拝啓 聖徳太子様〜1400年越しのラブレター
貴方とは、もうかれこれ5年ほどのお付き合いになりますね。
思えば、貴方の事績と言われる
仏法興隆の詔
冠位十二階
一七条の憲法
遣隋使の派遣
全て大乗仏教の思想をベースとして行われている、にも関わらず、
遣隋使に持たせた国書の中身の、あの有名な一文
「日出ずる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙きや」
…あれで、隋の皇帝煬帝を怒らせましたね。
小野妹子が上手く?誤魔化したので貴方は知らないかも知れないけど。
私はすごく不思議だったのです。
のちに高句麗の僧・慧慈からも尊敬され、なんなら貴方が言ってるじゃないですか、「和をもって尊しとなす」と。
そんな、賢くて穏やかな貴方があんな無礼な手紙をよりによって自国より遥かに大きな国の皇帝に送るなんて。和、なんてあったもんじゃない。
だからね、私は思ったんです。
貴方はもしかしたら日本史上最高の外交官だったのではないかと。
隋という大国が、朝鮮の高句麗と争っており日本に軍を差し向ける余裕はない、倭の国からのこの要求を跳ね返せば背後から高句麗の援助に回るかもしれないという不安から対等外交を認めざるを得ないのではないか、という地政学的視点を持って、わざと書いたのではないか、と。
そうであってほしい。
仏教を理解しながらも国の統治システムとして活用する老獪な信念を持ち、人を食ったような手紙を書いて隋帝国と朝貢ではなく対等な関係を持つ。
そんなスマートな人だったら、どれだけ素敵なことだろう!
そこからでした、私は貴方の面影を追い求め続けのは。
貴方のことが書かれた日本書紀も、
貴方には関係ない国造りのところから読みました。
貴方の建てた法隆寺にも行きました。今でも貴方を大事に祀っていますよ。
ただ、貴方の等身大と言われる救世観音、何故首元にクギが打たれてるのでしょう?何回見ても恐怖を感じます。
恐怖といえば貴方は、私のよく知る旧一万円札の貴方の姿ではなく、目の吊り上がったとても怖い顔をしてる像もありますね。
貴方の違う一面を見たようで、新鮮だったことを思い出します。
貴方の眠る磯長古墳にも行きました。
貴方は知らないでしょうけど、貴方の生きていた時代よりもずっと後の高僧空海も訪れたんですよ。それもあってか、貴方の古墳は聖観音を意味する梵字が書かれた石で囲まれています。
愛されてるんですね。
貴方のことを調べれば調べるほど、老獪な外交官といったイメージではなく
仏教を理解し、仏教を求め、仏教を台座として理想の国家造りと人民育成をしようとした、貴方の姿ばかりが思い浮かぶのです。
あの隋への国書はなんだったんでしょうか…
私は結論を出しました。
あれは、蘇我馬子のしたことだろうと。
貴方は隋への派遣は施行したけれど、あの国書の中身は預かり知らなかったのだろうと。
「聖徳太子」とは、厩戸皇子と蘇我馬子の合作の姿で、
本当の貴方はやはり、聖人君子だったのだろう。
でなければ、1400年も時を経てこんなにも敬慕されるわけがない。
そう、今日、貴方がいなくなってから1400年後のある町で、貴方の研究をしている人の講義がありました。
もう、貴方のことは整理が付いたつもりだったのですが、どうしても隋への国書についてきちんと答えが欲しくて聴きに行きました。
わかりますか?
私がどれだけ驚いたか。
「日出ずる処」「日没する処」は、東西を表す言葉として当時普通に使われていた表現で、失礼には値しないこと。
隋の煬帝は、「天子」は中国の皇帝一人だけの称であることから小国である倭の国が「天子」を名乗ってることに激オコしたけども、聖徳太子としては「仏教のもとにはウチもソチラも対等だよね☆インドは遠いからさ、なんとか仏教が入りやすいように助けてよ〜」という無邪気な心で悪気なく国書を作成してたこと。
なんと素晴らしい!
どれだけ仏教が好きなのか。
私の思い描いていた、老獪でスマートな外交官の貴方ではなかったけれど、純粋に仏教を愛し、その為に出来得る全ての手を尽くすひたむきな貴方もやっぱり素敵だと思いました。
それに加え、最近では貴方は摂政ではなく天皇だった説もあるんですよ。
そうなってくると今度は、「日本書紀において摂政とされているのは何故か」という疑問が湧いてきて、居ても立っても居られなくなります。
本当に、いつ、私は心の整理が出来るのでしょう?
色んな人が、色んな角度で、貴方を見続けています。
1400年かけた、人々の知の集積があって私は私なりの貴方を想像することが出来るのです。
その贅沢な知の集積を頂きながら、これからも貴方のことを思い出すのでしょう。
では、また法隆寺でお会いしたく存じます。
敬具
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