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「どうせ死ぬ」


またまた暗いタイトルで申し訳ないです(´;ω;`)笑
最近数年前のブログサイト(DECOLOGとかアメブロ全盛期)が懐かしくて顔文字とか使いたくなったので使いました ദ്ദി アラサー歓喜で爆発しそうでした


この「どうせ死ぬ」という言葉。
私のお気に入り元気が出るワードです。


正直に言うと、母を亡くしている事実が私の中でとても大きくて、耐えきれない日が結構な頻度であります。


突発的にとてつもない虚無感に襲われる日があるんですよね。

母を幸せにすることが生きる意味だったし、
その割にあんまり幸せにしてあげられた記憶が少ない。


街を歩けば、幸せそうな母娘連れ。

多分私が亡くなっても、自分も後追いしようかなと思うほど悲しんでくれる人ってもう居ないんじゃないかなぁみたいな気持ちになってしまう。

見るもの全て「パッ」とモノクロになる瞬間があっても、まぁ誤魔化し誤魔化し生きるような日々。


これを周りに言うと暗い空気にさせちゃうよなぁとか、誰も救えない・助けてあげられない気持ちにさせてしまうかと思ったり、
はたまたこの気持ちを軽く扱われてもそれはそれで輪をかけて辛くなるので、結果的に自己処理が多いです。


でも、やっぱり人生捨てたものじゃなくて
すごく救われる日もあるのが面白いところなんですよね。(そしてとても有難い。)


自分にとって、母のいる世界に行く=死が明らかにご褒美となってしまったからこそ、「今生き急がなくても、苦しい・痛い思いしなくても、とりあえず一日生きてみよう。明日やっぱり死にたかったら明日考えようよ。」ともう一人の自分に対して思ってあげられる。

しんどい時に優しい言葉をかけて、精一杯に言葉を選んで伝えてくださる方が居るから、今落ち着いてこういう考えに至れている。
本当に有難い。

投げやりに「どうせ私なんか」という言葉は好きでは無いです。

でも、「どうせ死ぬ」は紛れもない事実なので笑


わりと吐き出してみると、寄り添ってくれて
しゃがみこんで話を聞いてくれるような方もいる。


自分からその手を伸ばせる相手や存在を
絶対数増やしたいと思う今日この頃です。

※ホロスコープで「人に対して急に優しくして仲良くして、急に離れていく人」と出ていたので、多分そこら辺本当器用にできないんだけどね(ぽりぽり)


あと、私の労働テーマが
誰かが「明日もう一日だけ生きてみようかなぁと思えた。」と思ってくれたら嬉しいなと思って働いている節があります。

巡り巡って自分の働く意味と、生を終えたくなる瞬間の切り替わりの部分が自分の中で合致していることに驚きました。

これぞライフワークなんだろうなぁ。



「バー・ラム・ユー  バー・ラム・ユー

羊毛を着た仲間達に変わらぬ忠誠を、変わらぬ愛を」



🐷まとめ

・周りの方からのご厚意で命拾いして幸せだったこと

・「どうせ死ぬし」の威力が絶大なこと
・自分を救うポイントと自分が周りにしてあげたいポイントは重なっていること

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