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主の前に静まる② 祈り

「祈り」を考える

主の前に静まること
それは主を「知る」ため。

そのためには「祈り」が必要なのだ。

それでは、何を祈りと言えるのか、を考えたい

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」
「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思う)」

僕は、祈りとは、
「神を思う時のこと」と定義したい。

それはもちろん、「天の神様〜」という言葉にする祈りも含む。もちろんね。
賛美も含む。みんな神に向かってしてるんだから。もちろんね。

でも、
言葉にならない時
「神様、、、」としか言えない時
それも祈りだよな、と思うねんな。

僕には上記の御言葉に違和感があった。
「絶えず祈りなさい」
無理やん。。。

でも、それはその下に書いた詩篇の言葉を読んでわかったことがあった。
「主の教え」は「主のDirection (方向性)」と読めることを知ったからだ。

方向性、つまり神の意思を、いつも思う。それが祈ることだ。

「今、やっていることには意味がある」
「今、目の前に起こっていることには意味がある」
「神がここに導いたのだ」

そう思う時、祈っているんだ。
それなら、絶えず祈り、昼も夜もその教えを思うことができる。
それで腑に落ちたのです。

祈りは、神の意思を思うこと
そして、一致させられていくこと

時には、自分が誰かのために、熱心に求めて祈ることが、神の意思だろう。
時には、何もせずただ空を見つめることが神の意思だろう。

祈りは、何かをすることでもあり、何もしないことでもあるんだって。

<キリスト教短歌>
空の下 小さな自分を かえりみて ああこの雲は 何を語るか

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