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自著を語る『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』

*『CROSSOVER』48(九州大学大学院地球社会統合科学府、2023年3月)の「自著を語る」というコーナーに、昨年8月に出た共編著書『日韓の交流と共生』(九州大学出版会)をめぐる文章を寄稿しました。大学の広報誌という、やや手に入れにくい媒体ですので、多くの方々に読んでいただけるよう、noteにも貼り付けておきます:

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 『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』(森平雅彦・辻野裕紀・波潟剛・元兼正浩編)は、九州大学韓国研究センターの分野横断プロジェクト「東アジアにおける人の国際的移動:日韓の交流と共生、および多様性の追求」(韓国国際交流財団助成事業)の一環として行われた講演会やシンポジウム、研究会などの成果を書籍化したものである。2022年8月に九州大学出版会から「九州大学韓国研究センター叢書5」として刊行された。本プロジェクトの足跡は、深川博史・水野敦子編著『日韓における外国人労働者の受入れ:制度改革と農業分野の対応』(九州大学韓国研究センター叢書4、九州大学出版会、2022年)にも結晶しているが、同書が経済学関連の研覈の集成であるのに対し、本書は歴史、教育、言論、文学、映画などに関わる諸論攷から組成されている。本来ならば、本稿は、筆頭編者である森平雅彦先生にご執筆いただくべきところであるが、所属部局の関係で、僭越ながら、私(辻野)が筆を執っている点、何卒ご寛恕願いたい。
 帯に「中世の海域交流から現代映画の世界まで」とあるように、本書の射程はかなり広い。構成は大きく鼎分され、具体的には、日韓の中近世史を俎上に載せた「第1部 つながる、交わる:対馬海峡沿岸社会における中近世の現場」、現代の教育実践・交流を描いた「第2部 出会う、伝え合う:学びの現場」、そして言論と表現をめぐる論件を扱った「第3部 ことばを超える、国を越える:相互理解の現場」から成る。各部はさらに複数の章に支分され、2編の附論も収めている。執筆者は総15名にも及び、大学所属の学究のみならず、作家や弁護士も含まれる。
 紙幅の制約がある上、あまりに広範な学問領域に跨っていてすべての論攷に触れるには私の知的膂力が闕如しているため、本稿ではとりわけ、波潟剛先生と私が関わった第3部(言論、表現)についてのみ叙述することにする。
 第3部は、上述の通り、「ことばを超える、国を越える:相互理解の現場」という題目の下、「言論と表現をめぐる問題を、主に「越境」という視点から」(本書「刊行にあたって」p.ⅲ)論じたものである。言語論的な視座に照らせば、言語とは「個」に属すものであり、本来的に国家や国籍とは無関係である。言語と国家・国籍の付着は、近代的作為の帰結であって、言語の元来のありようではない。また、母語と母国語は全く別のレイヤーに位置付けられる概念であるにもかかわらず、未だに「外国語としての韓国語教育」、「日本人フランス語学習者のための教材開発」などといった表現が当然のように罷り通っている言語教育界の現状には心底辟易しているが、そうしたワーディングが何故に問題なのかは、例えば在日コリアン文学を読み開くことで了知しうる。波潟剛論文「在日コリアン文学の現在」は、深沢潮、崔実、ヤン ヨンヒ、柳美里という4名の在日コリアン作家の小説の読解を通して、日本と朝鮮半島の関係やその間の移動、文化的多様性と共存について思念する契機を提供してくれる。
 西谷郁論文「ディアスポラと労働・工作の表象」は、在日コリアン同様、〈コリアン・ディアスポラ〉というタームで括られる中国朝鮮族の映画監督チャン・リュルの作品群を解析した研究であり、チャン・リュル映画もまた東アジアにおける人的移動や多言語性をけざやかに描出するものである。〈多言語性とは単に言語が複数併存することではない。複数の言語があるのではなく、単数の言語が本態的に複数性を宿している。言語は混じり合うことをその本質とし、常に相互浸透的に入り混じったアマルガムである〉――これは私が日々の講義でよく口にする言辞だが、そうした言語論的に重要な事実を西谷論文やチャン・リュル作品は再確認させてくれるように思われる。なお、チャン・リュル監督の〈福岡三部作〉と呼ばれる『柳川』『福岡』『群山』は2022年末に全国に先駆けて福岡で公開が開始され、私もKBCシネマでの上映後のアフタートークのゲストとしてチャン・リュル作品について語ったり、公式コメントを寄稿したりするなどの機会を得たのは、幸運な偶然であった。
 グカ・ハン講演録「母語でない言語で書くということ」、グカ・ハン✕辻野裕紀対談録「フランス語のほうへ/から」は、前者の題名通り、〈母語でない言語で書くとはいかなる営為か〉という問題に肉迫した講演会の記録である。グカ・ハンは韓国に生まれ育ち、26歳で渡仏、そのわずか6年後にフランス語で短編集『砂漠が街に入りこんだ日』を上梓した。同書はフランスで刊行されるや、様々な書評で取り上げられ、「文学的大事件」と評されるなど、多くの読書人の耳目を引いた秀作である。グカ・ハンのような越境作家は、自らの意志で他者の言語を創作言語として選びとったという点において、在日コリアンの書き手たちとはまた別の意味で、言語論的思考や言語教育にも示唆を与えてくれる。本講演録および対談録は、グカ・ハンの言語観や文学観などについて、現時点で日本語で読める最も詳しいテクストであり、2023年度より使用される高等学校教科書『文学国語』(東京書籍)の教師用指導書にもその一部が掲載される予定である。
 具良鈺論文「日本のヘイトと在日コリアンとしての生」は、近年社会問題化しているヘイト事件をめぐって、実際に裁判に関わった弁護士という立場から、実例を挙げつつ、当該問題を仔細に論じたものである。具弁護士自身、在日コリアンという当事者でもあり、そのメッセージは非常に重い。
 以上、本書の第3部の内容について鄙見も交えながら述べてきたが、プロジェクト「東アジアにおける人の国際的移動:日韓の交流と共生、および多様性の追求」では、その他に私が企画・司会進行を担当したものだけでも、ヤン ヨンヒ監督オンライン講演会「いつの日か会えるかもしれない家族へ」、『きらめく拍手の音』作家イギル・ボラ氏講演会「音の世界と沈黙の世界のあいだで」(これはイギル・ボラ氏の日本での初の講演会となった)、カンヌ2冠の映画『ベイビー・ブローカー』助監督の藤本信介氏講演会「映画のような21年のストーリー in 韓国」、東京大学教授で言語学者の福井玲先生講演会「小倉進平の遺産」など、本書には収めきれなかったイベントもあった。私の怠惰や多忙のせいもあって、これらを文字化して収録できなかったのは残念だが、本書は、先に言及した『日韓における外国人労働者の受入れ』と並んで、ここ数年の九州大学韓国研究センターの活動を象徴する、記念碑的な書籍と言ってよいだろう。巷間では「日韓関係の悪化」などといった表現が頻回に聞かれるが、一般に「日韓関係」とは政治レベルの話に過ぎず、字義通りの「日韓関係」は、様々な位相に横たわっている。K-POP、K文学、韓国映画など、これほど多くの「日本人」が韓国のカルチャーに夢中になった時代は、かつてなかったはずである。また、二項対立的な「日韓」ではなく、そのあわいに生きる人々も大勢いる。そして、本書の各論が活写するのも、実に多元的な「日韓関係」や「国際関係」であり、その奥底には「個」としての人間の営みが複雑に交錯している。粗笨に束ねられた「日韓関係」という輪郭なき集合的イメージから脱却し、人と人との繊細な交わりの現実を解像度を上げて丁寧に眺める複眼的視座を本書が少しでも示すことができれば、一編者としてとても嬉しい。

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