆は約3万人に膨れ上がった。多くがそこで夜を過ごした。
そして百名を超える学生がハンガーストライキを始めた。
また多くの学生がちょうど中国を訪問していたソ連のゴルバチョフ書記長との面会を求めて座り込みを行った。
5月19日、改革派で学生との対話を主張した趙紫陽総書記が学生たちと対面し、妥協を求めたが、失敗に終わった。
BBCによると、趙総書記は学生たちに「来るのが遅すぎた」と語った。その後、趙氏は表舞台から姿を消した。
その後、趙氏のライバル、李鵬首相が戒厳令を宣言した。
5月20日、人民解放軍は北京に向かい始めた。学生たちは兵士に支持を訴えかけた。
同じ頃、学生たちの抗議活動は分裂し始めた。明確なリーダーはいなかった。
とはいえ、学生たちは広場の占拠を続けた。約1週間、占拠は続けられた。明確な安全上の懸念はなかった。
「自由の女神」を模した、高さ約9mの像さえ出現した。
多くの若者が公然と政府を批判した。
党は再度、動き出した。6月2日、党の高官は「首都に秩序を取り戻す」と述べた。
出典 :ABC News
翌日、約2万5000人の兵士の動員が始まった。軍には、6月4日午前1時に広場に入り、午前6時までに群衆を排除することが命じられていた。
天安門事件を研究している歴史家のWu Renhua氏によると、兵士はまた「自衛のための行動と、障害を取り除くためのいかなる手段の使用」が認められていた。
6月3日午後10時、天安門広場の西、約3マイル(約5km)で市民に対する最初の発砲が報じられた。ABCが伝えた。軍は6月4日午前1時30分に広場に到着した。
出典 :ABC News
学生たちは抵抗した。多くは丸腰だったが、石などを持つ者もいた。
暴力が生まれた。装甲兵員輸送車が学生たちの列を突入し、広場に入ろうとして学生たちに発砲した。
流血の後、広場の学生は排除された。当時、党は兵士を含む241人が死亡し、7000人が負傷したと発表した。
出典 :PBS
死者数には他の数字もある。イギリスの外交官は1万人と書き残した。多くの死者は広場の外で発生した。
いずれにせよ、中国共産党支配下で最も暴力的な夜となった。
学生たちを排除した後、軍は北京の幹線道路を走り回った。
広場近くの大通りを行く戦車の列に立ちはだかる男性 ── 事件を象徴する写真となった。
「戦車男(Tank Man)」と名付けられた男性の身元と所在は分からないまま ── 撮影したジェフ・ワイドナー(Jeff Widener)氏はピューリッツァー賞にノミネートされた。
中国の指導者・鄧小平氏は6月9日、初めて現地を訪れ、軍の働きを称賛し、学生たちを共産主義を倒そうとする反逆者と位置づけた。
出典 :BBC
PBSによると、数千名が逮捕された。処刑された人もいると伝えられた。
中国は天安門事件を歴史書から葬り去っている。事件に関連したキーワードを検索することもできない。
天安門事件35年、台湾で「正々堂々」集会 頼清徳総統はSNS投稿
朝日新聞社 によるストーリー
天安門事件の追悼集会の会場で2024年6月4日、事件発生日を表す「8964」の形に合わせてライトを並べる人=台北、金順姫撮影© 朝日新聞社
中国で民主化要求運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から、4日で35年を迎えた。台湾ではこの日夜、NGO「華人民主書院協会」などが台北市中心部の中正記念堂そばの広場で、天安門事件の犠牲者を追悼する集会を開いた。
【写真】東京の追悼イベントでは、仮面で顔を隠して参加する人も。中国から移住した若者も目立った
会場では香港から移り住んだ人々の姿もみられた。参加者たちは、事件があった日を表す「8964」の形に黄色いライトを並べて天安門事件に思いをはせ、中国と香港の民主化を求めた。中国本土のみならず、言論統制が強まっている香港でもこうした活動は封じ込められており、天安門事件の記憶を引き継ぐうえで台湾が重要な場所として浮上している。
中正記念堂では13日まで、天安門事件を伝える展覧会が開かれている。出品者の一人、アーティストの黄国才さん(54)は2021年に家族と共に香港を離れ、現在は台湾で暮らす。「台湾には真の民主主義と自由がある。台湾で正々堂々と追悼できるのは、とても基本的な権利だ」。4日の集会では、「華人民主書院協会」で活動する胡嘉穎さんと共に司会を務めた。
台湾の頼清徳(ライチントー)総統は4日、自身のフェイスブックに「六四(天安門事件)の記憶が歴史の奔流の中で消えてなくなることはない。歴史の記憶が人々の心にいつまでも残り、中国の民主を気にかける一人ひとりの心を動かせるよう、私たちは努力を続けていく」と書き込んだ。(台北=金順姫)
参考資料・参考文献
中国が歴史から葬り去ろうとしている天安門事件、30枚の写真 (msn.com)
天安門事件35年、台湾で「正々堂々」集会 頼清徳総統はSNS投稿 (msn.com)
生きづらさ感じ日本へ 天安門事件追悼に集う中国の若者たちの思いは
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