見出し画像

空白の4世紀についてボンヤリ考えてみた

リビングに掃除機をかけながら、私は感慨に耽っていた。
令和4年ももうすぐ終わる。
今年の私の漢字は
「満」。
本当に満ち足りた、満足のいく一年だった。
家族が誰一人体調を崩すことなく健康でいれた。
King Gnuのライブに行くことも出来た。
そして、令和元年から始まった足掛け4年に及ぶ、「天皇陵(主に古墳)ジャーニー」を完遂することが出来た。

そもそもの動機は、
日本史における「空白の4世紀」を
自分なりの解釈で埋めてみたいと思ったことだった。

日本の書物は712年成立の古事記から始まる。
なので、それより前のことは日本側にはきちんとした記録がない。
中国や韓国などの近隣諸国に記録されているのは大体紀元100年から、卑弥呼が死んで代替わりした女王が中国に使いを出した266年まで、そして、倭の五王の使いが来た417年から再び記録上に出てくるけれど、
ぽっかり150年ほど空白になっている。

しかも、この150年の間にスゴイことが起きていた模様。

紀元100年から266年までを中国側の視点で簡単にまとめると、
「時々倭の国の者が、交易目的で中国に来ていた。その者から話を聞くと、倭国では色んなクニが争っていたらしい。でもしばらく経って、倭のクニで台頭してきた邪馬台国の女王卑弥呼が中国と交流したいと言ってきた。どうも近くにある大きなクニが卑弥呼に従わないらしく争いが絶えないみたい。だから中国の権威や権力を利用しようと思ったみたいだけど時すでに遅く、争いの中卑弥呼は死んでしまった。卑弥呼の後もクニの中で色々あったみたいだが、卑弥呼の血筋の壱予が玉座について治まった。」

ここから、150年後
417年の中国側の記録は、
「倭のクニの王が、朝鮮半島での優位を認めてほしいと言ってきた。」
となっている。

中国との交易の目的が、全く違う

国内勢力に対する優位性の確立から
国外(朝鮮半島)における立場の優位性の確立へ

クニが曲がりなりにも統一されて
国という体裁が整い始めたこと
もしくは、かなりの強権のクニが現れたということ

そして、この空白の150年の間に
特異な、
日本独特の前方後円墳が大型になり、堅固なものになっていく。

何が起きたのか?
タイムマシンのない私には全くわからない。

古事記や日本書紀に書かれている、空白の150年あたりの事象は、揶揄され過ぎて中々解読できない。天皇が200歳を超えるとか意味がわからない。

ならば、その時代に建てられた古墳や埋蔵品を時系列的にみることで何か分かるのではないか。
でも、古墳は全国でおよそ16万基あると言われている。一体人生何周すればいいのか。
なので、時代を象徴する大王の古墳(天皇陵)を宮内庁が指定した時系列に沿って追っていけば、当たらずも遠からず、何か見えてくるかも知れない。

そう思い立った日が、つい昨日のことのように思える。

まずは神武天皇と欠史八代の天皇陵。
神武天皇陵は流石に立派だった。
でも第二代から第八代までは、
「え、ホンマに?」
と思わざるを得ない陵だった。
宮内庁が明治時代に、古事記・日本書紀・延喜式をもとに制定してるから…多少は、ね。
体裁を早急に整えないといけなかったから、ね。
仕方ないわね。
でも第九代開化天皇陵から雰囲気が変わる。
規模が大きくなっている。
実在してたかが怪しいとされてる天皇だけれど。

そして第十代から第十九代まで。
第十代崇神天皇陵から明らかに流れが変わった感がする。
第十四代仲哀天皇陵では大きさ+手厚さ感がハンパなくなり、第十五代応神天皇陵の大王感、そして第十六代仁徳天皇陵でピークを迎える。
第十七代履中天皇陵の等高線の美しさは丁寧な仕事を感じさせ、第十八代、第十九代と前方後円墳は続く。
第二十代雄略天皇陵は、円墳部分と方墳部分が区切られていて、有名な天皇である割には変な陵だった。後で調べたら、色々いわくつきみたいで、なるほどね!と思った。

諸説あるけれど、この第十六代仁徳天皇から第二十代雄略天皇までが「倭の五王」らしい。
実際目にしてみてかなり納得できる。

ここから考えていくと、
四世紀頃、巨大な前方後円墳を作れるだけの技術力と動員力を持った強大なクニが確かに畿内にあった。
前方後円墳自体は、同時代に瀬戸内海沿岸、北九州にも造られていたことをみると、倭には一つの大きな統一国家があったというよりは、連合国を束ねる盟主として倭が存在していた。
(強権的な統一国家なら、同じ形態の古墳を作るのは憚れる、と私なら思うので)

その前方後円墳の分布は、畿内から瀬戸内海を通り、東シナ海へと続くルートだ。
そのルートを押さえ、自由闊達に交易をし、朝鮮半島と友好な関係を保ち、鉄を導入して力をつけていった倭の国。

もともとあったクニなのか、
それとも邪馬台国から連続しているのか、
はたまた違う場所のクニが遠征してきて土着したのか、
私には全く分からない。
でも、日本書紀を加味するならば、
遠征してきたクニが土着したのかも知れない。

結局、空白の4世紀に何が起こったのか
ヤマト政権は何処から生まれたのか
答えは分からずじまいだけど
空白の4世紀は私が思ってたよりも
アクティブで、
自由で、
今まではその時代の人を想うときに土気色だった風景が
鮮やかな、
ギラギラとした極彩色に今では彩られている。

それだけでも新たな発見であり
私にとってとても意味のあることだったのではないかと、
小さな古墳を見ても、ただのコンモリした丘ではなく分析してロマンを感じながら眺めることが出来るフィルターを獲得しただけでも素晴らしいと、
答えを出せなかった自分をヨシヨシしながら
リビングの掃除の続きに取り掛かることとする。


おしまい




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?