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あの夕日に向かってみんなで一緒に走りたい人と、走りたくない人と

Sちゃんが真剣な表情で「つまり私は、絶対に、フリーランスにはなってはいけない人間なのです」と、言う。

友人のSちゃんは、優秀な編集者です。素敵な原稿も書く。人柄は最高。本人に独立したい意志があるなら、お仕事が殺到するのではと私は思うけど「そういうことじゃないんだ」とSちゃんは語気を強めます。

「キャリアを考えるには『何をしたいか』『能力があるか』以上に『何にストレスを感じるか』が重要ではないですか!」

あー、なるほどね。

Sちゃんは「先が見えないこと」にストレスを感じるタイプです。仕事でもプライベートでも、先々に起きることを予想して大まかなスケジュールを引き、安心する。優秀だから突発的なトラブル対応などは上手だけど、それでも、漠然とした「この先、何が起きるかわからない」状況が苦手。

だから、先の見えないフリーランスは、ストレスがかかりすぎるのか。
「フリーランスになってはいけない」とは私は思わないが、その場合は、どこかの企業や媒体と年間の業務契約をしたり、連載を担当したりして「少なくとも向こう一年はこの仕事が続く」と、安心できる材料を確保したほうがいいんでしょうね…と私が言うと「足りないね!!!!」と柴田恭兵さんのような口調で言って、ビールをあおる。そうですか。

ちなみに私は「先が見えないこと」に、あまりストレスを感じないタイプです。それよりも「この日々が明日も、来月も、来年も続くだろう」と先が予想できてしまうことに、ストレスを感じるかも。

「ちえみはたぶん会社員として、能力や資質が明らかに欠けていたわけではなかったでしょ。経費精算を忘れたり、Aさんに送らなければいけないメールをBさんに送ったり、会社の悪口をツイートして人事に呼び出されたりはしなかったでしょ?」

しませんでした。そうなんです。当時は少しでもまともな会社員でいるべく、必死でした。フリーになってからはしょっちゅう請求書を出すのを忘れて「お〜い、まだ?」と怒られますけど。働いておいて請求書を送るのを忘れるって何なんですかね。慈善事業?

「それはあんたがポンコツなだけでしょ」

はい。すみません。

「でも、何かしら、ちえみが強く感じやすい種類のストレスがあったんじゃない? 会社員でいたときのほうが。もちろん、どんな働き方をしていたって、大なり小なりストレスはあるんだけど、『この種のパンチに弱い』ってあるから」

そう言われて考えてみたら、私は「ある種の会議」が異常なほどに苦手でした。
企画会議やブレストはむしろ大好き。制作のために必要なミーティングにはストレスを感じません。
それとは別で、会社や組織では折に触れて「理念やビジョン、ミッションを共有し、チームの現在地への理解を深め、モチベーションを高める」といった目的で集合し、会議(時にイベント的な催し)を行うことがあります。乱暴に言えば「みんなであの夕日に向かって走ろうね。おー!」と一致団結する感じ。今どきに言えばインナーブランディング、社内に向けたブランディング活動の一環になるのでしょうか。

私はあの種の会議や催しが、なぜか本当に、本当に苦手でした。

嫌い、じゃない。苦手。

夏の暑い日、グラスの中で氷がじりじりと溶けていくのを思い出す。私という人間の輪郭が溶けて、集団に混じっていく。そんな気分になる。

ああ、溶ける。私が混ざる。

たぶん会社や組織も、引くでしょうね。昭和のブラック企業ならまだしも、個人の自由や意志を尊重する時代で、思想を強く押し付けているわけではないのに、そこまで過剰に反応されたら。それが私の「この種のパンチに弱い」の表れ。つまり過剰に「自分」と「みんな」の境界が気になり、ストレスを感じるのです。

ところが、これがフリーランスという立場になると、急に心境が一変します。「自分」と「みんな」の間に、明確な境界線が引かれたからです。
たとえば制作に携わっているチームに呼ばれて、そのチームが大事にしている理念を聞くことがあります。俯瞰して映像で見たら、私が苦手としていた「あの種の会議」の様子とまったく変わりません。
ところが、ストレスなんてまったく感じない。
むしろ、嬉しい。
なぜなら「このチームの理念を私なりに理解し、解釈して、コピーや原稿を書く」という私の目的があるからです。
私には明確な(私の)ミッションがあり、役割がある。「自分」と「みんな」は違う。でも、それは寂しいことじゃない。立場上は一匹狼ですが、私は今の働き方のほうが「みんな」の一員であるようにすら、思えるのです。

「え〜何それ。私はみんなで一緒に、夕日に向かって走りたい」

初めてアルパカを見た人、のような顔で私を見つめるSちゃん。ほんと、人ってさまざまですわね。

でも、好きなことや得意なことよりも、むしろ「何にストレスを感じるか」に、如実に“人”が出るような気がする。

ストレスについて考えることがもうストレスだから(声に出して読みたくない日本語)、自分が何に対してストレスを感じるのか、私の解像度は低い。でもストレスこそ、目をかっ開いて見つめていかなければいけないと思う今日この頃。





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