色々考える時期

冬ってヤダな。寒いと色々考えちゃう。

気づいたら2023年が終わってた。私は今年28歳になるらしい。マジ?
加齢に伴いいろいろな不安が出てきた。
自分は自分が思う以上に人生設計をちゃんとしたいタイプだったというか、不安症だったんだなと知った。

友人が、「むしろ30歳になってからのほうが楽しいという人もいるし、30歳になるのが楽しみになってきた」と言っていた。なんて素敵なことを言うんだろう。私とは人間としての格が違う。

今まで自己啓発本がとても嫌いだったし、自己啓発本を好む人のこともあまり好きではなかった(父)

去年のちょうど今頃ぐらいに、いろいろあって中古のマンションを買おうとしていた。300万円の手付金を持って売り主と話しはじめ、いろいろあって破談になったけど、今思うと大きすぎる決断だったので破談になってよかったなと思う。
その頃ぐらいからやけにお金に対して興味が出て、投資やキャリア設計に関して考えるようになった。気づいたら自己啓発系の動画などが流れてきてなんとなく見てみるようになった。
先週はついに本を読むようになった。思えばこんな仕事をしてるのに最近全然本を読んでいなかった。脳が活字を受け入れなくなっているのではないかと恐ろしかったけど、不思議なものでスラスラ読めた。
そもそもこういう本は私のように漠然とした不安を抱えている人のほうが読むものなんだろうなと気づいた。
アホにも読めるような内容、というと言葉に語弊があるかもしれないが、意外ととっつきやすいものなんだなと知った。
なんとなく小馬鹿にしていたり、苦手意識があるものは食わず嫌いなだけで存外簡単に受け入れられるのだとこの歳で知れて良かった。

外面や見栄はどうしても自分の進路を邪魔している気がする。これを少しずつ剥がして出来る限りのことだけを精いっぱい頑張るような年にしたいと思う。
こういう"私の性格の一部"だと認めたくないものが意外とあるんだなというか、私の中の"私”というキャラクターへの理想がかなり高いなと最近思った。

正直私はやりたいことが多すぎて、将来に対するお金や体の不安はあるけれどかなりポジティブに考えていることが多い。
ただ、私の周りの人は特にやりたいことがない人がとにかく多いと思い、周りの人たちがどうして何もやりたいことがないのかを考えるきっかけにしたい、万が一自分に何か相談してきてくれた時に回答する球を増やしておきたいと思い(どんだけ自己肯定感高ければ自分に相談されるかもと思うんだよ、とネガな方は思うかもしれないのですが自己肯定感の化け物なので常に「こうなった時もこんな自分でありたい」という理想像を持って生きているんです。怖いでしょう?)読み始めた。

恐ろしいほどわからなかった。いや、言いたいことは分かるんだけど。
第三者視点で自分を動かしているような感覚(ゲームのプレイヤーで自分は主人公だとして)で人生を生きるの、確かにめちゃくちゃタイパもコスパもいいんだろうけど感情を伴わない人生って最終的に結果何のために生きてきたんだっけってなりそうだな、と思った。
でも、私が想像できていない「自分が今何をすれば、どう振舞えばいいか分からない人」にとってはこのハウツー本は救いになるんだろうなと思った。
やはり、自己啓発本は自分が欲している、こう言ってほしいと思うような情報を無意識で集めていて、そこから発見があった(ように思いこむことで読んで良かったという満足感に変換する)のが喜びにつながるんだろうなと。結局自己啓発本から雷に打たれたような衝撃や発想の転換は生まれないのかもと思った。読んでいる数が少なすぎるのもあるだろうけど。
株や投資の話だって興味がない人からしたら「なんだか金金怖いわあの人。騙されてるんじゃないの」と思うだろうし。
「今を生きるために全力投球」で金を使える人になるには、私の精神だととんでもない量の労働から賃金を得ないことには始まらない。この怠惰な性格、至らぬオツムでは出来ることが少なく元手がない状態で少額でどうにか金を転がすしかない。実はこれが一番コスパが悪いとはわかっているのに、なんだか私賢いんじゃないかしらと思い込みたいがためだけにこんなだらだらだらだら文章なんか打っちゃって…馬鹿みたいだ…

フェルミ研究所、めちゃくちゃ苦手だったしあまり人に勧めるものではないことも分かっているけど…
本書を読むかどうかを決めるために先に動画を観てしまった。
本当に書いてあるのかわからないが、「男には本来ヒーローだと思われたい願望があるにも関わらず、女は世話を焼きたい生き物なのでいらんことを言ってしまい諍いが起こる」的な話があった。

「私だ…………」

とかなり凹んでしまった。
だがやはり、上述したように「こう言ってほしい(自分の後悔を過ちだと断定してほしい)」欲があるからこの動画に辿りついたようにも思う。

悩んでいる人がいて、自分が力になれるのであればもちろん応えたいが、そもそも何も望んでいない人に手を差し伸べるのは烏滸がましい行為なのだと分かっているのに、なぜか身近な人だとやってしまう。
それが親兄弟であろうと、その人の人生はその人のものなのに。
なんだか私って厚かましい性格だなと、知っていたけど最近は常々思う。

最近読んだ漫画。上下巻ですぐ読めるし面白い。
比較的男性向けの絵柄?(女性にも好かれる綺麗な絵柄だと思うけど)だが、内容はかなり女性向けに感じた。
こういう作家さんが一番強いように思う。
爆発的にヒットするジャンプ漫画(バトル漫画)ならいざ知らず、ハッキリ言って女性向け漫画が多すぎる現代(金の動きがそもそも女性はグッズなどにも使うのでターゲティングしやすい)で、どちらにも好かれる絵柄、どちらにも感情移入出来るキャラクター、だがどこか「バカみたいだな」と思える高みの見物気分で読める読者を作れる漫画、うーん、上手だな…。

先ほどの啓発本に、「日本人は過程を重んじるが大国は結果主義」という言葉があった。日本ではアイドルなど発展途中の人を応援したいという親心のような国民性があるが、大国は目的のためなら手段を選ばない、完成されたパフォーマンスを楽しむ、みたいな。そんな感じのことが書いてあった。

だが、日本の商業漫画市場はもう成熟しきっている。全てがプロ級だと思う。
昨今、漫画だけではなく、Xで作家個人の性格を評価される時代がやってきたように思う。政治的な発言や宗教的な発言、ちょっとやばいんじゃない?という発言に対して作品と作家を紐づけてしまう。
私もロマンチックあげるよの歌手が暴れまくっていてとても悲しかったが、ここで「作家(アーティスト)(生きてる)」と「作品(無機物)」を紐づけるのはどれほどの意味があるか考えるべきだと思えてきた。

結局人間は承認欲求によって生かされているので、作家側は自分の作品を自分の一部、子供のように思っている。
ただ受け手の私たちも同様に考えなければならないんだろうか。
ストアなどに卸された商品を購入し、どんな人か気になり見に行ったら地雷だった。
そんなの見に行かなきゃいいのでは?という気持ちにもなってきた。
例えば野菜を買ったとして、作り手の農家がどんな発言をしているかわざわざ見に行くことはそうないと思う。
「自分の感情を揺さぶってくれたこの作品を作った人はどんな人なんだろう」と興味を持つのが悪いとかそういう話ではない。
ただ、作り手も人間だから、どんな人であっても否定してはいけないというか、自分から距離を取ったほうがいいよねと思った、という話。

なんで急にこんな話をしだしたか全く思い出せない。
文章は生きていて、私は脳の整理が下手で、勝手に手がキーボードを叩いては文章が出来上がっているのだ。もしかしたら私は生成AIだったのかもしれない。

生成AIといえば、「お金もないし転職でもするかな!」と思って職務経歴書を作る際、要点だけまとめてチャットGPTにまとめてもらったらとても綺麗に出来上がっていた。
こういうのを見ると悲しくなる。なんだ、やっぱり、私が27年間で培った文章力って、この世のフォーマットには勝てないんだなと思う。

ブログは感情で書いたり読んだりするものだから、そんな、自分の文が下手だと自覚したぐらいで落ち込んでたらキリがないのだけど。というか自己満足だからいいんだけど。でも仮にも言葉を使った仕事をしているのにな。とか。さ。

最後にはなりますが知り合いがあげてた歌ってみたがとっても良かったので皆さんも是非お聞きください。


ではまた1年後に会いましょう。ごきげんよう。

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