小説『小説家』 第五話

第五話

『俺は風呂屋なんだ。毎日、風呂を洗って、番頭に立って、風呂を流して、店を閉める。それが俺だ。』
「あんたのこの言葉がおれを小説家にしたんだ」

行きつけの銭湯で、一郎はおっちゃんに語りかける。
「おれは小説家なんだ。起きて文字を書いて書いて書き続けるんだとあの時、、、」
「はよ、はいれよ」
おっちゃんは冷たくあしらう。

番台の向こうに通った女子大生をチラチラ見ていたことがバレていたようだ。

一郎はそそくさと奥に進む。

長い間、風呂はここと決めている。
おっちゃんは一郎が大学卒業後、うじうじバイトしながら中途半端に小説家になろうとしていた時期から知っている。


あの日、どこかで酔っ払って帰ってきて、夜遅くに銭湯に入りにきて、閉めようとしているおっちゃんに絡んだ。

酔ってはいたが、言葉は本音だった。
腹の底からでてきた叫びだ。

「おっちゃん、俺どうしたらいい?」
その若者の言葉におっちゃんは一言、
「知らん」
と、言った。

あまりの返事の早さとそっけなさに、一郎はおっちゃんに惚れた。

おっちゃんは絶対に帰れと言わなかった。

「でもさぁ、ねぇ、おっちゃんさぁ、、、
 おっちゃんも若い頃は悩んだでしょう?」

そういうとおっちゃんは、
「そりゃそうだ。俺だって色々考えたわでも、
 俺は風呂屋なんだ。毎日、風呂を洗って、番頭に立って、風呂を流して、店を閉める。それが俺だ。
 これでいいんだ。これでいい。」

一郎は溢れそうな涙を堪えて笑った。
「かっこいいなー、おっちゃん」

その夜から小説家になったのだ。

風呂に入りながら一郎はふと、
あの男とおっちゃんを重ねていた。

「そうだ、、、かっこいいんだよなぁ、、、」

戦争が終わったことを知らずトンネルを掘り続けるその男は、かっこいいのだ。

戦争が終わったことを知る者にとってはそんなに無駄に見えることはない。愚かで滑稽だ。
しかし自由でかっこいいのだ。

誰にも知られることもなく、なんのためにもならない”仕事”を続けるこの男が、
毎日机に向かって、どうなるのかわからない文字を書き続ける一郎を大いに励ましていた。

不規則なリズムで雫が天井から落ちてくる。
湯に落ちる音がする。
その音に集中した時、すこしだけ男がトンネルを掘っている時の気持ちに近づけた気がした。

「時を止める。
  僕らだけの
   幸せそうな
    国を作ろう」
崎山蒼志の『国』の冒頭部分が口から漏れた。

帰る時、おっちゃんに

「おっちゃん、おれ、どうしたらいいかな?」
と、聞くと、

「知らん」
と、返ってきた。

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