小説『小説家』 第二話

第二話

『誰の心にも森がある。森には獣と宝が潜む。だから俺は奥に行く。』
「僕の世界はですね。この一言で変わったんですよ。目の前に見えている景色が変わったんですよ。色づいたんです。いや、色は元々もあったんですけど、輝きが変わったんですよ。ちょうどあれです、iPhoneの彩度を上げた時みたいな感じですよ。
そんな一言のために、物語はあるんです。誰かの世界を壊すために。その一言で気づき、開けて、癒されるんですよ。
先生の言葉にはその力があるんだ。僕は知ってるんですよ。先生にはハリーポッターが書けるんですよ」

バタン、とボロアパートの焦げ茶色のドアを閉めて原田は帰っていった。
背筋はピンと伸び、まっすぐ前を見て帰った。
どうしてそこまで信じられるんだ。背中を丸めて一人用のコタツに座り原稿用紙に向かう。
そりゃ期待は嬉しいが、大きすぎる期待は焦りと不安を膨らませる。

次回作のプロットは編集会議を通った。
砂山を作ったあの日、家に帰って徹夜でプロットを書き上げた。朝まで筆が止まらなかった。

戦争が終わったことを知らない、トンネルを一人で掘り続ける男の話。
男は40年間、ただただトンネルを掘り続けた。
トンネル掘りが自分の使命であることを疑うことはなく、そこに憂いも恨みもなかった。
男は満足していた。
男の話し相手は自分自身の中に在る何か。
気づきと発見を与える何かの声なのだ。
はたから見たら変人。
独り言を明るく話している奇人。
しかし、一人。

形になっていない言葉を原稿用紙につらつらと書いていく。
まずは思いつくまま書いてみるのだ。
そして物語として整えるのは後になってから。
言葉は出してから形がはっきりする。
結局、形にするまでに、どれだけ言葉を無駄にしたかだ。
どれだけ無駄にしたかで、透明度が変わるのだ。

気がつくと、夜の10時だった。
一郎は外に出て屋台のラーメンを食べにいった。

昔ながらのしょうゆラーメンを啜る。
鼻水が出る。
チンとかみ、黙って食べ続ける。

空を見ると真っ暗で、星など全然みえない。
上を向いて息を吐くと、白い息が漂った。

ラーメンを汁まで食べて、そのまま小走りで家に帰る。
なんだか、今回の小説がうまくいきそうな気がした。

夜道をいく中で、ふと「男」の気持ちになる。
一人っきりで、外にいる。なんだか心が軽いのだ。

一郎も心から湧いてきた言葉を口に出してみる。
「今日はいい日だ」

なんだか心地が良い。
しかし誰も聞いていないのに恥ずかしいと感じるのは不思議なことだ。

「綺麗な月だなぁ」

カッコつけているのか、おれは。
「カッコつけているのか、おれ」

思ったことは全て口に出してみよう。
心がどんどん軽くなっていく気がする。
声もどんどん大きくなり、だんだんと大胆になっていく。

「あのね、物語っていうのは、すべて1文から始まるわけだよ。ここから男の……」

「……僕らは芸術をしているのだよ。人間がいかに良いものを持っているのかを探り続けているのだか……!」

振り返ると、一人の女性が立っていた。
ギュッと心臓が絞られる。
彼女はまあるい目をしている。

時が止まり、口がアワアワとなった。

彼女が会釈して、一郎の隣の部屋に入って行った。
口元はニヤッとしていた。

やってしまった。
口はもう、言葉を出したくても出せなくなっていた。

部屋に入って、しばらく動けなかった。
夜はどんどん深くなっていった。


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