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あきた照明寺ものがたり

前方から人が歩いてくるのを認め、つきのき郵便局はガラス戸を開ける心の準備をした。しかし標的は予想に反して立ち止まり、ポストにハガキを落としただけで去って行った。郵便局は「なんだ」と呟いた。

その上空に電線を走らせるいくつもの送電塔の一つが、山の頂上にそびえ立ち、山に囲まれたこの地域、あらながねを一望していた。そのすぐ隣に、送電塔の真似をしてそびえ立つ、細い三つ足の塔があった。その頂に小さな白い箱が載り、飛び出た筒状の一つの眼でウインクをすると、風景が四角く切り取られたものが中におさまった。

それらが背負われて下山するのを、周辺の赤松は名残惜しそうに見つめた。

人間は一人、押し黙って山道を下った。突然の雷鳴を聞くと、足音の間隔を狭めて歩いた。道中のブイ字型に整列した林業公社の杉林には一瞥もくれずに雪道を辿った。公社の山を抜けたところで、雪下のぬかるみに気づかず、足を縺れさせた。よろめき、すぐに持ち直し、泥のついた靴のまま、寺山の下りの道に入って行った。

その第一歩目の足音を茂みの中で聞いているものがあった。粗末なトタン製の祠に据えられた十一面観音だった。書かれていた文字も消え、見てくれはただの石ころとなったかれを拝む者は、もう誰一人としていなくなっていた。それなのにこの人間は、草むらの中から祠を探し当て、手を合わせた。

人間は舗装された新しい道に出て行った。道なりに曲がって行くと、突き当たりに樹木の壁があった。人間はこの壁の中のいくつかの箇所を、今度は手持ちの黒い板を使って写真にしていった。

「この場所は、昔、おじいさんがキノコを採っていた場所だ」

「こっちは、昔、そりすべりをして遊び転げた斜面」

「新しく植えた若い杉が育っている」

「冬なのに椿が咲いている」

この場所は……とやっていると、突然、雲が「早く帰れ」と、バラバラみぞれを降らせてきた。すると人間はすぐに山道を降りた。麓に立つ小さな家の引き戸を開けて、その中の世界に入って行った。


若い人間は「降ってきた、降ってきた」と言って上着を脱いだ。居間に入ると、背もたれにたくさんの衣類がかかった回転する椅子に、一人のおばあさんが座っていた。若い人間が入ってきたことに気づくと、弱々しく微笑んで「あおいさんですか、あかねさんですか」と尋ねた。若い人間は「あおいさんです」と答えた。

すると彼女は「ああ、よくきてくれました」と言い、「いま、何年生?」と問うた。若い人間が「大学三年生」と答えると、老いた人間は口をオーの字にして息を吸い込み、「おお、そうなった!」と、いつも通りの仰天をした。

上着をハンガーに掛けて、ストーブの前に縮こまったあおいさんを見て、「いまどこかさ行ってきたの?」と尋ねた。

「お寺の山に登ってきた。雷が鳴って、みぞれが降ってきて寒かった」

「あい、そいだば、寒かったでしょう」

そのとき、レースカーテンの合間から陽光が差し込んできた。おばあさんは椅子を向きかえて、「あら、天気いいよ」と言った。

若い人間は怪訝そうに窓の外を見た。確かに天気は上がっていた。


寺の参道は苔むした。雪はその上にニセンチメートルだけ積もっていた。それを自分の背丈ほどもあるスコップで、懸命に掻き寄せながら歩く、あのおばあさんの姿があった。おばあさんの名前はゆうほうと言った。

参道の脇に立つ六体の古い地蔵は、せっせと進む道の上の彼女を昔と変わらぬ穏やかな顔で見守っていた。やがてゆうほうさんは地蔵を通り過ぎて公道へ出た。山から下ってきた湧き水が流れる、道と道の間の溝にその雪を落とした。雪の下の苔までが、削れてめくれ上がるほどの仕事ぶりだったが、雨雪の嫌いな赤松の古木の切り株は、このゆうほうさんの雪かきをとても頼もしく思っていた。

屋根のかかった切り株は、その低い目線の先に、向かいの神社の参道をいまにも登らんとする、彼女の孫の姿を捉えていた。

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おおみやという名の神社であった。この神社の中で、ひときわ太い幹をした杉は、その名前を呂山と言った。

向かいの寺からやってきた人間は首から重たそうな白い箱を下げ、その箱越しに呂山を観察していた。呂山は話しかけた。

「私の根は地中から浮き上がり、地面との間に大きな空間を作っている。そこを何かが巣穴にしていると思うのだが、何の生き物か見てくれるかね」

人間はかがんで木の根元を見た。

「幹も見てくれるかね。名も知らぬか細い枝に、我が幹を絡め取られることに我慢がならなくなっていたところだ。このように寄生されて生きる姿の私が神木となることを、そなたはよいと思うかね」

聞こえているはずがなかった。それでもその人間は枝の巻きついた幹の表層をカメラにおさめた。そして翻って呂山を後にし、参道のさらなる奥へ歩みを進めた。

道がうっすらと被った雪の上に、カラスの歩いた跡が点々と載っていた。そのすぐ横に、雪を被った丸い盛り上がりがあった。それは道の脇に円形状に掻き集められた落ち葉たちであった。これと同じような固まりをいくつか通り過ぎ、人間は小さな祠と立て札のある広場に行き着いた。それが背の高い木々に囲まれた空間であるのをまず記録し、それから祠に向かって手を叩き合わせた。しばらくは幹や枝葉の重なりを見ていた。黒々とした枝葉の間隙から覗く、屋根の赤青の色彩に目を奪われてもいるようだった。しばらくはそのようにしていたが、突然、何かを思い出したように、参道の階段を下って神社を抜け出た。

灯篭やら植物やら、白衣観音やらの横を過ぎた。寺の中央を進んでいた。壇の中心に植わったサルスベリに恭しくもお辞儀をして、本堂に至る階段を登った。そのまま建物の壁伝いに歩き、寺の家の裏庭に出た。

白いカメラは裏庭の木の一つ一つの表層を切り取り、蓄えた。スマートフォンも、「この木はとても大きくて見事だ」などと言って、目の前の光景を取り込んでいった。

その見事なまでに大きな椿は、斜め前に立つ老木に向かって、「彼の孫が来ているね。変わったことをしているなあ」と言った。老木はつまらなそうにかぶりを振るった。「あれはシャシンだ。道具は違うが、以前長男がやっていたのと同じことをしているだけなのだ」

イチイという木は、大樹に育つことが滅多にない。小ぶりな赤い実をつける小柄な常緑の針葉樹であった。北海道や東北では、しばしば「オンコ」と呼ばれていた。

しょうみょう寺の裏庭のイチイは三百年の過去を生きてきた。庭で二番目に大きなこの木を、寺の人間は独特の訛りで「オンコノキ」と呼んでいた。かれは表側のサルスベリと対照的な、裏庭世界の柱のように思われていた。

「あれもシャシンなのか。それにしても人間の道具は、ますます小さくなっているなあ」

椿は感心すらしたように気孔から息を吐いた。オンコノキはそれには全く興味がない様子だった。庭に張り出した縁側と、その向こうの紙が散らばった書斎に、身体の弱った人間の生活の跡を見つけていた。

その人がこの井戸から水を引いて農作業をしていたことも、あの柵の中に鶏が何羽もいたことも、気づけば遠い過去になっていた。

「少年だったあいつがおじいさんに」

オンコノキは自重を感じた。自分もそろそろ倒れそうだと思った。その人が括り付けた二本の棒は、なおもこの樹体を支えていた。


居間のカーテンは閉まり、部屋の中は人工の明かりで満たされた。テレビが音を出していた。皆が集まってくる時間が近づいてきていた。

寺の孫はこれまでに撮り溜めた写真を、おじいさんとおばあさんに見せようとしていた。ノートパソコンは写真を飲み込むと、画面いっぱいに表示して、「おじいちゃん、見て。寺山に行ってきたんだよ」と語りかけた。

おじいさんの名前はゆうえつと言った。ゆうえつさんは背もたれの大きな椅子に座り、左足を床の上の台に載せていた。

「おじいちゃんの作った十一面観音さんの祠、無事だったよ。手を合わせてきたんだ」

そこはかつて、馬を走らせれば必ず転ぶ場所であった。何かが怒っていたのだ。この怒りを鎮めようとして安置したのが、あの祠と観音だった。

「ああ、そいだば、いがったなあ」

ゆうえつさんは安堵した。足を悪くしてからというもの、寺山に入ることも、観音を拝むことも、自分ではできなくなっていた。

「おじいちゃんの代わりにたくさん見て、写真を撮ってきたよ。ほら」

ゆうえつさんは寺山の姿を見て感嘆した。

「こうやって写真で見れば、いいものだな。木がまっすぐ生えていだ」

ゆうほうさんもやってきて、こちらを気にして「みなさん何見てますか」と尋ねた。

そのとき、皿が台所から現れた。エプロンを着けたまま、寺の長女は号令をかけた。「さ、みんなでご飯食べるよ」

ご飯はみんなで一緒に食べる。それがこの家で何より大事なことだった。二階で受験勉強をしていたもう一人の寺の孫も席に着いた。これで全員が食卓に揃った。

夕飯を食べ終わる頃に、あおいさんが「おじいちゃんに写真を見せていたところだったの」と言うと、今日の寺山でのことがテーブルの中心になったようだった。パソコンは中に蓄えた写真たちを、予定より多くの人間の目に触れさせた。

ゆうほうさんは頂上からの写真に目を丸くした。

「あらながねだ。ここ郵便局でしょ。昔よく車を運転して行ってたよ」

そして、「こうやって撮ったの?」と、ノートパソコンを持ち上げて写真を撮る真似をした。

不意に、ゆうえつさんが「今日は、おおみやさも行ってきたんだべ?」と尋ねた。あおいさんはぎくりとして、「ま、まだ言語化できていなくて」と言った。

「おおみやさ行ってきたんだべ? どうだった? ……感想は」

「ええと、あの……」

「感想は、なしか」

見かねた長女が口を挟んだ。

「まだ見てきたばっかりで、整理できていなくて喋れねんだと」

するとゆうえつさんは納得がいったようだった。

「ああ、いい、いい。無理さねで」

と言ってひらっと手を振った。


あおいさんには必要な記憶の作り方があった。何を見、何を聞いたかということは、直前に体験したことであるほど理解しがたかった。曖昧な断片が空中に浮かんでいるだけであり、一晩眠ることでやっと頭の中に入っていった。「これでは会話が不便だ。その日のうちに記憶化したい」

そのためにあおいさんが編み出した方法は、「紙に書き出しながら思い出す」というものだった。毎日、ノートの上で記憶作りに励んだ。これを日記と仮称していた。この日の夜も、日記は山と神社と裏庭の記憶を生成した。

あおいさんが日記と呼ぶようなものを、ゆうえつさんは日誌と呼び、ちょうど同じ頃、奥の寝室の柔らかな明かりの下で書いていた。手は何十年と動き続け、ペンは何十冊と走り抜けてきていた。

「いつかこの書く手が止まったら、身体と一緒に燃やしてほしい」

と、家族に頼んである日誌だった。


翌早朝六時になった。

寝起きのゆうほうさんは、杖をつき、丸めた腰で、よたりよたりと歩いて居間にやってきた。窓際のソファに座る孫の姿を認めると、朝の生気のない声でポツリと尋ねた。

「あおいさんだか? あかねさんだか?」

「あおいさんです。おはよう」

おはようございます、と小さく呟いてのそりのそりと部屋を歩行した。テレビ台の上の眼鏡を取り、「こうなりました」と言いながら掛けた。

「これが高齢なんだね……。昔は走って歩いた人だよ? 私はすっかり、おばあちゃんになった……」

つい昨日、元気に雪かきをしていたとは誰も思わないであろう気の弱りようであった。テレビの上の棚をガサゴソ探り、入れ歯がない、なくしたと言った。

やがていつもの椅子に座ると、こめかみをぎゅっと押さえ、頭を叩き出した。

「頭が痛いの?」

「ううん、痛いんでないの。ドクドク言うの」

ゆうほうさんはそう言った後に、ふと「おじいさんはどこにいだ?」と尋ねた。

「本堂に勤行に行っていて、まだ戻ってきていない」

孫はそう答えながら、老人の頭部の内側に流れる赤いものと青いものを想像し、胸を苦しくさせていた。


ゆうほうさんには記憶がたくさんあるはずであった。この小さな頭の中には、きっと大きな記憶の蔵があった。蔵の番人は、これ以上記憶を失わないために、その扉を固く封鎖した。これで扉は開かない。つまり、新しい記憶はこれ以上作られない。蔵はそれでも、やはり、ここにしまい込まれた古い記憶がゆうほうさん自身に知覚される時を待ち望んでもいたのだった。

「あらながねの写真を見たときに郵便局の記憶が蘇ったような、あのような瞬間がもう一度やってこないだろうか」

蔵の番人は苦心していた。


七時ちょうどに、朝の勤行を終えたゆうえつさんと、付き添っていた寺の長女が廊下から現れた。

長女は「ああ母さん、起きたか」と言い、朝食を作るために台所へ消えた。ゆうえつさんは窓際のいつもの椅子に座った。同じ窓際のソファにいたので、孫は祖父と隣り合った。ゆうほうさんは背もたれに背を預けてぐったりと天井を見ていた。テレビなどはついていなかった。

あおいさんは「少し重たい朝だな」と感じていた。

ノートパソコンを開き、昨日見せられなかったおおみや神社の写真を画面に出すと、「おじいちゃん、見て」と声をかけた。

「こういう大きな木があったの」

ゆうえつさんは、画面の中の呂山をじっと見つめた。

「これは、この枝が、木を絞め殺してしまうところだな……」

「他にもあるの。見て、この写真。落ち葉が丸く掻き集められていたんだよ。落ち葉を寄せるっていうことは、神社は人に、安全に歩いてきてもらいたいっていうことだよね」

「この葉っぱも……いまに分解されて、土さ還るからな」

「ん……?」

あおいさんは、この会話が何かおかしいことに気づいた。

「上さは行かなかった?」と、ゆうえつさんは尋ねた。あおいさんは、「上まで行ったよ。写真あるよ」と言って、急いで祠のある空間の写真を画面に表示させた。

「ああ……これが祠か。昔はもっと、大きかったんだどもな……」

ゆうえつさんは明らかに気を落としたようになった。

「普通に俺らの遊び場だったよ!」

台所にいた長女が入ってきて割り込んだ。「あの参道を上がっていって、雪の積もった日には斜面になるから、上からそりすべりなんてして遊んでいたよ。建物の中も二日に一度は人がいっぱい詰めかけてね、賑やかだったー」

この陽気な声に、少々ほっとしたところであったが、洗い終わった箸を箸立てに戻すと、長女はまたすぐに台所に引っ込んでしまった。

「……この寺さも、昔は正月となれば人はいっぺえ来たもんだ。いまだば誰も来ねえして、みんな年取って。寂しいなあ」

この日の日付は一月四日であった。

ゆうほうさんは背もたれに深く身体を預けて眠ってしまったようだった。あおいさんはもう見せる写真もなく、沈黙してしまった。長女は台所で朝食作りを続けていた。ゆうえつさんはそっぽを向いた。

「入院したら病院の食事が食べられるから楽しみだ」

と言った。


ゆうえつさんの胸の中には真っ赤な部屋があるはずであった。「自己」が始まった場所でもあった。この部屋を与えられて初めて、一人の人間として数えられた。それの名前を心臓と言った。

遠いかつて、伸縮する壁にもたれかかって、赤いものと黒いものがひしめき合う様を延々と見ていた日があった。そのうちに、顔が外を向くように付いたので、この真っ赤な部屋のことは視界に入らなくなった。

外の世界に生まれ出ると、あたりはたくさんの色にあふれていた。人生に夢中になるうちに、真っ赤な部屋の記憶はあっという間になくしてしまった。気がついた時にはもう遅かった。

ゆうえつさんの心臓に悪いものが見つかった。悪いものは心臓の三分の二ほども腐らせた。腐った部分は黒くなった。悪いものの正体はきっと虫だった。内側は虫に食べられて穴ぼこになっているに違いなかった。虫は蛹になろうとして、正常に動く部分の壁に自分の肢体をうずめ始めた。蝶になったら命もろともどこかへ飛んで行ってしまうつもりなのだ。

これはしょうみょう寺の心臓でもあった。

長い時間を生きねばならない裏庭の樹木たちは、「次の住職」の噂をよくしていた。低木たちは寂しさを紛らわすために、突飛な空想を繰り広げた。オンコノキはそれを聞くと、

「そもそも寺は、何代もの住職の交代を経て生きながらえるものなのだ」

と、皆を諭すように話し出した。

「もうじき長男が継ぐだろう。あとは女しかいないから、その後は別の、全く新しい家族が越してきて継ぐだろう。ゆうえつの子孫はこの家に住まないだろう。私には、人間たちにとって、今後も寺が必要なのかどうかさえわからん。昔に比べ、この世界の人間は本当に少なくなってしまったものだから」


またある人は、寺がなくなる夢を見た。

ゆうほうさんは本堂に参り、お経を上げた。知らずに火のついた線香をぽとりと床に落とし、それをそのままにして去ってしまった。誰も気が付かぬうちに火は燃え広がっていった。本堂はあっけなく焼失した。山の麓には家だけが残された。

ゆうえつさんとゆうほうさんは、仕方なく農民になったようであった。減反政策以降、使わなくなっていた境内の畑で、農作業が再開されていた。

その人は寺のない実家に呆然とした。戸惑った様子で、作業する老夫婦に近寄って行き、こう尋ねた。

「一体どうしたの? お寺は?」

するとゆうほうさんは手ぬぐいを被った頭をもたげた。大変不思議だと言わんばかりに自分の子供の顔をまじまじと見て、

「どちらさんですか?」

と言い放った。


寺の参道は雪に閉ざされた。日付は二月に変わって間もなかった。山の端がだんだんと白み、もうじき日が昇ろうという時刻だった。

昨晩のうちにどか雪が降った。

植物たちは綿帽子の重みにこうべを垂れた。土は心をあたためて眠っていた。山の杉は春先に飛ばすように蓄えた花粉を手袋の下に覆い隠した。屋根は重たい塊をいくつも滑らせて下に落とした。壁は屋根からの贈り物の中に包まれて真っ白になった。空は緊張した。全体はしんと静まり返っていた。

コォーーーーーーーん……

と、深い音が響いてきた。本堂の方からだった。

毛糸で編まれた帽子を被り、薄手の半纏をまとった住職は、その極寒の朝にも寺の本堂に現れた。自力で執り行える法要は本当に少なくなってしまっていたが、朝の勤行だけは一日たりとも欠かさなかった。近頃は長女も付き添っていた。拝殿の椅子に二人座った。

住職は本堂の御前で、呟くような経をぽろぽろと唱えた。かつてのように声を張ることはもうできなかった。鐘の音は相変わらずだった。空中を震わせて、四方に向かって伸びやかに進んで行った。

カーテンの向こうから白い光が漏れてきた。中天に昇った日の光を大地の白が跳ね返すので、外全体が照明のように明るいのであった。寺の孫はその窓の外に、大量の雪にも臆することなくスコップを手に道を作ってゆく、ゆうほうさんの姿を見つけていた。

ゆうほうさんはやがて帰宅し、椅子に座ると、「あら、あおいさんだね」と言って孫に微笑みをくれた。そして、テレビで体操が始まると、座ったままで上半身を、「えい、えい」と振り動かした。

「昨夜のことは覚えていないのだろうな」

元気な祖母を見ながら、孫は思った。

それは八時とか九時とかの時刻だった。祖父はすでに寝床に入ってしまい、居間には母と祖母がいた。テレビはついていたが、あまり注目を集めてはいなかった。何かの会話をしていたような時だった。

「御詠歌というのは何かを慰める歌なの。すごく、おっとりしていいよ」

突然、祖母がそのように言った。

「音程がドレミファじゃなくて、記号で書かれてあるの。全部、その亡くなった人とかを慰める歌。歌詞がすごくいいの」

それを聞くと、母は本堂から房のついた鈴と金属製の槌のようなものを持ってきた。祖母は肩に袈裟を掛け、低いテーブルの上に美麗な布を一枚敷いた。その上に歌詞と音程の書かれた経典を広げ、いつもの椅子に、すっと姿勢を正して座り直した。

右手には槌、左手には鈴を取った。そして、その歌の歌い出しを、節をもって皆に伝えた。

「とな〜え〜たてまつる〜ひが〜んえ〜ごわさんに〜〜」


こなたはしょうじのくらきさと かなたはねはんのきよきくに

あいにみなぎるぼんのうの ながれぞふかくこえがたき

かなたのきしにいたるには めぐみいましめたえしのび

はげみしずけさちえのとく つみてしこがんのりのふね

あつささむさもひがんまで よろずほどよくかたよらぬ

なごみのすがたちゅうどうの りにふさわしききせつなる

おしえたえなるひがんえを こよなきしゅうようしゅうかんと

ひごろのけたいをかえりみて つとめはげまんろくどぎょう

みおやをまつりみをおさめ ぼだいのたねをつちかいて

じょうどのひかりうつしよに いただくきょうのとうとさよ


そこに書かれていた文字が音になり、音楽となり、意味を失って、聞こえてきた。

「おばあちゃん歌っこ好きで、大会でいっぱいの人の前で、段さ上がって歌っていたんだよ。あなたやってみない? 今度教えてあげようか」

蔵の番人も満足していたことだろう。しっかりとした目でああ言って、口元に微笑を浮かべたのであった。

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