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傑作『アオアシ』を考えるクリスチャン

良い漫画には、新しく本質をついた、視点があるというのが私の持論。
キリスト教、聖書とも通じ、そこから学ぶことはあると思っている。
そして、本質への気づきを与えてくれる。実際に与えてくれた。
そのことを少しまとめたい。

1.「直感・感覚」と「言葉」
アオアシの凄さの一つに、直感や感覚と言葉との関係があると思う。

言葉より先に、直感や感覚として答えがあることが表現されている。
それを言語化することでさらなる直感を得られるようになるのだ。

無意識下にある「言語」を表現したというところが、すごい

2.言葉の段階
アオアシの凄さの一つに、一つの言葉を段階的に捉えているところがあると思う。

言葉が、イメージに伴い、理解の深みを増していくのだ。

印象的なのはこのシーン。

アシト「い、今さら… 
    奪って一気のカウンターサッカーに切り替えるってことスか!?」
福田監督「肝心なのは、
     そういう言葉通りの意味で考えないことだ、葦人」
    「大事なのは、「感覚」で  この言葉を理解することなんだ」
(アオアシ16巻より)

言葉の理解に段階がある。

このアイデアは新しい。
言葉の意味は確定的ではなく、本質に迫っていく成長を遂げるのだ。


この二つはクリスチャンにも同じことが言えると思った。
信仰、愛、罪、希望、赦し、、、
理解している気になっているが、本質は誰もわかっていない。
本当の意味で完全に理解しているのは神だけだ。というのはクリスチャンの共通認識かと思う。
その上で信仰が与えられた時に、"直感的に"理解するのが上の言葉たちだ。
それが歩みの中でどんどん言語化されていく(されては間違い、気づき改めるのだけど)
その中で、イメージが変革していき、段階的に理解が深まる。
その上で、自分と神を知っていく。そして、人格が癒されていく。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネの福音書14:6)

この「言葉」を「理解」することは非常に難しい。
「言」そのものであり、「人格的な存在」であるキリストは、
真理であり命だと言う。

私は直感的に、言語とは人格なんだなぁ、と思い、
考えていく中で、言語は無意識の内から始まるから人格だなぁ、と思う。

この説明も難しい。。。

とにかく、アオアシだーいすき!笑

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