政治講座ⅴ1048「金欠の米国、借金しないと債務不履行(デフォルト)か。古代ローマの滅亡と同じ運命か」
米国の議事堂建設の多くは黒人奴隷が使用されたといわれている。高さ88m(288フィート)、直径29m(96フィート)の巨大なドームが特徴的な新古典主義建築である。、古代ギリシャや共和政時代の古代ローマ民主主義との結び付きから、新政府の指導者たちは公式の美術として新古典主義を採用した。英語の「Capitol」(キャピトル)は古代ローマの「カンピドリオの丘(ラテン語: Capitolinus Mons)」に由来している。また各州の議会も「State Capitol」と呼ばれる。
吾輩はローマ帝国の滅亡は米国の滅亡を予感させるのである。幾度も「債務上限引き上げ」法案問題が浮上する。借金体質の国家が続く訳でもない事は素人目でも分かることである。これだけ米国は借金漬け国家に落ちぶれてしまったのである。米国の没落後の覇権国家の地位を中国が虎視眈々と狙っているのである。東ローマを滅ぼしたオスマン帝国のように、中国は米国の弱体化を狙って着々計画を進めているのである。
皇紀2683年4月28日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
債務上限引き上げ法案可決=野党提出、政権・与党は拒否―米下院
1 時間前
【ワシントン時事】米下院は26日、野党共和党が提出した米連邦政府の借入限度額となる「債務上限」を1兆5000億ドル(約200兆円)引き上げる法案を賛成多数で可決、上院に送付した。ただ、同法案はバイデン政権の重視する政策の見直しが含まれており、与党民主党が多数派を維持する上院の通過は見通せない状況だ。
法案には、バイデン大統領肝煎りの学生ローン減免や再生可能エネルギー促進策の撤回など、総額4兆5000億ドルの歳出削減が盛り込まれている。政権は重要政策に影響が出るとして、反発を強めている。
ゴールドマン、米債務上限引き上げ期限は7月後半か-税収伸び加速で
アンスティー・クリストファー によるストーリー • 6 時間前
(ブルームバーグ): 米国の税収の伸びが突如加速したため、米財務省が6月にデフォルト(債務不履行)に陥る確率は低下したとの見方をゴールドマン・サックス・グループが示した。
ゴールドマンは先週、税収の伸び悩みにより、政府の資金繰り策が尽きる時期が早まりそうだと警告していた。しかし確定申告期限の18日を過ぎて納付の小切手が届く中、25日の税収は予想外に多額となり、昨年の同時期の水準を14%上回ったとゴールドマンは説明した。
同社のエコノミスト、アレック・フィリップス氏は26日の顧客向けリポートで、「残りの納税がこのペースで進んだ場合」、財務省は「債務上限が引き上げられなくても7月末までは予定されている支払いを引き続き全て行える」はずだと分析した。
ゴールドマンは現在、6月第2週に同省は資金枯渇まであと500億-600億ドル(約6兆7000億-8兆円)となるとみている。
一方、債務上限引き上げを巡る与野党の対立には妥協の兆候が見られない。下院共和党は26日、債務上限を引き上げる一方で歳出削減を義務付ける法案を可決した。しかしバイデン大統領と議会民主党は引き続き、歳出削減とひも付けない法案を主張している。
フィリップス氏は同法案の下院通過について、「ホワイトハウスと議会民主党は債務上限引き上げと引き換えに政策変更の交渉に応じるべきだという共和党の主張を後押しする可能性が高い」と指摘した。
その上で「7月後半が期限と想定した場合、交渉が始まるのは数週間後になる可能性がある。われわれは債務上限引き上げと組み合わせられる政策が裁量的支出の上限設定になる公算が最も大きいとみている」と説明した。
関連記事:
米債務上限巡る不透明感くすぶる、納税日の税収1085億ドルにとどまる
原題:Goldman Says Big US Tax Haul Means Debt-Limit Deadline in July(抜粋)
More stories like this are available on bloomberg.com
©2023 Bloomberg L.P.
ローマ帝国はなぜ滅亡したの?衰退の理由や原因、その後も解説
2022年3月14日
地中海領域を支配し、大帝国を築き上げたローマ帝国。多くの方が一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ローマ帝国は市民によって編成された部隊が非常に強く、各地へ侵攻・侵略し領土を拡大していきました。国力が蓄えられたローマ帝国は繁栄し、栄華を極めていました。
しかし、「盛者必衰」という言葉があるように、ローマ帝国の繁栄は永遠ではありませんでした。ローマ帝国内部での分裂や他国からの侵略などによって、ローマ帝国は滅亡するのです。
今回は、そんなローマ帝国が滅亡した理由を、原因や滅亡するまでの経緯、その後どうなったのかも交えて解説します。一橋大卒 歴史学専攻 京藤 一葉
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ローマ帝国とは?
ローマ帝国は、イタリア半島を中心とした地中海領域にまたがる大帝国を指しています。都市国家から始まり、紀元前1世紀末ごろには地中海全域を支配し、多くの領土を手中に治めました。最盛期には地中海周辺だけでなく、メソポタミア方面まで支配していたとされています。
ですが、あまりに広大な領地のため、皇帝一人では治めきることが難しくなってきます。4世紀の皇帝テオドシウス1世は亡くなる直前に彼の息子たちにローマを西と東の2つに分けて統治するように話しました。
皇帝の遺言を聞いた2人の兄弟はそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と分け統治するようになりました。しかし地域によって経済的な差があり、国力にも影響してきます。結果として、2つの領地はそれぞれ別の道を辿り、滅亡することとなりました。ローマ帝国とは?歴史年表とともに分裂や滅亡について簡単に紹介
ローマ帝国はいつ、どのように滅亡したのか
西暦395年、ローマ帝国は西と東に分裂し、「西ローマ帝国」「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」となりました。これとは別に昔からローマ帝国はゲルマン人による侵攻を受け、度々衝突していました。国が分裂したことで、国力や戦力も減ってしまいます。ゲルマン人の侵攻で帝国の力が衰えたことで、皇帝への不信感が募り、国内部からのクーデターが発生します。これにより西ローマ帝国は西暦476年に滅亡しました。
対して東ローマ帝国は首都の守りを固め、着々と国力を溜めたことが功を奏し、ゲルマン人の侵攻を防ぐことができました。国として十分な体制の整った東ローマ帝国はその後1000年近く繁栄しましたが、最終的に15世紀ごろ隣国のオスマン帝国によって滅ぼされました。
ローマ帝国が滅亡するまでの流れ
年表
西暦395年西ローマ帝国の始まり(初代皇帝:ホノリウス)西暦423年2代目皇帝ロムルス・アウグストゥルスの統治西暦476年軍人オドアケルによるクーデター
アウグストゥルス廃位により西ローマ帝国滅亡
西ローマ帝国が滅亡した理由・原因
西ローマ帝国の滅亡の原因は国内のクーデターによるものです。このクーデターには西ローマ帝国の政治情勢が深く関わっていました。もとよりローマ帝国はゲルマン人による侵攻の危機にさらされていました。ゲルマン人としても豊富な資源を有するローマ帝国は非常に魅力的でした。そしてローマ帝国が東西に分裂した好機をゲルマン人が見逃すわけもなく、これ幸いとばかりに攻撃してきます。東ローマ帝国は土地柄攻めにくく、また首都の防御をしっかりと固めていたため、ゲルマン人は西ローマ帝国に的を絞り、侵攻するようになりました。ゲルマン人による侵略だけでなく、西ローマ帝国は内政にも悩まされていました。というのも西ローマ帝国は国教であるキリスト教の影響が非常に大きく、そのトップの座である教皇の影響力は皇帝とほぼ変わらないほどだったのです。
国の分裂によって教皇も西ローマ教皇、東ローマ教皇と分かれることとなりましたが、西ローマ教皇として任命されたレオ1世は皇帝の仕事や役職を独断で監督するようになります。そして西暦445年にはウァレンティニアヌス3世が「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」と発表し、教皇の絶対性を主張したのです。軍事面においても皇帝の影は薄く、重要な役割はほとんど部下である将軍たちが対応していました。そして西暦476年、軍人であったオドアケルが「もはやローマに皇帝は必要ではない」と主張し、クーデターを起こしました。
西ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
クーデターによって西ローマ帝国の皇帝は廃位となりました。それを知った東ローマ帝国の皇帝ゼノンはオドアケルを称え、ローマ帝国のイタリア領主という役職を与えました。
オドアケルはこの役職に恥じぬ働きをし、西ローマ帝国内の内乱を治め、帝国内は一時的に復興することとなりました。しかし西ローマ帝国の状況を知ったゼノンはオドアケルの存在がやがて自分を脅かすことになるのではと、東ゴートの王テオドリックにオドアケルの殺害を命じます。
西暦493年、テオドリックはイタリアへ侵攻し、オドアケルを打ち負かしてイタリアを占拠したのち、彼を殺害しました。オドアケル死去後はテオドリックがイタリア王を名乗るようになります。オドアケルとテオドリック、優秀な2人の統治によって西ローマ帝国の国力は回復し、繁栄の時代を迎えました。
ここまで読んでいただいた方はお分かりだと思いますが、西ローマ帝国は俗に言う「滅亡」はしていません。そのため西ローマ帝国が「滅亡」したという表現は不適切だという声が上がっています。
多くの歴史家は「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」という見解を示していますが、何代も続いてきた皇帝制度は西暦476年に廃止されていますので、この記事においては滅亡という表現を使わせていただきます。
東ローマ帝国の歴史年表
西暦395年東ローマ帝国の始まり(初代皇帝:アルカディウス)
西暦474年2代目皇帝ゼノンによる統治
西暦527年3代目皇帝ユスティニアヌス1世による統治
西暦610年4代目皇帝ヘラクレイオス1世による統治
西暦674年~
西暦698年オングロスの戦い、カルタゴの戦いで敗戦。
領土が半分程度まで縮小
西暦870年5代目皇帝レオーン6世による統治
西暦976年6代目皇帝バシレイオス2世による統治
西暦1204年第4回十字軍によって滅亡
西暦1261年亡命政権によって再興
西暦1448年コンスタンティノス11世ドラガセスによる統治
西暦1453年オスマン帝国により滅亡
東ローマ帝国とは?ビザンツ帝国との違いは?歴史年表まとめ【政治体制から文化、宗教まで紹介】
東ローマ帝国が滅亡した理由・原因
東ローマ帝国は一度十字軍の侵攻によって滅亡していますが、その後再興し、約200年ほどの統治の後オスマン帝国により完全に滅亡しました。東ローマ帝国は主要な国々と接していたことから、攻められやすい国でした。そのため東ローマ帝国の初代皇帝であるアルカディウスは首都の防御を固め、難攻不落の城壁を築きました。
西暦600年頃を境に勢力を増していたイスラム帝国により領土が縮小するものの、国家としては安定していたと言えるでしょう。
しかし西暦1204年、第4回十字軍の遠征によって首都コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。
実はこの時東ローマ帝国の政権はひそかに亡命しており、旧帝国領で新たに東ローマ帝国を再興します。しかしこの統治も長くは続きません。
西暦1352年のオスマン帝国オルハンによって攻撃されて以来、東ローマ帝国とオスマン帝国は何度も戦いを繰り返しました。
西暦1453年、オスマン帝国は10万もの兵で首都コンスタンティノープルを包囲します。対して東ローマ帝国の兵は7千。戦いの結果は見えていましたが、ローマ帝国兵士は2ヶ月にもわたって抵抗を続けました。
オスマン軍の総攻撃により、とうとうコンスタンティノープルは陥落。この時の皇帝コンスタンティノス11世はオスマン軍に特攻して行方知らずとなり、そして東ローマ帝国は完全に滅亡することとなりました。
東ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
東ローマ帝国はオスマン帝国により侵攻され、滅亡しました。滅亡後はオスマン帝国に領土を吸収されています。
なお東ローマ帝国領土であったモレアス専制公領やトレビゾンド帝国は、オスマン帝国によってどちらも滅ぼされてしまい、第4回十字軍の時のように地方からの復興とはなりませんでした。
ちなみに陥落前後のコンスタンティノープルでは多くの有識者たちが古代ギリシャ・ローマの文献について研究していましたが、オスマン帝国の侵攻によって西欧へと亡命しました。これが後のイタリア・ルネサンスに大きな影響を与えたとされています。
ローマ帝国の滅亡に関するまとめ
ローマ帝国滅亡の歴史を解説してきました。いかがでしたでしょうか。
ローマ帝国は西と東に分裂してから、それぞれの歴史を歩んできました。統治者が異なれば、国家の運営や歴史も大きく変わるものですが、ローマ帝国ほどの大帝国であっても、いつかは必ず滅びてしまうというのは何とも物悲しいものです。
参考文献・参考資料
債務上限引き上げ法案可決=野党提出、政権・与党は拒否―米下院 (msn.com)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?