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仕事と自由と昔話

通ってる床屋(ちょっとおしゃれな床屋)で、いつも担当してくれているお姉さんがいます。
今日髪の毛を切りに行きました。気持ちいいマッサージしてもらい、オプションで頭皮マッサージを追加し、辛い日々に凝り固まった心がほぐれるような心地よい刺激で眠りかけました。
なにか「いいこと」をしてくれた人には、好意的な気持ちを抱いてしまうとなにかの本で読んだことがある気がしますが、まさにそんな気持ちになって目覚めた瞬間、「私娘がいるんですけど、ベビーパウダーの匂いが苦手で夏場の赤ちゃんのお世話辛いんですよね」という何気ない世間話に物凄く裏切られた気持ちになりました。

お姉さんは子育てしながら仕事をしていて、土日休みでもないのに大変だな、でもお姉さんは笑顔で接客してくれて、お客さんも喜んでいる、すごく幸せな仕事だな、って羨ましく思いながら、相変わらず仕事に悩んでいる僕は、働くってなんだろう、とお姉さんを念頭に置きながら考えます。

話が飛ぶんですが、そういえば、歴史の授業で習うような時代(だいたい近現代はタッチできずに授業が終わるイメージ)では、生まれた家によって仕事が決まっていたりしてましたよね。自分で何をするのか決めなければいけない時代って、最近のことで、どんどん自由度も増してきて、いま僕らの世代は親世代よりも選択肢が多い、幸か不幸かそんな時代に生きてます。

憲法には勤労の義務が定められてますが、どんな仕事をするかは個人で決めろって、なんて勝手な!! 最近の僕はそんな気さえしてきます。
ずっと長いあいだ、なにか物事を考えるのは支配者層(身分的に上の人たち)で、その他大勢は仕事を与えられて、その体制を維持・拡大することに身を捧げてきました。それは望んだりはしてないんでしょうけど、きっと生きるってそういうことだったんだと思います。
今の僕もそうなんです、大きな企業に雇用されてると、階層がいっぱいあっておじさんがいっぱいいて、事業の方針までは決められないし、仕事は割り振られて、主体性はなく働いています。なくはないけど、あるとは言い切れない、そんなレベルです。だって物事決めるときにいろんな意見が飛んできて、なんとなくその意見聞き入れながら進めるんだから。
総合職として雇用されるのは、いろんな権利を失うけれども、もしかしたら会社の方向性なんかを決めていけるような立場になれるかもしれないよ!まあ30年後だけどね!って、内定もらうときに教えて欲しい。

先に述べたように、今の時代にはどう働くのか、いろんな選択肢があるのになんとなく大きな企業に入ることが当たり前になっているのは、みんな真剣に生きること、働くこと、どんな自分になるのか、考えてないのかもしれない。大学3年生の終わり頃からやってくる、就職活動というイベントを、いままでの受験勉強と同じように、必然的な波として受け入れて、それを如何に上手く乗りこなすことができるかしか考えてない、視野が狭まってるのかもしれない。

だってみんなそれが正解だって言うし、自由に楽しく生きている人って、世間一般で言う「大人」じゃないような風潮の中で生きてきてるし、仕方ないじゃないか! 素直に言うとそう大声で叫びたい。
僕らの年代よりさらに若い世代になってくると、もっと自由に考えることが当たり前になってきている様に思う。あと、学歴だとかプライドだとか、そんな余計なものを持っていると、自由に動けない気もする。

極端に、戦国時代で例えてみると、織田家の家臣として生きていて、百人くらいは率いれるようになるルートは見えてるけど、重臣会議とかに出れるようになるのかはわからないし、どこの戦に行けって言われるのかもわからない。豊臣秀吉の部下になれれば出世も早い気がするけど、明智光秀の部下だったら上司が謀反起こしたせいでお先真っ暗。兵站を首尾よく整えるとか、百人の部下を上手くコントロールするとかはできるけど、戦の戦法考えたりすることは大分いろんなことを我慢して身を捧げた末に幸運だった場合しかできない。
ちなみに今、織田家の場合で書いてみたけど、もっと弱小大名に仕えているケースの方が多いし、踏んだり蹴ったりの人生が待っている。

今の日本はそれに比べると、ボラティリティ少ないし、安全に生きていける社会だ。すっごい幸せかも知れない。でも幸せって慣れるものだし、生まれたところをスタート地点においてしまうから、そんな実感はまるでない。
むしろもっと自由に、もっと快適に自己実現をしながらハッピーになれる方法を考えてしまう。

戦国時代なら危険な武士をやめて商人になったり出来たかもしれないけど、江戸時代は身分が固定化されているから難しい。今は身分も固定化されていないし、戦国時代の武士みたいな危険な職業もない。自由で安全だけど、安定していることに慣れているから、何かを失うのはとても恐ろしい。ちょっと就職先に失敗したり、会社の出世レースに乗り遅れたりすると、人生うまく行っている友人と顔を合わせにくくなったりするし、すぐに人を見下す。社会は成熟して形はハッピーになっても、自分が持っている価値観を基準に幸か不幸か判定されてしまうなんて、命懸けで体制を変えたりしてきた人は思ってたんだろうか。

話は変わるけど、髪を切ったあとに本屋さんに行って、悩み事に答えをくれそうな本を探した。

まだ冒頭しか読めてないけど敬愛する國分先生が帯を書いていたので迷わず買ってしまった。
アテネの時代には、肉体労働する人間は、政治にタッチできる「市民」とは認められていなかったらしい。理由は、肉体労働をすると体力を消耗して「市民」としてマスト条件であるポリスの政治に関して悩み、意見を持つことができなくなるからだそうです。
大昔の話だけど、とてもはっとさせられた。肉体を使わなくても、生産と消費がかなり乖離していて、その中間で働く人が多い現代では、肉体労働ばりに心や体力を消耗して、人生だったり国の行く末だったりを、真剣に考えることができない人も多いんじゃないだろうか、と。
今の僕はまさにその状態で、仕事が辛い時に心に余裕がなくなるし、長時間に及ぶと座り仕事でも体力的には疲弊する。明日の仕事が嫌だから、逃げるようにユーチューブを見ているし、土日は何も考えないようにして心の休養に当てている。

この時、僕はポリスの自由市民になれるのだろうか。きっとなれない。
本を読んで精神の涵養を行えない状態では、僕は人間的には成長できないんじゃないだろうか。心の成長が自分の幸せにつながると信じているし、そうであるべきだと高校時代から思ってきた。学生時代の自分が今の自分とすれ違ったら、哀れな社会人だな、ってつぶやかれる気がする。

仕事していれば、クオリティや規模によっては人間的な成長は見込めるし、実際今まで全く伸びてないかというとそうじゃないと思います。でも内省の時間はとても大事だし、内省するキッカケになるものや参考になるものに乏しい生活をしていたな、と反省しました。

久しぶりにただ消費するだけの文章ではないものに触れたせいで、やや反応が大きいのかもしれないけれど、社会人になって失っていたものをすこし認識できた気がしました。

この記事で3本目の投稿になりました。読み返して、ああ文章うまく書けないな、って自己嫌悪にもなりますが、自分の気持ちの整理でもあるし、同じような事に悩む誰かのヒントになればいいな、と思います。

終わり。

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