小説『小説家』 第三話

第三話


『男は寡黙で、男の中の時間は周りとは違っているように思えた。どんな喧騒の中にいても、静かに立っているのだ。』
「私、面白かったんですよ。
こんな一節を書いた人が、楽しそうに一人で話しているんですもの。
嫌な気持ちなんてぜんぜんないですよ! むしろ、かわいいって感じ?
あ、すいません。先生にかわいいだなんて失礼ですよね。でも私、部屋に帰ってすっごく嬉しくなったんです。あの本を書いたのはこの先生なんだ、って、なんかすっごく納得したんです。
先生は私にとって魔法使いなんですよ。あの一節を読んだ時、心がスッと落ち着いたんです。私を私の時間の上に静かに立たせてくれたんです。私は私のペースで生きようって、自分と周りを切り離してくれたんです。」

目をキラキラと輝かせながら語る彼女を前に、顔が真っ赤になっていくのを感じた。

彼女は一郎のファンだったのだ。

一郎のことを大家にコソッと聞いたらしい。おい、大家。いや、む、でかした、大家。

「いつからここに住んでいたの?」
隣の部屋は空き部屋なはずだったのだ。
そうでなければ流石に油断はしない。

「先週からです。えへへ」
「なるほどね。。」

ぜんぜん気が付かなかった。
思えば何か物音がしていた気がする。
一日中、家にいて書いていたはずなのに気づかなかったとは、

あ、ちょうどトンネル掘りの話がノってたときか。
そりゃ気づかんわ。

彼女は大学生だった。
文学部らしい。
「邪魔してはいけない」と言って、そそくさと部屋に帰っていってしまった。

一郎も自分の部屋に入る。
ツルツルと考え始める。

男に妻や恋人はいたのだろうか。
男は故郷に恋しい人はいなかったのだろうか。
一人を「楽しむ」ことができるのは、なぜなのだろうか。

考える。考える。
ぐっと考えこむ。


気がつくとお腹が空いていて、月が出ていた。

男はご飯はどうしていたんだろうか。
軍には調達できる道具もあっただろう、そのノウハウもあっただろう。
ご飯と水は大丈夫か。

男は大自然の中にいたのだ。

戦争の悲惨さと対極にある、色鮮やかな緑に囲まれていたのだ。

男に焦りはあったのだろうか。

一人でトンネルを掘る中で、もうその運命を受け入れ、目の前の一瞬一瞬を楽しんで生きることに、集中していたのではないだろうか。

男には妻がいたのだ。
その心配もあっただろう。
しかし、諦めたのだ。
しかし、受け入れたのだ。

心配と焦りを捨てたのだ。
彼は自由になったのだ。

「そうだ。おれだって帰りたかった。
いっそ死んでいれば楽だったと思ったこともあった。
でも仕方ない。仕方ないじゃないか。
今、生きているのだから。」

そうして彼は、誰にも知られない、彼の中から出てきた「言葉」を、
誰に聞かれることもなく、口から出して言葉にするのだ。

そんなことを考えながら、
営業が終わった喫茶店に入って行った。

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