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【短編小説】歌うイカロスと恋する女神たち

【あらすじ】
 暗い部屋に五年間引きこもっていたナギは、とうとう外の世界に出る決意を固めた。居心地のいい部屋への未練を断ち切り、必死になって外の世界を目指す。彼がやっとの思いでたどり着いた先は、静かな夜の林だった。
 外の世界の広さを知ったナギは、本能の赴くままに歌を歌い始める。広い世界にたくさんいる仲間たちに、自分の歌を聴かせるためだ。ところが聴衆は、一向に彼の歌に振り向いてくれない。
 彼は挫折の末、半ばヤケになっていた。そんな彼の歌を聴いて、ひどい悪態をつく小柄な男。ナギと男は口論となるが、ある言葉をきっかけにいざこざは意外な方向へ……。
 果たしてナギは、念願を成就させることができるのか。


 このところ彼は、昼夜を問わず物思いにふけっていた。暗く狭い部屋に閉じこもって、ひたすら自分の名前を考えている。彼にとって名前は重要だった。いずれこの部屋を出るだろう自分と同じ境遇の者たちが、外の世界にはたくさんいるに違いない。そんなやつらと出会ったとき、名前は必ず必要になるだろう。
 彼は生まれてこのかた、一度もこの部屋から出たことがない。だからそもそも、名前というものに触れたことさえなかった。そんな彼が、名前をどう付ければいいか、自分にどのような名前が相応しいかといった、名付けに必要な作法など知るはずもなかった。彼の名付けが難航するのも当然だ。
 簡単には思いつかないのだから、いっそ名前は後回しにして、別のことに力を注ぐほうが有意義のような気もする。だが、名前が決まらない焦りは日を追うごとに膨れ上がり、今や彼の胸中をひどくかき乱すまでになっていた。困ったことに今日も彼は、部屋の真ん中に寝転んで名前のことばかり考えている、といった有様だ。
 これはおそらく、この部屋を出る日が近いことの現れなのだろう。彼の心境は複雑だった。この部屋に住み続けてはや五年。自由で、快適で、静かなこの空間を手放すことが、名残惜しくないわけがない。それに、これまで一度だって外へ出ようなんて思ったことはなかった。見たこともない世界に憧れるなんてことはできないし、自分と同類の仲間がたくさんいる景色だって想像すらつかない。それがどういうわけだろう。ここ数日、妙に身体がそわそわして、外に出たい衝動をどうしても抑えきれなくなっている。
 彼は光のない地中で過ごしてきた五年間を、ぼんやりと振り返った。木の根の先に取りついて、ひたすら味の薄い木の汁を吸い続ける毎日。美味くも不味くもない。別に、もっと美味い汁にありつきたいとも思わない。
 刺激とはまったく無縁の毎日だったが、いつも適温で居心地は悪くなかった。外敵もほとんどいないので、動き回る必要もない。しかも食事には一切事欠かないとなれば、ここを出る理由を探すほうが難しいというものだ。
 それなのになぜ、このような衝動が湧き起こるのか。どうして自分は、わざわざ不慣れな外の世界へ出て行かなければならないのか。これらの得体の知れない渇望は、どれほど考えてみても理屈では説明できそうになかった。そして今夜も彼はいつものように、時が止まったような部屋の真ん中で、穏やかにまどろみ、やがて深い眠りに落ちていった。
「僕の名は……ナギ」
 どのくらい眠っていただろう。目を覚ました彼は、誰もいない自分だけの部屋でそう呟いた。初めて聞く自分の声は驚くほどか細くて、我ながら心配になってしまうくらい頼りなかった。声は狭い部屋の中だというのに少しも響かず、すぐに土の壁に染み入ってしまって、あとには何事もなかったかのような静寂だけが残った。
 ただそれでも、彼の気持ちはすっかり変わってしまっていた。自分の名前をほんの少し意識するだけで、これほど心が奮い立つものだとは。
 僕はナギ。ナギは僕。僕が何もしなければ、ナギも何もしない。ナギがナギであるためには、僕が必要。僕の考え、僕の行動、そして僕の衝動が──。
 この発見は彼に、天地がひっくり返るほどの驚きと興奮をもたらした。
 気がつくと彼は、他の足よりひときわ大きい両腕を振るって、眼前の土壁を少しずつ掘り崩していた。自分のやたら大きな両腕は、木の根っこにしがみつくためだけにしては、あまりにも巨大で屈強すぎる。前々から不思議には思っていたが、彼はこのとき初めて、自分のいびつな両腕はこの日のためにあったのだと知った。
 最初は横方向に掘り進んでいたが、穴は次第に勾配がつき、やがて自然に天の方向を目指し始めた。その先にどんな世界が待っているのか、彼には想像もつかない。しかし彼の胸中は、張り裂けんばかりの期待と高揚でいっぱいだった。なぜこれほど心が震えるのか。こんな心境は生まれて初めてだ。だが、その理由を立ち止まって考えている余裕はない。
 彼はまるで目に見えない何かに導かれるかのように、ひたすら目の前の土を穿うがち続けた。経験したこともない奇妙な衝動を糧に、無心になってただただ土を掘り進む。いつ終わるとも知れない過酷な道のりに、思わず目元が歪んだ。しかし不思議なことに、気分はそれほど悪くなかった。
 どのくらい掘り続けただろう。土を掘る両腕の疲労は、とうに限界を越えていた。だが、それでも引き返そうとは思わなかった。引き返したところで何になる。待っているのはこれまで同様、生きているのか死んでいるのかさえも判然としない、木の根に寄生して息をするだけの毎日だ。それにもし、この衝動が導く先を見届けずに逃げ帰ったら、自分は自分を永久に呪うことになるだろう。そんな確信めいた予感が、彼の朦朧とする意識を何度も鞭打った。
 そのとき、彼の五感に劇的な変化が訪れた。土の手応えがなくなると同時に、新鮮な青い香りが頭から爪先までを隈なく撫でてゆく。辺りは、ざわざわという騒がしい音で満たされている。そして見上げた先には、目を覆わずにはいられない丸くて白い光。彼は、ようやく自分が外の世界に辿り着いたことを知った。

 生まれて初めて感じた風の感触。地上は地中と違って、空気が絶えず賑やかに動いている。さらに音という刺激。そして月明かりのまぶしさ。それらの物珍しさと小気味好さに、思わず歩みが止まった。もっと色々なものを感じてみたかったが、月夜にもかかわらず辺りはひどく暗くて、見通しがまったくきかない。きっとこれまで、目をほとんど使ってこなかったからだろう。彼は逸る気持ちをぐっと堪えて、目が月明かりに慣れるのを待った。
 穴を掘り続けてきた身体をしばらくぶりに休めてみると、疲労の大きさに改めて辟易せずにはいられなかった。手足の節々がずきずきと痛んで、もう二度と立ち上がれないのではとさえ思わせる。ただ、その場を涼やかに通り過ぎるそよ風は、疲れた全身に染み入るようで心地好く、ひどくこびり付いていた倦怠感をすっかり洗い流してくれた。
 徐々に目が慣れてくると、彼はようやく外の世界の有りようを知った。ここは木々が生い茂る林の真ん中。さらに念入りに辺りを見渡してみる。どうやらすぐ近くに、ひときわ大きな木が立っているようだ。その木から漂ってくる、何ともいえない懐かしい気配。彼はすぐに、その独特の気配の正体に気がついた。
 眼前にそびえ立つ大木は、地中で暮らしていた自分を育んでくれた木に違いない。根の先に取りついていたときには気づかなかった、大木の堂々たる存在感。彼は、慈愛と安らぎに満ちていた根とは違って、太くごつごつとした幹の風格にすっかり圧倒されていた。彼にとって大木の根は、生命を育んでくれた母のようなものだ。だとすると、彼が大木を見上げたときに感じた逞しさは、厳格な父のそれだったのかもしれない。
 この世界は彼の想像よりずっとずっと巨大で、厳かで、ひどく無口だった。しかしそれでも、ちっぽけな存在でしかない自分を受け入れる意思だけはひしひしと伝わってくる。彼は外の世界に認めてもらえたような気がして、ずっと孤独で冷ややかだった胸を熱く躍らせた。
 自分が今ここにいることを、この世界の隅々にまで知らせたい。これまで感じたどんな感情よりも大きな興奮が、堰を切ったように喉をせり上がってくる。気がつくと彼は、今まで声を出したいなんて思ったこともなかったのに、自分の名前を大声で叫びたい気持ちでいっぱいになっていた。

 目の前の大木が、自分を呼んでいるような気がする。彼は大木の根方に歩み寄り、深い凹凸おうとつがびっしりと刻まれた木肌をじりじりと登り始めた。理由など必要ない。そもそも彼は、何不自由ない地中を出た理由すら説明できないのだ。それなのに、今さら目の前の木を登ることにどんな理由が必要だろう。名を定め、地上に出る決心をしたあの瞬間から、自分を支配しているのは衝動という名の本能。今の彼には、その確信さえあれば他に何もいらなかった。
 彼の尖った爪は乾いた木肌によく引っかかり、木に登りやすい形をしている。しかし、大木の木肌は深い亀裂だらけなので、お世辞にも登りやすいとは言えず、足運びはどうしても慎重にならざるを得ない。この大木を登るより、平らな木肌を持つ木を探してそちらを登るほうが、ずっと楽だし時間もかからないだろう。
「ねえあなた、本当にそんな木を登るの?」
 突然声をかけられ、あまりの驚きに足が止まった。声のほうを見遣ると、大木の隣に群生している背の高い草が、青々とした細い茎をそよ風に揺らしている。彼を見上げる視線は、その草の根元辺りから感じられた。しばらく立ち止まって目を凝らしていると、彼と同じ見た目をした小柄な女が、ひときわ背が高く華奢な茎を軽快に登って来た。初めて見る仲間。しかも、若く麗しい女性。彼はたちまち女に釘付けになった。
「そんなでこぼこの木をちんたら登っていたら、あっという間に夜が明けるわよ。そうしたら、目ざとい蟻たちが目を覚ます。あいつらに見つかって連れて行かれたって知らないから」
 彼女も彼同様、突然の衝動に急き立てられて地上に這い出て来たのだろう。彼女は真っ直ぐに生えた滑らかな茎をすいすいと登り、今や彼女のほうが彼を見下ろす形になっている。
「やあ、僕はナギ。君の名前は?」
 足を止めた彼女は、ややあって怪訝そうな声で答えた。
「名前? 知らないわ。そんなもの必要ないし、そもそも何に使うの?」
「何にって、名前があれば次に君と会ったとき、すぐに君だって思い出せるだろう? 君も僕の名前を知っていれば……」
「だーかーらー」
 女はひどく呆れた様子で、彼の語尾を素っ気なく遮った。何か気に触ることでも言っただろうか。
「別にあんたを思い出す必要なんてないんだけど。それとも、私に思い出してほしいの? そういえばあのとき、登りにくい大木をのろのろと登ってた変なやつがいたなって」
 女はそう言い放ち、あからさまに彼を鼻で嗤った。彼女の態度にはかちんと来たが、それでも言い返すことはできなかった。確かに彼女の言う通りだ。名前があったところで、それが何だと言うのだ。そんなもの無くても不自由はないし、そもそも彼だって名前を持ったのはつい最近で、地中で暮らしていた五年間、名前の必要性を感じたことなんてただの一度もなかった。
 名前が必要なかったのは、これまでずっと独りだったから。この理屈も、果たしてどこまで説得力があるだろうか。彼は改めて彼女の呆れ顔に目を遣り、彼女が自分をどのように見ているかを想像して赤面せずにはいられなかった。
 名前などなくても、僕と彼女はこうして自由に会話をしているではないか。もし僕と彼女がもっと親密な仲だったとしても、やはり名前がなければ困るということはない。どんな種類の、どれほど濃密な交流を望んでいるとしても、こうして言葉を交わしさえすればわかり合うことは可能だ。どんな状況においても、僕がナギである必要は微塵もない。
「あんたまさか、これから出会うやつらのことをいちいち覚えていよう、とか考えてる? そんなの無駄よ。いくら過去や未来を意識したって、私たちが生きられるのは現在だけ。判断や選択ができるのは目の前の今しかなくて、そこにいるのが初めて会った相手か、過去に会った相手か、それとも明日また会うかもしれない相手かなんて、小指の先ほども関係ないでしょ。だいたいさ、名前なんてどうでもいいもので関係を左右される相手の身にもなれっての」
 彼女の理屈はもっともだし、名前がないことで生じる不都合もまったく思いつかない。ただそれでも、彼は名前を強く欲した自分を否定することはできなかった。その神秘的な何かを、言葉にして伝えることはできない。だが名前には、暗い林の景色を照らしている頭上の月明かりに似て、どこか名前の主を浮き彫りにするようなところがあるように思えてならなかった。
「もういい? 私、早くこの草のてっぺんまで登りたいの。あんたもさ、いつまでもそんな木にしがみついていないで、手頃な草でも見つけてさっさと登り切っちゃいなよ」
「そうだね。でもこの木は、今まで僕を育ててくれた木なんだ。確かにごつごつしていて登りにくいけど、やっぱり僕はこの木に登りたい」
「あっそ、せっかく忠告してあげたのに。あんたって馬鹿正直なんじゃなくて、ただの馬鹿なのね」
 そう言い残した女は、彼を尻目にどんどん茎を登っていった。彼女との距離が広がれば広がるほど、胸に空いた穴がその口を大きく広げていくようだった。彼は胸の穴が裂けていく痛みに堪えかねて、思わず女を呼び止めた。
「ねえ君。よかったらこの後、僕と踊らない?」
 自分の言葉に驚いて、危うく足を滑らせるところだった。なぜそんなことを言ってしまったのか、我ながら呆れ返らずにはいられない。
「はあ? 嫌よ。あんたみたいなノロマの相手なんて。女は男と違って、一生のうち一度しか相手を選べないの。なのにどうしてわざわざ、鈍臭いダメ男を選ばなきゃいけないわけ? そもそもあんた、はねが乾いて飛べるようになるまで生きていられるの? きっと東の空が白む頃には、蟻の大群があんたを取り囲んでるわよ」
 彼女が言い終わるや否や、一陣の風が吹きつけて彼の身体にきつく絡みついた。手足を引きちぎられそうになりながらも、幹の窪みに爪をねじ込んで必死に祈る。風がこれ以上勢いを増すと、木肌にしがみついていられなくなって地面に真っ逆さまだ。
 幸いなことに、騒がしかった葉擦れはほどなくして収まった。彼は耳を澄まし、周囲の様子を注意深く窺った。心なしか、夜が先ほどまでより濃さを増したような気がする。彼は急に胸騒ぎを感じて、視線を上に向けた。
 次の瞬間、思わずあっと声が出た。今しがた憎まれ口を叩いていた女の姿が、どこにもない。女が登っていた草は、相変わらず大木の隣に伸びている。彼は恐る恐る視線を落とし、辺りへ満遍なく視線を巡らせた。しかしそれでも女の姿は見当たらない。彼女は一体どこへ行ってしまったのだろう。先ほどの突風にさらわれて、はるか遠くまで飛ばされてしまったのだろうか。それともまさか、本当は初めから女などいなかったのか──。
 彼はぞっとしながらも、女を探しに行きたい気持ちをぐっと抑え、再び大木の木肌を登り始めた。これまで以上に慎重に、しかもできる限り早足で天を目指す。自分には、目の前で起きた現実を覆す力はない。もし探しに行って女を見つけることができたとしても、そんなことをすれば間違いなく夜明けに追いつかれてしまう。そうなれば当然、自分も女も腹を空かせた蟻の朝食だ。今はどれだけ後ろ髪を引かれようとも、自分がやれることを全力で成し遂げるより他なかった。
 大木の中腹を過ぎたあたりで、彼の急ぎ足がはたと止まった。突然不思議な感覚に襲われて、勝手に足が止まったのだ。ということは、ついに機が熟したのだろう。彼は自分に言い聞かせるように小さく頷くと、全身のすべての動きを本能に任せた。自然と足が動き、木肌にしっかりと爪を差し込もうとする自分がいる。大きな出来事の予感が一気に押し寄せてきて、どれほど深呼吸を繰り返しても身体の震えが止まらなくなった。
 全身が燃えるように熱い。大きなうねりのようなものが、徐々に腹の底からせり上がってくる。まるで今まで見ていた世界が形を失い、混ざり合って、まったく違う世界に作り直されていくようだ。筆舌に尽くし難い感覚に、少なからず不安は感じていた。しかしそれ以上に心は晴れやかだった。不安と同時に、とてつもない解放感が胸になだれ込み、彼はその心地好さにすっかり酔わされていた。
 固いものがぱきりと割れる音が、背中のあたりから聞こえてきた。はっとして全身に意識を向ける。身体が勝手に仰け反っていき、肌に触れる空気が一段と新鮮になったように感じられた。もしかするとこれまでの自分は、ずっと暗い夢の中に閉じ込められていたのかもしれない。そんなありもしない妄想さえ信じてしまいそうな、何とも言えない清々しさが彼の全身を満たしていく。
 気がつくと彼は、苦労して登ってきたでこぼこの木肌ではなく、長年着古した自分の殻の背に摑まっていた。鼻先にあるその飴色の殻を眺めていると、世界が急に晴れ渡ったかのような気分になってくる。これこそが、自分をここまで突き動かしてきた衝動の正体。彼は未だ半信半疑の自分に言い聞かせるかのように、生まれ変わった喜びをひとしきり噛み締めた。
 ふと地上へ視線を移すと、微かに動くものが目に入った。その見覚えのある色と形に、はっとせずにはいられない。あれは彼が大木を登り始めて間もない頃、隣に生えた草の茎をすいすいと登っていた威勢のいい女だ。彼女は大木の傍の地面を、じりじりと静かに進んでいる。
 そのあまりに異様な姿は、彼の胸を容赦なく締めつけた。女は少しずつ移動はしているものの、身体は横倒しになったままだった。どうやら突風に攫われたときの衝撃で、今も気を失っているらしい。ということはもちろん、移動は自分の足で行なっているわけではない。地面に倒れているところを蟻に見つかり、彼らの巣穴に運ばれている真っ最中ということだ。
 あのとき風が吹いたばかりに、彼女の命はいとも簡単に吹き飛んでしまった。木に摑まっていた彼も、爪の引っかかりが少しでも甘ければああなっていたかもしれない。彼と彼女の運命を分けたのは、ほんの少しの運の差だけだ。
 もし彼が名前の話ではなく、自分と一緒に木を登ろうと勧めていたら、彼女はそうしてくれただろうか。よく揺れる脆弱な草ではなく、どっしりとした大木の、爪が引っかかりやすい乾いた木肌を登っていたなら、彼女は突風で落下せずに済んだだろうか。今の彼のように子供の殻を脱いで、共に清々しい朝日を眺めることができただろうか。
 すべては仮定の話で、しかも終わってしまった過去の話だ。彼は新しい門出を目前に控え、希望に胸を膨らませながらも、真新しい火傷のようなひりつく気持ちに悶えずにはいられなかった。
 辺りがほんのりと色づき始め、林の景色もかなり遠くまで見通せるようになってきた。真っ白でしっとりとしていた彼の身体は、すっかり乾いて今はたくましく黒光りしている。生い茂る木々の間から射し込んだ朝日が、背中に生えた透明の翅を虹色に輝かせた。
 彼は居ても立ってもいられなくなり、自分の抜け殻を蹴って宙へ飛び立った。鬱蒼とした木立の間をかいくぐり、頭上に覆い被さっていた数多の枝葉を突き抜けた先は、どこまでも広がる新鮮な青い夜明けだった。
 我知らず、言葉にならない雄叫びを上げていた。世界は広い。地中も林の中も、高い空から見下ろせばあまりにも暗晦あんかいでちっぽけだ。僕は今、ようやくこの世界の表舞台に立った。こうして舞台に立つことさえかなわなかった多くの命を思うと、自分の幸運と果報に感謝せずにはいられない。だからこそ僕は、どんなことがあってもこの生を燃やし尽さなければならない。舞台に立つ寸前のところで蟻に運ばれていった、あの素直でおせっかいな彼女のためにも──。

 彼はしばらく、大空を飛び回る優越感に酔い痴れる日々を送った。背中の翅のおかげで飛べるようになった上、腹の底からとてつもなく大きな声も出るようになった。よく通る声に乗せて歓びを歌い上げると、辺りにいくつもの気配が現れる。彼の歌を聴くために、仲間が集まって来るのだ。
 ただ、仲間の気配はたくさん集まるものの、それ以上彼に接近しようとする者はいなかった。仲間たちはいつも遠巻きに歌の冒頭だけ聴いて、すぐにどこかへ飛び去ってしまう。彼の優越感は、日を追うごとに失望へと変わっていった。
 察しはついていた。彼の歌を耳にしてやって来るのは女性。彼女たちは男の歌を吟味して、歌の主が自分に見合うかどうかを値踏みしているのだ。その推論が裏づけられたのは、ある仲間の男に出会ったときだった。その男はとても勇ましく強靭な歌声を持っていて、男である彼が聴いてもほれぼれしてしまうほど、抜群に歌が上手かった。
「俺が歌いだすと、女たちが山ほど寄って来て、すぐにでも踊りたそうに腹をくねらせる。だから俺は、もう三度も女と踊った。でもな、俺はもっともっと女と踊りたい。声が出なくなり、この身体が動かなくなっちまうまでな」
 そう言い残して男は飛び去ったが、よほど颯爽とした姿を見せつけたかったのか、よそ見をして目の前の木にぶつかった挙句、取り繕おうとばたつくこともなく地面に落ちた。しばらく待ってみたが、一向に起き上がる気配はない。どうやら男の命運は、ここで尽きてしまったようだ。仲間に自慢するほど地上の生活を謳歌してきたのだから、多少早い幕引きとはいえ、それほど未練はないだろう。
 そういえば、地上に出て来たばかりの頃、草の茎を登っていた女が言っていた。女は一生のうち、一度しか相手を選べない。ということは、複数の女と踊った男が多ければ多いほど、踊る相手に巡り会えない男が増えるということだ。これまで一度も女と踊ったことのない彼は、自分のだらしなさをあからさまに揶揄されたような気持ちになった。毎日、心を込めて歌っているつもりだが、未だに彼の歌に惹かれる女性は現れない。これではまるで、自分はこの世界に不要だと言われているようなものではないか。
 草を登っていた女の声が、いつまでも頭の中で反響を繰り返している。やはり僕は、歌が下手で魅力のない、ただのノロマだったのだ。あのとき突風に煽られて落ちるべきだったのは、彼女ではなく僕だったのかもしれない。そんな自責に打ちのめされ、彼の歌声はますます精彩を欠いていった。

 地上で生まれ変わってから、一か月が経とうとしていた。毎日くたくたになるまで歌い続けたが、それでも彼の声になびく女性は現れなかった。気がつくと、身体の所々にガタが来始めている。地上で歌を歌い続けられる時間は、もうそれほど残っていないのかもしれない。
 このまま一生を終えることに、恐怖や後悔が無いと言えば嘘になる。しかし彼の胸中には、そんな虚しい運命を受け入れる準備もできていた。以前出会った歌の上手い男のような、生まれつき恵まれている者ばかりを見てきたなら、こうはならなかっただろう。しかし彼はこれまで幸福な光景よりも、仲間のやるせない最期のほうを数多く目の当たりにしてきた。
 たった今まで女を求めて歌い、必死に飛び回っていた者が、突然力を失って地面に落ちる。そこで仰向けにひっくり返ったまま、なす術もなく最期のときを迎えるのだ。何ともあっけない結末。ただ、彼らには悲壮感こそあるが、卑しさや見苦しさは微塵も感じられなかった。結果はどうあれ、彼らの生の終着点には、役目を終えた者たちの崇高な美学のようなものがあった。
 そして、未だに女性にも最期にも辿り着いていない彼はというと、世界から爪弾きにされたような空気に押し潰されてしまいそうだった。だから余計に彼は、そんな仲間たちの潔い最期に憧れを抱くようになった。何年も地中に引きこもっていたときは何とも思わなかったが、この期に及んで孤独をひどく呪っている自分がいる。あまりにも強烈な皮肉。もはや彼は、苦笑で気鬱を紛らす気にさえなれなかった。
 そういった悲観を放っておくと、そのうち追い詰められた心身が彼を取り殺していたかもしれない。だが幸い、そうはならなかった。彼が孤独ではなくなったからだ。ただ、孤独からは脱したものの、それは彼が当初から望んでいた形ではなかった。この奇妙な巡り合わせばかりは、運命の悪戯としか言いようがない。
 その日の彼は、早朝からずっと歌いづめだった。暑い季節だけに、林の歌声は涼しい夜明けから始まり、気温が上がり切る正午前にはぴたりと止まる。暑さで参ってしまわないよう、気温が下がるまで木陰で涼むからだ。しかしその日は、暑い時間になってもひたすら歌い続ける者がいた。生まれ育ったモミの木にしがみつき、半ば自棄やけになって歌っていた彼だ。彼の歌声は、他に誰も歌っていない林の中をじとじとと気だるく漂い続けた。
「──美しくない。誰です? いつまでも未練がましい声で歌っているのは」
 誰かの声が聞こえたかと思うと、小柄な男が飛んで来て彼の隣にとまった。彼は思いも寄らない訪問者を前に、歌をとめてぽかんと口を開けるしかなかった。
「しつこく歌っていたのは君? こんなに暑いのに、どうして歌い続けているんです?」
 小柄な男は彼の鼻先まで歩み寄って、真正面から顔を覗き込んできた。どうやら真剣に彼を問いただそうとしているらしい。
「いつまで歌おうと、僕の勝手だろ。今は他に誰も歌っていない。僕の声だけがみんなに届く時間なんだ。この一人舞台が羨ましいのなら、君も文句なんて言ってないで歌えばいい」
 厳しく言い返せば、たじろいで逃げていくだろうと思っていた。ところが小柄な男は、逃げるどころかますます目を吊り上げて食ってかかってきた。
「何です、その態度は。そんな心がけだから、歌声だって魅力がないんですよ。あんな歌を聴くくらいなら、沼でウシガエルの鳴き声でも聴いていたほうがマシです」
「うるさい! そこまで言うんなら、お前はさぞ歌が上手いんだろうな。歌ってみろよ。そんな小さな身体で、どこまで歌声を響かせることができるか見ものだな」
 煽り気味に言ってみても、小柄な男は眉ひとつ動かさず平然としている。よほど歌に自信があるのか、はたまた煽られていることを理解していないのか。
「私は歌いません。歌を捨てた身ですから。それに、もし歌を捨てていなかったとしても……」
 そこまで言うと、小柄な男は深々と溜め息をついてそっぽを向いた。
「美を解しないウシガエルに聴かせる歌はありません」
 さすがに黙っていられず、彼は翅をぶるりと震わせて声を荒げた。
「誰がウシガエルだ! だったらお前は陰気で口だけのコオロギか? せいぜいウシガエルに食われないよう気をつけるんだな。それに僕にはウシガエルじゃなく、ナギという名前だってあるんだ」
 そっぽを向いた相手に捨て台詞を吐いたのだ。小柄な男はこの空気に堪えられず、飛び去るとばかり思っていた。ところが男は飛び去るどころか、一旦背を向けた身体を再びぐるりと回して、彼に向き直った。しかもその目は先ほどまでと違って、驚きと好奇に満ちている。
「──名前、持っているんですね」
 小柄な男の口調に、これまでのような棘はなかった。そのあまりの豹変ぶりに、面食らわずにはいられない。
「あ、ああ。それがどうした」
「私も名前、持ってます。クニです。よろしく、ナギ殿」
 一転して温和になったクニは、カニ歩きでいそいそとナギに並ぶと、機嫌よくじじじと鳴いてみせた。何が何だか、訳がわからない。
「いきなりどうしたのさ。名前がそんなに珍しい?」
「ええ、もちろん。名前を持っている仲間に出会ったのは初めてです。しかも、なんて美しい名前!」
 まさか褒められるとは思わなかった。今の今まで憎らしいことを言っていた相手だが、さんざん時間をかけて考えた自分の名前を褒められれば悪い気はしない。ナギは先ほどまで煮え立っていた気持ちのやり場に困って、視線を所在なく漂わせた。
「──あ、ありがとう、君の名前もなかなか良いと思うよ。それはそうと、君はどうして僕の歌に横槍なんか入れたのさ」
 ナギの質問を聞くや否や、クニは悪戯っぽくニヤついて、自分の肩をナギの肩にぴたりと寄せた。内緒話でも始めるつもりだろうか。
「それはですね、ナギ殿の歌があまりにも下手くそ……」
 横目でじろりと睨みつけると、クニは無邪気に苦笑を浮かべて、さらに肩を寄せてきた。
「まあまあ。半分は冗談です」
「半分?」
「はい。だから、もう半分は素直な感想ということになります。ナギ殿、やけっぱちになっていたでしょう? あれでは誰も聴いてくれませんよ」
 確かにクニの言う通り、ナギは半ば投げやりになっていた。どうせ誰も聴いていやしない。歌っているのは自分だけとはいえ、もしこれほどの炎天下で歌を聴く者がいたとしたら、酔狂にもほどがある。
「だって、誰も聴いてくれないからさ。ちゃんと聴いてくれる仲間がいるのなら、僕だって真剣に……」
「いますって。絶対に。間違いなく」
 ナギはクニに向かって、これ見よがしに怪訝な視線を送った。無理もない。聴いている者がいるのなら、なぜ自分は未だに誰とも踊ることができないのだ。
「いるって、どこに?」
「ほら、ここに」
 クニはそう言うと、自分の顔をナギの額にぶつけんばかりに近づけた。その自信に満ちた表情が何ともおかしくて、ナギは思わず吹き出してしまった。
「ちょっとナギ殿、相手の顔を見て笑うものじゃないですよ。やれやれ、話はこれからだというのに」
「ごめん。クニの真顔があんまりおかしくてさ。それで、話ってのは?」
 クニは不機嫌そうに口を尖らせているが、目尻が両方とも垂れているところをみると、本気で怒っているわけではなさそうだ。
 彼曰く、ナギの歌声はよく通り、かなり遠くの仲間にまで届いているはずだという。だから離れた場所で涼んでいたクニにも、炎天下で歌うナギの声が聞こえたのだ。しかし、歌は聞こえるだけでは駄目。ナギの歌には、何かが決定的に足りない。そう断じたクニは、少し困った顔をして木漏れ陽の先の青空を見上げた。
「僕に足りないもの──。クニにはそれがわかるの?」
「そりゃまあ、一応はわかりますよ。ナギ殿の歌には、美しさがない。仲間たちを魅了する魂。内臓の奥から絞り出されたような、どうしようもないほどの情熱が感じられないんです。だから歌は上手くても、歌っているナギ殿は聴衆の目にとても空虚に映っている」
 思いがけない指摘に、落ち込まずにはいられなかった。上手に歌うことこそが重要と思っていただけに、これまで歌が上手い仲間の真似ばかりしてきた自分が、あまりにも滑稽で情けなかった。
「そうだったんだ。美しい歌に必要な情熱って、一体……」
 クニの返事は、なかなか返ってこなかった。彼の様子から察するに、どうやら一朝一夕には得られない極めて厄介なものなのだろう。となると、すでに衰えが見え始めているナギが、これからそれを得るのはかなり難しいに違いない。とうに諦めはついているつもりだったが、ナギは自分の胸に噴き上がってくる焼けつくようなもどかしさに、辟易とせずにはいられなかった。
「多分その情熱は、誰の心の中にもあるんだと思います。ただナギ殿には、それを意識したり、燃え上がらせたりするきっかけがなかったんじゃないですかね。うん、きっとそうです」
 慰めのつもりなのだろう。クニはナギの顔を覗き込みながらそう言うと、神妙に何度も頷いてみせた。誰の心にもある。でもそれは、きっかけや何かしらの経験がなければ気づくこともできない。ナギは、この広い林の中から一枚の葉っぱを探し出せと言われたような気持ちになり、心中で頭を抱えずにはいられなかった。
「そういえば、クニは歌わないの? 君くらい色んなことを知っているなら、きっと良い歌が歌えると思うんだけど」
「それは盛大な買いかぶりですね。私はナギ殿ほど上手には歌えません。それに私には、歌うことを諦めてでも追いかけたいものがありますから」
 ナギはクニの言葉を聞いた途端、宙を見つめたまま黙り込んでしまった。歌うより大事なことなど、今まで考えたこともなかった。物心がついて地中の部屋を抜け出すまでも、この地上で生活を始めてからも、自分は歌うために生まれてきたのだと信じて疑わなかった。クニは自分と違い、これまでどんなことを考え、気づき、選択してきたのだろう。歌いたいという衝動を捨ててまで、一体何を追い求めているのだろう。
「クニは周りにたくさん仲間がいても、歌いたくならないの?」
「歌う気がまったく起きない、と言ったら嘘になります。でも私は、歌っている時間が惜しい。一日のほとんどを歌に費やすくらいなら、私は世界のあらゆるものを見て回りたい。そして、できるだけたくさん美しいものと出会い、その感動を胸に刻みたいのです」
 やはりクニは、自分が想像すらしなかった願望を持っていた。本能とも言うべき歌への欲求をねじ伏せてまで、彼は美を追い求めるという。もちろんナギにそんなことはできない。自分にできないことをやっているのだから、やはりクニは凄い男だと思う。しかし、そんなクニが羨ましいかというと、決してそういうわけでもなかった。
 ナギは、クニのような生き方があると知った今でも歌うことが好きだし、美しいものより、自分の歌に聴き惚れる仲間たちを欲している。多分、生き方に正解はない。クニはたまたま、そういう道に惹かれる感性を持っていた。そしてナギは、本能に忠実であることが最も自分らしいと自覚している。複雑な事情なんてない。彼らを分けているのは、単にそれだけのことだ。
 それからというもの、ナギはクニと頻繁に会って話すようになった。生き方も感性もまるで違う両者だが、なぜか彼らは馬が合った。ナギはクニの物の見方や知識がとても新鮮で、特にクニがこれまで見てきた美しいものの話は格別だった。それに、彼に質問や相談を投げかけると、大抵予想もしなかったような答えが返ってくる。ナギはクニと出会って三日も経たないうちに、彼との刺激的なやり取りに夢中になっていた。
 一方、クニはと言うと、彼はナギのように、自分にないものを相手から吸収しようとは思っていないようだった。ただ、ナギと話をしているときの彼は、とても饒舌で陽気だった。歌う時間さえ惜しいと思っている彼が、ナギとの時間だけは惜しまず大事にしている。その気持ちは、他者の気持ちに敏感とは言えないナギにもひしひしと伝わっていた。
 数多くいる仲間の中でも、歌うことを捨ててまで我が道を進んでいるのは彼だけだ。故に、彼ほどの孤独を背負っている者は他にいないだろう。だからこそ彼は、ナギとの会話に一方ひとかたならぬ安らぎを感じているのかもしれない。
 では、なぜその相手は他の誰でもなく、凡庸で大した面白みもないナギだったのか。それはクニ本人にしかわからないことだが、何となく察しはついていた。クニがナギに興味を持った理由は名前だ。自ら名前を求め、名前を持つことを誇りに思っている。ナギは、互いが持つこの共通点こそが、自分とクニの心を強く結びつけているような気がしてならなかった。クニの言葉を借りるなら、自分たちを結びつけている名前もきっと、クニが愛してやまない『美しいもの』の一つなのだろう。

 クニと出会って一週間が経とうとしていた。その日もナギは、いつものようにモミの木にとまって歌を歌っていた。クニに歌のまずさを指摘されてからというもの、彼は日々、自分なりに歌の改良に励んでいた。クニが言った、ナギの歌に足りないもの。その正体はあまりにもあやふやで摑みどころがなく、具体的には依然として謎のままだ。しかしそれでも、ナギの歌声は明らかに成長していた。
 朝から遮二無二しゃにむに歌声を響かせていたナギは、陽の光が真上に近づいていることにも気づかず歌い続けていた。すると、目の前の景色が急に遮られ、続けて鼻先から女の声が聞こえてきた。
「ねえ、みんな涼みに行ったわよ。あなたもそろそろ一休みすれば?」
 はっとして眼前に意識を向けると、そこには人懐こい目をした細身の女の顔があった。
「あ、えっと、そういえばずいぶん暑くなったね。歌に夢中で気がつかなかった」
 細身の女は少し呆れたような目をして、小さく吹き出した。その屈託ない反応を見たナギは、我知らず全身を硬直させていた。なぜだかわからないが、次の言葉がうまく出てこない。
「午後もここで歌う?」
 答えたくても声が出ない。出るのはいやに熱っぽい吐息ばかりだ。ナギは出ない言葉の代わりに、何度も小刻みに頷いてみせた。
「そう。じゃあ、また午後にね」
 女はそう言い残すと、軽快な羽音を立てて林の奥へ飛び去った。ナギはその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
 羽音は徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。ナギはようやく自分が息を止めていることに気づき、慌てて息を吸い込んだ。今の女は、また午後に、と言った。ということは、今日もう一度、彼女と会える──。
 そのときふと、こちらに近づいて来る羽音に気づいた。胸が再び早鐘を打ち始め、全身が固く強張る。目の前までやって来た小柄な影は、彼の前にぴたりととまった。ナギが、喜びと照れ臭さを慌ててかき混ぜたような、何とも言えない表情を差し出す。それを見た影の主は、全身を小さく揺すりながら忍び笑いをしている。
「残念でした。私です、クニですよ。ところでナギ殿、さっきのは誰です? もしかして待望のパートナー?」
 もはやナギの親友と言っていいクニは、いつもの落ち着いた口調ではなく、珍しく冷やかすような戯け声を出した。
「違うよ。僕が歌に夢中になっていたから、暑くなったことを知らせてくれただけ」
「本当ですかぁ? それだけにしては、ずいぶん嬉しそうですけど」
 ナギは慌てて仏頂面をこしらえた。どうやら自分は、先ほどの女のことがひどく気になっているらしい。表情を指摘されて初めて自分の本音に気づくとは、我ながら己の鈍感さに呆れ返らずにはいられない。
「そんなことないって。ただ、一つ質問はされたけど」
「どんな質問を?」
「午後もここで歌うのか、って」
 途端にクニは目を輝かせ、肩でナギをちょいと小突いた。
「とうとうやりましたね! これはきっと脈ありですよ」
 クニは翅を小気味好く羽ばたかせて、まるで自分のことのように喜んでいる。その無邪気な笑顔は、ナギの心を少なからず勇気づけた。感情を分かち合える誰かがいることが、これほど嬉しいものだとは。
「でもそう訊かれただけで、本当に来るとは限らないし……」
「何言ってるんです、来るに決まってます。ナギ殿は心配しすぎなんですよ。歌だって前よりずっと良くなっていますし、もっと自信を持って。そうだ、これから沢の冷たい飛沫しぶきでも浴びに行きませんか? 午後に備えて英気を養っておかないと」
「──ありがとう」
「はい? 私は何もしていませんよ。さあさあ、早く涼みに行きましょうよ」
 ナギは、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえていた。振り返ってみれば、腐らずに歌い続けてこられたのも、以前より良い歌が歌えるようになったのも、今日のような機会を得られたのも、すべてクニのおかげだ。彼には感謝の言葉もない。そんな彼に報いるためにも、自分はもっと立派にならなければならない。まだ何も成していないにもかかわらず、こんなところで喜びに泣き崩れている場合ではないのだ。
 午後の陽射しが落ち着く前だというのに、ナギは居ても立ってもいられなくなって歌い始めた。それを聞いた他の仲間たちも釣られて歌い始め、普段はまだ静かな時間だというのに、林の中は早くも大合唱で溢れ返った。林が歌で満たされると、細身の女はナギが歌うモミの木に戻って来た。
 彼女はナギの傍にとまって、じっと歌に聴き入っている。どうやら本当に彼の歌を気に入っているようだ。きりのいいところまで歌い切ったナギは、乱れた息も構わず彼女に話しかけた。
「来てくれてありがとう。僕の歌、どうだった?」
「とっても良かった。どう言ったらいいのかな。あなたの歌はとても透き通っていて、聴いているとまるで冷たい清流の中を飛んでいるみたい。こんな歌、初めてよ」
 自分の歌が、こんなにもはっきりと誰かに届いている。ナギは痺れるような感動に身を震わせた。
「そんなことを言われたのは初めてだよ。僕の歌をわかってくれる仲間がいるなんて、夢みたいだ」
 細身の女は、ナギの興奮した話ぶりを見てくすくすと笑っている。その姿は初々しい少女のようでもあり、我が子を見守る母のようでもあった。玉虫色にきらめく多彩な魅力。知れば知るほど、彼女のことをもっと知りたくなってしまう。
「あの、僕はナギ。君は?」
 予想はしていたが、やはり彼女は微笑んで小首を傾げるばかりだった。寂しい反応だが仕方がない。名前なんて、よほどの変わり者か物好きしか持っていないのだから。
「もし名前がないのなら、僕がつけてもいい? そうだな、セリなんてどうだろう」
「気にしないで。私は名前なんてなくていいの。そのほうが気楽だし、仲間の名前を覚えるのも面倒だから」
 そう言ってころころと笑う彼女に、悪意や嫌気の類は感じられなかった。どうやら彼女は、ナギの申し出が煩わしかったわけではなく、単に名前に興味がないだけのようだ。ナギは彼女に返した笑顔の裏で、ひっそりと肩を落とした。
 どうして仲間たちは、これほど名前に興味がないのだろう。ナギにとって名前は、自分であること、もしくは自分以外の誰かであることを決定づける、何より具体的で重要なもののように思える。しかしほとんどの仲間たちは、その決定に価値どころか、意味さえ感じていないようだ。これでは自分と仲間たちを区別する手段がなく、誰かが自分を見るとき、自分は個ではなく、その他大勢としか捉えてもらえない。
 ただ、その他大勢であることが、生きていく上で障碍や不利益になることはほぼない。名前はあくまで私的な価値であり、極論すれば単なる自己満足でしかないとも言える。それがわかっているからこそナギは、やるせない気持ちに身を捩りながらも、遠慮する彼女に名前を押しつけるわけにはいかなかった。自分の歌は理解してもらえるのに、自分やクニが感じているこの尊さは理解してもらえない。ナギにとって、これほど口惜しいことはなかった。
 次の日は午前中、その次の日は午後の遅い時間、彼女は約束通りナギの歌を聴きにやって来た。名前の件は残念だったが、ナギは歌を聴きに来てもらえるだけでも充分幸せだった。ナギは毎日、目の前で心地好さそうに歌を聴く彼女のために心をこめて歌った。
「それじゃ、また明日ね」
 日が暮れてナギが歌を終えると、彼女はそう言って満足そうに微笑を浮かべた。ナギは飛び去ろうとする彼女の背中を見た途端、思わず声をかけそうになった。込み上げて来た言葉を咄嗟に飲み込む。しかし、気がつくと言葉はすでに口から飛び出していて、彼女の大きな瞳をさらに丸くさせていた。
「待って! あの、僕と踊ってくれませんか」
 しばらく黙っていた彼女は、ナギに背を向けたまま、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「私、今がいいの。誰のものにもなりたくない」
 それだけ言った彼女は、湿っぽい羽音を残してモミの木から去っていった。ナギは引き留めることも、追うこともできず、その夜は一晩中何も考えられなかった。
 その日を境に、彼女はナギが歌うモミの木に姿を現さなくなった。後日、日頃から広い範囲を飛び回っているクニが、その後の彼女のことを教えてくれた。彼女は今も気に入った歌を聴くために、林の中だけでなく外まで頻繁に出かけているらしい。ただ、彼女にとって歌は踊る相手を見極める足がかりではなく、あくまで娯楽の一つのようだ。
 彼女は好きな歌を歌う者と親しくなり、自分に好意を抱かせることを目的としている。つまり、常にたくさんの好意に包まれていることが彼女の喜びであり、生きるすべてのようだ。
 クニが歌を諦め、美に殉ずる決意をしたように、彼女のような生き方もあっていいはずだ。それはわかっている。しかしナギは、どうしても彼女のことを忘れることができなかった。目的はともかく、彼女はナギの歌を好きになり、歌を聴くためだけに何度もモミの木に足を運んでくれた。この世で最も自分の歌を理解してくれた者を、たったそれだけの理由で忘れなければならないなんて、こんな理不尽があっていいのだろうか。
 確かに誰かと踊ってしまうと、それまでの生き方を捨ててしまわなければならない。彼女の場合は、好きな歌を聴いて回り、歌が上手い男たちにちやほやされる日常を捨てることになる。彼女にとって今までは、間違いなく理想的な生活だっただろう。それらをすべて捨てて踊るなんて、とんでもないと思うのも無理もない。
 ただ彼女は、捨てなければならないものと同じくらい、得られるもののことも考えたことがあるだろうか。実際に得る前に、得られた後を想像するのは容易ではない。だが、多くの仲間が相手を求めて必死に歌い、それまでの日常に戻れなくなることを承知で踊る姿は、本能という言葉だけでは片づけられないものがある。なぜならすべての仲間たちは、ナギの下を去ってしまった彼女やクニと同じように、独自の思考と判断力を持っているからだ。
 仲間たちのほとんどは、最終的に自由な日常を捨てて誰かと踊り、自分がいない遠い未来を夢見ながら朽ちていく。なぜそんなことができるのか。ナギには確信があった。それは、捨てるもの以上に得るもののほうが大きいと気づいているから。経験や思考によって、この世には自分より大事な何かがあるという結論に辿り着いたからだ。
 クニはそのことに気づいていながら、その感性の豊かさゆえ、美に殉ずる生き方に抗えなかった。だからこそ、美を誰よりも理解し、その喜びを多くの仲間に伝えることを矜持としている。
 しかし、ナギがセリと名付けようとした彼女はどうだろう。彼女はほとんどの仲間が辿る思考や経験を踏まえた上で、今の生き方を選択したのだろうか。とてもそうは思えない。理由は簡単だ。彼女の視野は自分にしか向いておらず、自分という存在を世界や未来といった目に見えない括りと完全に切り離してしまっている。だから彼女は、目に見える現実しか信じられないし、誰かと踊った先にある世界を想像することができないのだろう。
 だからこそナギは、この結末が歯がゆくてならなかった。おそらく彼女は、ほとんどの仲間たちが辿り着く結論に気づきさえすれば、すべてを理解するはずだ。それなのに自分は、彼女の気づきのきっかけになれなかった。彼女に新しい可能性を見せる機会を得ながら、あと一歩のところで勇気を振り絞ることができなかった。もしあのとき、ショックを受けて佇むばかりだった自分が、一言だけでもいい、彼女に食らいついてたぎる想いを告げることができたなら──。

 とうとうナギは、唯一の生き甲斐だった歌を投げ出してしまった。地中にいた頃の彼を育み、門出を静かに見守ってくれたモミの木の幹にとまって、今日も最期のときが来るのをじっと待っている。
 そんなナギの最大の関心事は、最期の瞬間に見る景色のことだった。彼らは皆、力を失って地面に落ちると仰向けになる。そうなると、目が身体の表側についている彼らは、足元の景色を見ることができない。つまり仰向けにひっくり返った最期の瞬間は、必ず地面を見ることになる。
 冷たい地面を見ながら迎える最期には、少なからず寂しさを覚えた。だがもしかすると、これも運命なのかもしれない。地中で何年も暮らしてきた自分らが、生の終わりに求める最大の安息。それが天ではなくて地だとすると、むしろおあつらえ向きの最期と言えるのではないだろうか。
「ナギ殿、今日も歌はなしですか。まだ歌えるはずでは……」
 クニは毎日ナギの下にやって来て、あれこれと世話を焼いてくれる。しかしナギにはもう、歌を歌う気力が残っていなかった。歌を気に入ってもらえたのは、これまでたったの一度だけ。今さら歌ったところで、再びセリのような物好きに巡り会えるとは思えない。
 その日、クニが語ってくれたのは、キイロスズメバチに襲われているニホンミツバチの巣を見たときの話だった。身体が小さいミツバチは、どう頑張っても大きいスズメバチには勝てない。巣の働き蜂たちは、このままでは皆殺し。巣の中の幼虫や女王蜂も、一匹残らずスズメバチの餌になってしまう。ミツバチの巣は存亡の危機にひんしていた。
 単独で立ち向かったミツバチたちは、片っ端からスズメバチに噛み殺された。じりじりと巣に歩み寄るスズメバチ。巣の入り口を必死に守るミツバチたち。スズメバチが今まさに巣の入り口に踏み入ろうとしたとき、近くの木から彼らの戦いを見ていたクニの目は釘付けになった。ミツバチたちが一斉にスズメバチに飛びかかり、あっという間に大きな球になったからだ。
 たくさんのミツバチに取り付かれたスズメバチは、もがきながらも容赦なくミツバチを噛み殺していく。それでもミツバチたちは怯むことなくしがみつき、さらには身を寄せ合って翅を激しく震わせ始めた。何重にも折り重なった勇ましい羽音が、その場だけでなくクニの胸の奥までも埋め尽くす。攻防はその後もしばらく続き、そしてあっけなく終わりを迎えた。スズメバチがミツバチの球の中で、とうとう息絶えたのだ。
 大勢で翅をばたつかせた球の中は、かなりの高温になっていただろう。ミツバチたちは自らの体温を極限まで上げることで、巣を襲ったスズメバチを蒸し殺したのだ。ただ、ミツバチたちも喜んでばかりはいられない。辺りにはたおされた仲間が無数に転がっており、蜂球を形成していた者たちも熱によって相当参っているようだった。おそらく彼らも、長くは生きられないだろう。
 一部始終を見ていたクニは胸が熱くなって、しばらくその場で涙を流し続けた。
「──悲しかったの?」
 ナギが問うと、クニは意外にも湿っぽい表情にはならず、厳かに口元を引き締めてまぶしい夏空の青を見上げた。
「目の前でたくさんの命が失われて、悲しい気持ちもあったと思います。でも、どうでしょう。本当に悲しくて泣いたのでしょうか。私はあのとき、何物にも代えがたい美しさを知ったような気がするんです」
 そのとき、辺りに鋭い声が響き渡り、いつもは閑散としている正午の空気を引き裂いた。声の方へ目を向けると、一羽のカラスが地面に降り立ってしきりに足元をついばんでいる。カラスの脚に摑まれ、くちばしで弄ばれているのは若い男。見た目や鳴き声から、ナギたちの仲間ということはすぐにわかった。捕らえられている男は狂ったように声を上げ、カラスの脚から逃れようと必死に翅をばたつかせている。
 気がつくと、たった今まで隣にいたクニの姿がなかった。カラスに怯えて逃げ出したわけではない。彼が勢いよく飛び出した先には、今にも仲間を食らおうとしている漆黒のカラスがいる。
「やめろクニ!」
 クニは捕まった仲間を救うつもりなのだろうか。確かに捕らえられた男の声は若々しく、凛々しくて魅力的だ。あの男が女と踊れば、きっと素晴らしい子がたくさん生まれるだろう。しかし、この世に理不尽は付き物。今までもこういった場面は数多く見てきたし、そのたびに危険を冒していたら命がいくつあっても足りない。しかも相手は、ナギたちより何倍も大きいカラス。あまりにも無謀だ。
 クニは大声を張り上げながら、カラスの周りを執拗に飛び回った。しかしカラスは、クニの懸命の挑発には目もくれず、その黒く不吉なくちばしで男の脚を一本引き抜いた。男の絶叫が、炎天下の燃えるような空気をたちまち凍りつかせる。
 一直線に降下を始めたクニの身体が、カラスの顔面を直撃した。面食らったカラスは、ようやくクニの動きを目で追い始めた。なおもせわしく行き来するクニを、カラスの鋭い眼光が俊敏につけ回す。隙を見て飛びかかるつもりだろうか。それとも気を取り直して、先に男を食ってしまうだろうか。
 ほどなくして繰り出された二度目の体当たりが、カラスの横っ面を激しく揺らした。カラスがひどく苛立った鳴き声を轟かせる。片脚で若い男を摑んでいるため、クニの突進をうまく避けられないようだ。クニは素早く身体を翻してとんぼ返りをすると、これまでよりさらに速度を上げて、カラスの顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。今までよりずっと甲高いカラスの鳴き声が、カラスの苦悶をありありと想像させる。
 カラスの動向に異変が起きていた。クニの動きを追わなくなったかと思うと、先ほどから左目を閉じたまま低い声で唸っている。どうやら三回目の体当たりが、左目に傷を負わせたらしい。さすがのカラスも、これには辟易していることだろう。
 希望の光が射し始めた矢先だった。身を低くしたカラスが、クチバシの先を足元に向けた。クニに構わず食事を済ませる気だ。すかさずクニが飛びかかる。次の瞬間、ナギは目を疑った。果敢に体当たりを試みたクニの身体が、一瞬にして地面に叩きつけられたのだ。カラスがクニの体当たりを誘い、ぶつかる寸前に羽を広げてクニを叩き落としたのだ。
 もはや飛ぶことさえ億劫なはずだった。しかしナギは、我知らず木の幹を蹴って宙に飛び立っていた。このままでは若い男だけでなく、カラスの足元に転がっているクニまで……。絶対にそんなことをさせるわけにはいかない。だが、巨大なカラスを相手にどうやって?
 ナギは視線の先にいるカラスを睨みつけながら、まるで糾弾するかのように胸中へ問いかけた。僕はこのまま何もできずに一生を終えるのか? だとしたら、地中で過ごしたあの長い歳月は何だ? 僕が生まれた意味は? 僕の一生は? 僕は一体、何のためにここにいる!
 カラス目がけて突進したナギは、カラスの鼻先で急停止し、足を大きく広げて顔面にしがみついた。その体勢のまま、全身全霊を込めて歌声を響かせる。カラスはやかましさのあまり、狂おしい怒声を張り上げて激しく首を振り回した。それでもナギは必死に食らいつき、なおも大声で歌い続ける。
 カラスの声に、これまでにない殺気がみなぎった。ナギを顔から剝がそうと、左右の羽を何度も顔に擦りつける。カラスの羽がナギを叩くたび、彼の六本の足は根こそぎ引きちぎられそうになった。しかし抵抗すればするほど、ナギの爪はカラスの顔に食い込んでいく。
 正気を失ったカラスは、とうとう脚を使ってナギを引き剝がしにかかった。カラスが足を上げた瞬間、捕まっていた若い男が勢いよく空に飛び立つ。カラスはナギの排除に躍起になるあまり、足元の獲物のことをすっかり忘れていたようだ。ナギは男の脱出を見届けると、カラスの顔面を蹴りつけて素早く宙に舞い上がった。
 懸命に逃げるナギの背後に、不気味な黒い影が迫る。気配を感じて急旋回したつもりだったが、僅かにカラスの追撃のほうが早かった。カラスのくちばしが、ナギの右翅を捉える。ナギは男を助けた達成感を噛み締める暇もなく、たちまちどん底に突き落とされた。あの若い男が死に物狂いでもがいても、自力では逃れられなかったのだ。地上で一か月も生きて疲れ切っているナギが、カラスの拘束から逃れられるはずもない。
 そのとき、勇ましい歌声が聞こえたかと思うと、ナギの翅を咥えていたくちばしが力を失った。カラスがけたたましく鳴いている。気力を失いかけていたナギの身体は、拘束を逃れて中空へ放り出されていた。咄嗟に振り返ると、左目から血を流すカラスの横顔が見えた。そして、たった今聞こえた歌声は間違いなく、先ほどまでカラスに捕らえられていた若い男のもの。ナギの危機を知り、ナギやクニに倣ってカラスの左目に体当たりを試みたのだろう。
 ナギは若い男への感謝を歌にしようと、大きく息を吸い込んだ。ところが、ここまでの無理が祟ったのだろう。声を出そうと腹に力を入れた途端、彼の意識はぷっつりと途切れてしまった。

 目を覚ましたナギは、青々と茂る木の葉の一枚にしがみついていた。陽の高さは気を失ったときとそれほど変わっていないので、時間はそれほど経っていないようだ。カラスの追い討ちにより翅を傷つけられてしまったが、幸い破れてはいない。何とか飛べそうだ。ナギは疲弊しきった身体に鞭打って、いつものモミの木を目指した。カラスに叩き落とされてしまったクニが心配だったからだ。
 モミの木まで戻って来ると、クニは倒れた場所からほとんど動いておらず、地面にうずくまったまま細い掠れ声で歌を歌っていた。クニの歌声を聴くのは初めてだった。
「クニ! 無事でよかった」
 安堵の声を漏らして傍に着地した瞬間、ナギは言葉を失った。クニの顔の右半分が、完全に潰れてしまっていたからだ。地面に叩きつけられたとき、運悪く硬い石にでもぶつかってしまったのだろう。
「ナギ殿、ですか。面目ない。もう目が、ほとんど見えなくて」
 たちまち涙で何も見えなくなった。この世界を精一杯生き、仲間のために身を尽くした彼がこんな目にあっているのに、無気力な自分はこうしてのうのうと……。
「僕がもっと早くカラスに立ち向かっていれば──」
「やめてくださいよ。ナギ殿は立派に、仲間を救った、じゃないですか」
「でも、クニを救えなかった」
「いいんです。私は満足、していますよ。ようやく、辿り着きましたから」
 傷がひどく痛むのだろう。クニは途切れ途切れの言葉を懸命に紡ぐと、いつもにも増して穏やかな笑みを浮かべた。
「辿り着いた?」
「そうです。私は美に、憧れていました。美しいものが、好きでたまらなかった。そしてできれば、自分自身も美しくありたかった。でも私はこの通り、見た目は貧相で、歌だって聴けたものじゃない」
 辛うじて立っていた膝ががくりと折れ、クニは地面に腹這いになってしまった。おそらくもう、声を出すのもやっとなのだろう。しかし彼の表情だけは相変わらず、朝の澄んだ朝日のように明るかった。
「でもですね、ナギ殿。私は最後の最後に、最高の美を手に入れたんです。あの日見たミツバチたちに負けないくらい、純粋で気高い美を」
「何言ってんだよ。クニは出会ったときから、僕なんかよりずっと光り輝いていた。こんな無茶をしなくたって、充分美しかったよ」
「またまた。私は女性に声をかけられたことなんて、一度もないんですよ。それよりほら、いつもの木を見上げてみてください。女性がこちらを見ている気配がします。行ってあげてください。きっとナギ殿に用があるんです」
 モミの木に目を遣ると、確かにクニが言った通り、若い女が幹にとまってじっとこちらを見下ろしていた。見慣れない容貌。おそらく地上に出て来たのは最近で、会うのはこれが初めてだろう。
「ぐずぐずしていないで、さあ、早く」
「無理だよ。クニがこんな状態なのに」
 クニはやれやれとでも言わんばかりに、浅く溜め息をついてみせた。
「こんな状態だからです。私はやっと美しくなれた。だから永遠にこのままでいたい。醜い姿はもう、誰にも見られたくないんです。蟻に運ばれるような醜態は……」
 すべてを悟ったナギは、とめどなく流れる涙を拭ってゆっくりと飛び立った。決して後ろを振り返らないよう、どこまでも高い真夏の青だけを見つめながら。
 最後に見たクニは、これまで見たどの表情より清々しい笑顔でナギを送り出してくれた。ナギは、かつて自分にクニという親友がいたことを何よりも誇らしく思った。

 木立の中を飛ぶナギは、自分を追う小さな気配を感じて速度を落とした。横目で背後を窺ってみる。どうやらクニが言っていた、モミの木にいた女のようだ。
「何の用? 僕は忙しいんだ」
 必死についてくる若い女の顔を見て、ナギはすぐにぴんと来た。彼女の目は、クニが美について語っていたときの目にそっくりだ。彼女は恋をしている。全身全霊をかけて美に恋をしていたクニのように。ということは、目当てはカラスの脅威から逃れた若い男だろう。彼の歌は若々しく魅力的だった。彼女が自分を追う理由は、彼が今どこにいるかを訊くために違いない。
「あの、お願いがあるんです」
「ああ、彼ならもういないよ。カラスに捕まった僕を助けてくれて、そのままどこかへ飛んで行ってしまった。だから彼の行方は、僕にもわからないんだ」
 ナギの返事を聞いた彼女は、目を丸くしてかぶりを振った。どうやら思い違いだったようだ。ナギは改めて彼女の話を聞くために、近くの木の幹にとまった。彼女も同じようにナギの隣にとまって、乱れた息を懸命に整えている。ナギは素知らぬ顔をして、彼女の横顔をちらと盗み見た。息を整えている健気な姿が、何とも素朴で可愛らしかったからだ。
「いえ、そうじゃなくて。もう一度、歌が聴きたいんです」
 さすがに苦笑するしかなかった。やはり若い彼の話ではないか。確かにあの雄々しい歌声を聴けば、誰だって興味を持つだろう。だが、願いを叶えてやることはできない。何しろナギは、つい先ほどまで気を失っていたのだ。若い彼があの後どこへ飛び去ったのかも、普段はどの辺りに住んでいるのかもまったく知らない。
「だから言っただろう。素敵な歌声の彼のことは知らないって」
 すると彼女は、まだ整いきっていない息を無理やり飲み込んで、それまで細かった声を何本も束ねたかのような大声で言い返してきた。
「私が聴きたいのは、あなたの歌です。よかったらもう一度、聴かせてください」
 思いも寄らない願いに、呆然とするしかなかった。聞き間違いかとも思ったが、耳に残っている彼女の言葉は何度振り返ってみても、他の意味には取れそうもない。
「何かの間違いじゃないの? それに、もう一度ってどういうこと? 僕は最近、歌ったことなんて……」
 すっかりうろたえているナギを見て、彼女は無邪気に吹き出した。
「あんなに大声で歌っていたじゃないですか。カラスに立ち向かっている間、ずっと」
 無我夢中だったので、自分が歌っていたことなんてまったく覚えていない。ただ、もし歌っていたのなら、その歌はとてつもない逆境に立ち向かった瞬間の、熱く赤裸々な気持ちそのものだったに違いない。その気持ちにもう一度触れたいと言ってくれる女性がいる。これほど嬉しいことはなかった。
「僕はね、ナギっていうんだ。君の名前は?」
「名前? 考えたこともなかった」
「それなら僕がつけてもいい? 背中にある綺麗な波模様。ナミっていうのはどうだろう」
 彼女は微笑みを浮かべ、嬉しそうに頷いた。ナギとナミの頭上から、まばゆい木漏れ陽が射し込む。数年間過ごした地中では決して味わえなかった、神々しい陽光の恵み。それが今は全身だけでなく、胸の中にも明るく降り注いでいる。
「僕は歌う。ナミが満足するまで、何度でも、いつまでも」
 ナギは隣に寄り添うナミを思いながら、心を込めて歌を捧げた。死闘の最中に叫んだ猛々しい響きではなく、辺りを優しく包むような温かい歌声。これまでのことをすべてを忘れて、ただただ彼女のために歌い続けた。そしてようやく歌い終えたとき、くすみきっていたはずのナギの瞳はすっかり輝きを取り戻していた。
「ナミ、僕と踊ってくれないか?」
 ナミはつぶらな瞳を輝かせて、大きく頷いた。彼女がはしゃぐように宙へ舞い上がると、その後をすかさずナギが追いかける。ナギとナミはどこまでも青い空に二重の螺旋を描きながら、優しく、そしてときに力強く踊った。
 見下ろせば大地が広がっている。木々が生い茂っている。川が流れ、鳥がさえずり、熱くまぶしい陽光がすべての生命の脈動をたたえている。そして見上げれば、たちまち吸い込まれてしまいそうな紺碧こんぺき宇宙そら
「ありがとう、ナギ。私そろそろ行かなくちゃ」
「行くってどこへ? 僕はまだ君と離れたく……」
「それは駄目。私には大事な役目があるの。地上に戻って、あなたからもらった大切な感動を地面の下に置いてくる。だから先に行ってて。私もすぐに追いかける」
 名残惜しそうに言い残したナミは、踊りをやめて地上へ下りていった。ナギは追いたい気持ちをぐっと堪えて、ナミが言った通り先を目指した。彼の視界の先にあるのは、真っ白に輝く真夏の太陽。
 どこまでも上へ、どこよりもまぶしい場所へ。ずっと引きこもっていた居心地のいい土の中は、やはり安息の地ではなかった。その証拠に、ナギが最期に見惚れていたのは、仰向けになったときに見える地面ではなく──。

(了)

#創作大賞2024 #恋愛小説部門