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十戒〜1, 2, 3, 4戒〜

①あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

礼拝の対象についての十戒
本物の神を神とすることを求め、他の物を神とすることを禁じている
神とそれ以外の区別、本物と偽物の区別を求めている。
私たちには本当のことの全てはわからない。
ただわからないものはわからないままにする、わからないと言う、
そして分かっている範囲で本物を求めていくことが大事だと思う。
それはカオスをクリアにしていくということ。

②あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

礼拝の方法についての十戒
見えない神をそのままで礼拝することを求め、目に見える形に引き落とす、把握し支配しようとする行為を禁じている。
目に見えないものと見えるものの区別を求めている。
見えないままで信じることの重要さを教えている。
霊とまこと(みことば)により礼拝するということがすごく大事なことと思う。

神を見える形に落とし込んで崇めることを偶像礼拝という。それは神と自分の上下関係を逆に、神を支配しようとする、むさぼりが引き起こすものだと思う。
ここで間違えてはいけないことは、むさぼりが引き起こしているから問題なのではなく、それが真実ではないことが問題なのだ。何かを何かで代替する時に真実でないものが混じることが、淀みを生む。混じらせてしまうのがむさぼりという名の欲望だ。

ちなみにこの箇所には「ねたむ神」という言葉が出てくる。これも考えたい。
ねたむとは、うらやんで腹を立てること、と思っているが、神に使う場合は違う意味だと期待する。心配するとか憤るに近いのではないかと思う。
原語からの訳も完璧ではないだろうが、原語の意味を知ってもそれが正しいとは限らない。その言葉自体の解釈が完全ではないから。


③あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

礼拝の態度についての十戒
敬虔さを求め、神の民として神の名を汚すことを禁じている。
みだりに「唱える」という箇所は、「担う」とも訳せるらしい。これは面白い。
どちらにしても敬虔さというものを考えれば良いかと思う。
神が求められる方法以外で言葉や行動をとることを止める、ということだ。
つまり、これには他の十戒が大きく関わる。
また、いまキリスト教界で正しい(神が求めている)とされている「常識」の中にも、みだりに神の名をになってしまっている言動があるかもしれない。
敬意を払わなければいけないものの一つが「言葉」であり、その最たるものが神の前にする「誓約」だ。


1、2、3戒は、礼拝についてだと私は学び受け取った。
ただここで注意したいのは、礼拝というのは日曜の集まりのことだけではない。
牧師先生の説教だけでも賛美の時間のことでもない。
神を神として生きること、だ。
神の御名を背負って生きること、だ。

十戒は愛することを教えていると書いたが、「神を愛すること(①〜④)」と「隣人を愛すること⑤〜⑩」で分かれる。
ただこれは、本質的に同じことである。
人は神の形に造られた。神によって造られた人には全て敬うべき神の形がある。
それは子供にも老人にもどんなに愚かで弱く見える人にもある。
だから愛する。
愛するというのは大切にするということではない。決してない。
私にとって、大切にすると言う言葉は時々、支配に感じられることがある(これは個人的に傷があるからだと思う、普通じゃない)。
尊敬する、尊重するという言葉の方が近いと思う。

④安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたの全てのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。

自分の所有の一部を神に捧げることについての十戒
きよく休むことを求め、この日を汚すことを禁じている
神を中心に考える日として捧げる。普段の働き、社会生活、経済的な活動から解放される日でもある。
この日は、あなたは働かなくても良いと言われている。安心して休むことのできる日とできる。神は約束の中で生きていたら必ず必要は与えてくださる。

時間のことだけではなく、自分のすべてのうちから一部を聖別してささげることを言うのかもしれない。
イザヤ56:6を読んで思ったこと。割礼も自分の体の一部を切り取っている。
例えば献金。収入の一部を捧げる。
それは使い道などの心配や不安から解放されることができる。

一部を捧げること、それは神の祝福が約束されることであり、神の平安の中に入ることを意味する。
礼拝を捧げることは、神にゆだねて大丈夫という約束を受け取ることでもあるのだ。

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