【試し読み】11月11日(土)文学フリマ東京37に出店します! 繊細女子、立ち上がる。ひと夏の青春小説「Calling」
2023年11月11日(土)に開催される、文学フリマ東京37に出店します!!
文学フリマ公式サイトはこちら
辻村 いちのWebカタログページはこちらです。
そもそも、文学フリマとは何ぞや?と思われる方も多いかもしれません。
文学フリマ公式サイトには以下のように説明しています。
最高にクールで痺れる説明文!コミケ(コミックマーケット)の小説版だと思ってもらえるとイメージしやすいかもしれません。
会場では沢山の小説、エッセイ、詩や短歌‥‥‥ありとあらゆるジャンルの文学作品があなたを待っています!
この記事では、私が今回出店する作品の冒頭試し読みを掲載します。
もし気になった方は是非会場で手にとっていただけると大変嬉しいです・・・!
出店作品情報
出店日時:2023年11月11日(土)12:00~17:00
出展ブース:東京流通センター 第二展示場 Eホール | い-12
タイトル:Calling(辻村 いち)
本文:120頁(約53,500字)
価格:200円
あらすじ
他人に流されやすい繊細女子、黒ヶ瀬 優美(ゆうみ)。
「人間って棲み分けがあるからさ」
そんな恋人からの一言をきっかけに、優美は自分を変えるために挑戦を試みる。目指した場所は、九州のとある民宿だった。
主人公の一夏の成長を描いた青春小説。
試し読み
池袋駅西口の構内を足早に歩く。朝の授業にギリギリ間に合う。けれど、何かアクシデントがあれば確実に遅刻する。その事実が、黒ヶ瀬 優美の足を慎重かつ速やかに動かし続けた。
お願いだから、今日だけは具合の悪そうな人や避けきれずにぶつかってしまうサラリーマンとは遭遇しませんように。鬼気迫る表情で歩き続ける私のことを、どうか誰も視界に入れませんように。こんな時ばかり都合よく神頼みを連発しながら、優美は歩き続ける。
優美は通っている大学の最寄駅から、丸ノ内線で二十分ほどの距離に住んでいる。近いとも言えないが、全く遠いわけじゃない。同じ大学の友達の中には、栃木から通っている子もいる。流石にそれはレアケースだと思うけれど、それに比べれば少し早めに起きれば、一限の出席なんて苦痛じゃない。はずだ。
『もしかしたらちょっと遅れるかも。ごめん』
いつも一緒に授業を取っている乃愛には、駅の改札を抜けてすぐメッセージを送っておいた。朝の駅は目まぐるしい。老若男女、それぞれが目指す方向を脇目もふらず進んでいくものだから、きっと俯瞰したら大きな渦ができているんじゃないか、とすら思う。
今日に限って、出席を取る英語の授業だったことも良くなかった。大体、遅くなったのは私のせいだけ、とは限らない。優美は思わず苛々してくる自分の思考に蓋をして、とにかく一秒でも早く教室に着くことだけに集中することにした。
さっき乃愛に連絡を送った時、恋人の拓海からも優美宛のメッセージが来ていることに気づいた。
『昨日は急にごめん! 今日もがんばろーなー』
ふにゃふにゃした拓海の笑顔が浮かび上がるような文章。優美は再び気を取られそうになりながら、尚も歩き続けた。
「ちゃんと間に合った?一限?」
優美と拓海は同じ大学に通っている。優美は法学部で、拓海は経営学部。キャンパスは同じだけれど、よく使う教室があまり被っていないせいか、拓海とキャンパスでばったり、というのは数える程しかない。
昼から授業だという拓海と、優美は学食で待ち合わせをした。可もなく不可もない味だけれど、学生で常に賑わっている。カレーやうどん、そばの出汁の匂いに混ざって、ベーカリーコーナーから漂う甘くて脂っぽい匂いまで加わると、自分が何を食べているのか、時々分からなくなる。
「滑り込んだ瞬間にチャイムが鳴ったよ。今の英語の先生怖いから、本当どきどきした」
「俺がだだこねちゃったからな~」
人の気も知らないで屈託なく笑う恋人に、優美はこっそりため息を吐いた。昨日は拓海の家で軽く飲んだ後、酔っぱらった拓海に「帰らないでくれよ、つまんないじゃん」と散々ごねられた後、根負けして夜更けすぎまで二人で無為な時間を過ごした。
拓海が笑ったり、優美の頭を撫でてくれるのは嬉しい。けれど、頭の片隅で「明日の予習しなきゃ」「早く寝たいな」という本音がちらついて離れなかった。
昨日の睡眠不足がたたって、眠気や怠さをぼんやり身に纏った優美とは対照的に、拓海はいつもと変わらずに元気なように見えた。髪型もちゃんとワックスでセットされている。殆どすっぴんの自分とは大違いだ。
やっぱり昼一緒に食べよう、と言った時に断れば良かった。昨日からもう何度目か分からない後悔で、優美は胸が一杯になる。
優美は昔からいつもそうだった。小学校二年生の秋、遠足で好きなお菓子を交換して欲しいと言われた時。中学に入ってすぐ、本当はバレー部に入りたかったのに、友達から「ねえ、一緒にバスケしようよ」と言われた時。
自分の中での気持ちは決まっているのに、相手を目の前にすると、優美は弱くなってしまう。「いいよ、交換しようよ」「バスケ、カッコいいと思ってたんだ。やってみたい」なんて、口がすらすらと答えてしまうのだった。
流石に高校生になるぐらいには、このままでは世の中の厄介事に全て巻き込まれてしまうような気がして、断る訓練も密かに試みた。気が進まない日の放課後のカラオケや、クラス委員の推薦など。
それでも、最終的に相手が「えー、優美、ちょっとぐらい気晴らしに遊んだほうがいいって! 勉強しすぎ」「黒ヶ瀬さんみたいに真面目な人が一番向いてるよ」などと言われてしまうと、途端に優美の思考回路は鈍ってしまう。
「俺、スタバの新作飲みたかったんだよな。優美、授業終わった後なんか予定ある?」
今日はすぐに帰りたいな。授業の復習も予習も最近全然できてないし。
言いたい言葉が、胸の中で明確に光っている。後は優美がそれを拓海に伝えるだけだ。なのに、いつまで経っても、その単純な文章は声にならない。
「いいよ、行こっか」
「よっしゃ!」
拓海がくしゃくしゃと嬉しそうな顔を見せる。こんなことで喜んでくれるなんて。可愛い。そう思う気持ちと、またやってしまった、という罪悪感がないまぜとなって、優美の身体の芯を滑り落ちていった。
二年前、新入生を呼び込もうと息巻く先輩たちによるサークル勧誘チラシの嵐の中で、優美と拓海は出会った。
「あの、すいません」
慣れないキャンパスの中、正門に立っていた茶髪のお兄さんに、優美は声をかけた。お兄さんは、ん? という顔をしながら、優美の顔をじっと見た。さりげなく、上から下まで見られているような視線に、思わず眉を寄せそうになる。
「八号館って、どう行けばいいですか」
入学前に同じ大学に進学する子とあらかじめSNSで知り合っておく。できれば、趣味が合いそうで仲良くなれそうな子がいい。そうすれば、いきなり独りぼっちで大学のキャンパスに放り出される心配はない。
そう先輩から教わっていた優美は、慌てて仲間を探し始めた。同じ高校から進学する子もいたが、新歓ブースを一緒に見て回るような仲の良さでもない。優美はとにかく必死だった。そのドタバタの中で知り合った子との待ち合わせ場所に辿りつきたかったが、生来の方向音痴が邪魔をして、どこに行けばいいのか分からない。完全に迷子だった。
「八号館? それなら、ここ真っすぐ行って…」
お兄さんは近くにあったキャンパスマップを指差しながら、道を教えてくれた。優美よりも拳一個分ぐらい背が高い。髪が綺麗にセットされていて、首筋が白く綺麗だった。黒のTシャツに細身のジーンズ。手に持っていたのは軽音サークルのもので、いかにも音楽やってます、という雰囲気が全身から漂っている。
「ちょっと奥まったところにあるから、分かりづらいかもね」
「すいません、助かりました! ありがとうございます」
「全然いいよ。……新入生だよね? 何学部?」
「法学部です。えっと、お兄さんは?」
お兄さんは吹き出しそうになりながら、「経営学部」と答えた。そんなにおかしいこと言ったかな。優美は恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じる。
「同学年だから仲良くしようよ」
「えっ?」
てっきり先輩だと思っていた優美は驚いた。どう見たって、勧誘される側というよりも勧誘する側の立ち姿だったのだ。
「俺、高校がこの大学の付属でさ。元々仲良かった先輩にここのサークル勧誘されてて。で、早速チラシ配りの手伝い中」
イケメンって辛いなあ、と冗談っぽく言いながら、お兄さん———目の前の男子は続けた。
「自己紹介しとくね。早瀬 拓海です。サークル決めた? 今日の新歓コンパ、うちのサークル焼肉屋なんだけど、新入生タダだよ。一緒に行こう」
「黒ヶ瀬 優美です。えーと、私、楽器とか全然やったことなくて‥‥‥」
「ゆうみちゃん、かあ。名前も可愛いね」
歯が浮くような台詞に戸惑う優美に、拓海は大丈夫大丈夫、と安心させるように頷いた。
「優美ちゃんと一緒に行けるなら、俺、楽しめるように頑張っちゃうからさ。一緒に行こうよ」
昼食を食べ終わった優美たちが学食を出ると、同じパーカーを来た男女八人ほどのグループが丁度入れ替わりで入ってくるところだった。その中の、明るい金髪をしたロングヘア―の子が、「あ!」と嬉しそうな声をあげる。
「拓海! 総会ぐらいちゃんと来なさいよ。文化祭実行委員に入っている自覚あるわけ?」
「俺は本番に強い男だから大丈夫です」
意味わかんないんだけど、と女の子はけらけらと笑った。喋っている内容とは裏腹に、終始笑顔だ。拓海は軽音サークルの他に、文化祭実行委員会や放送研究会など、いくつものサークルや団体をかけもちしている。
校内を一緒に歩く度、その交友関係の広さに驚かされる。特にサークルには入ってなくて、ゼミが一緒の友達とばかり過ごしている優美とは大違いだ。
「ちゃんと空気読んで。今デート中なの、俺たち」
拓海がそう言った瞬間、視線がぎゅっと優美に集まった。その視線の強さに思わずたじろぐと、ロングヘア―の女の子が値踏みするように、優美を上から下まで観察する。
何よ、その目。
その不躾な態度に、流石の優美も不快に思わずにはいられなかった。
「ということで、またなー。あとで顔見せまーす」
拓海がひらひらと手を振って先を歩き出すので、優美も強張った表情のまま何とか笑顔を作って、拓海の後を追いかけた。
「顔可愛いのに、めっちゃ暗そうじゃない? ウケる」
「バランスの悪いカップルだよね」
聞こえるって、とくすくす笑う声が耳を拾ってしまう。身体の内側が、激しい嫌悪感で波打つようだった。
「拓海、待って」
仕返しの代わりに、優美は先を行く拓海の右手をそっと掴む。振り返って睨みつける勇気が持てない自分を憎らしく思いながら、恋人の手を握りしめた。
出会ったその日に拓海とは連絡先を交換した。誘われるままに同じ教養科目を履修し、一緒に授業を受けるようになった。ひっきりなしに「今何してる?」「昼一緒に食べよう」などと連絡が来る。フットワークが軽いというか、悪く言えば軽薄にも見える拓海の言動に最初は戸惑っていたものの、右も左も分からない大学生活の中で、拓海の存在は大きかった。
「ねえ、優美ちゃん。俺たち、付き合っちゃおうよ」
そう言われて、恋人として隣にいるようになったのは、入学してから二か月程のことだ。
拓海の実家は都内にある。けれど、大学進学と同時に一人暮らしをしたい、と両親に頼み込んでいたらしい。一人暮らしするには少し広すぎる部屋に気後れする程だった。ワンルームで狭いキッチンしか備わっていない優美の部屋とは大違いだ。自然と、優美が拓海の部屋に行く回数の方が圧倒的に多くなる。
「ゆうみぃ」
甘えるような声で、拓海がじゃれついてきた。付き合うようになってから購入した、二人がけの狭い深緑のソファー。合皮の質感を指で感じながら、この後のスケジュールを咄嗟に考えた。
拓海と今から寝たとして、その後帰るのが億劫になるだろう。だからと言って泊まることはできない。明日は一限から必修の授業が入っている。
「……今日は、泊まらないからね」
「ええー。何でだよ」
牽制するように優美が先に話すと、拓海が途端にむくれたような顔をした。
「ごめんって。また今度ね」
拓海はうーん、と言いながら、優美の膝に頭を預けた。足がソファーからはみ出すような恰好になっている。当然のように胸に手を伸ばしてきたけれど、それすら拒否するのも何だか面倒くさいし可哀想なので、黙認することにした。
「ま、最近ちょっと俺の我が儘付き合わせすぎちゃったから、今日はやめにするか~」
ふあ、と欠伸した顔すら様になっているのが拓海のすごいところだ。昼間の女の子の顔がちらりと浮かんだ。きっと、彼女よりも拓海のこんな表情を数多く見ているのは自分だ。そんな自尊心を必死で繋ぎ止めるのが、何だか空しい。
拓海は自己中心的なところもあるけれど、優美にはない余裕のようなものを、拓海からは言葉の端々から感じる。
二人で買い物に出ても、拓海は優美なら躊躇うような金額の服であってもサラリと買ってしまう。旅行に行きたい、ともしきりに言う。優美は奨学金とバイトとそう多くない仕送りで生活していくことになっていたので、最初の頃はそういう金銭感覚の差も密かな悩みの種だった。
申し訳程度に拓海の頭を撫でる。拓海のちくちくした髪に触れると、男の子、というのを強く意識してしまう。
「じゃあさ、晩飯、どっか外で食べよう。そのまま駅まで送る」
「うん」
拓海がよっしゃ、と笑う。その顔を見る度に、自分の小さな悩みなんて、全てがどうでもよくなってしまう。できるだけ長く、拓海の傍にいたいと願ってしまう。
多分これが世間でいう、恋というものなんだろう。
「しばらく色々予定詰まってて、本当嫌になるわ」
チャーシュー麺が運ばれてくるのを見ながら、拓海はぽつりと言った。
「学祭の準備?」
「色々。もうめっちゃしんどい」
たまには違うところに行こうか、と言いながらも結局いつもと同じ中華料理屋に二人は入った。小学生の女の子の手提げバッグみたいな柄の、赤のタータンチェックのテーブルクロスが蛍光灯と油でてかてかと光っている。
「すごいね、拓海は」
「えー、何が?」
「色々何でもこなせてる感じ?」
「こなせてねぇよ、全然。もうーまじきっつい。飲み会多くなるものきっつ
い」
そう言いながらも、拓海の口元には笑みが浮かんでいた。そういう状況を楽しんでいるんだろう、と優美には簡単に想像ができた。優美が大学に馴染むのにすら必死な間も、拓海はすいすいと大学生活を謳歌しているように見える。
「私も、今からでもそういうのできるかな?」
「そういうのって? 例えば?」
「ほら、学内でフリーペーパー配っているサークルあるじゃない? 校内スナップとか一杯載ってる。ああいうの、やってみたいなって」
んー、と拓海が考えるような声をあげ、ビールのジョッキを持ち上げた。さっきよりも、唇の端が可笑しそうに持ち上がっている。
その表情が、昼間の女の子を連想させて、優美は思わず眉を寄せた。
「優美にはあんまり向いてないかもなあ」
え、と呟いた言葉は、拓海が頼んだ餃子を持ってきた店員の声にかき消された。そんなに食べない癖に、拓海はこういう店に来ると、いつも沢山頼み過ぎるきらいがあった。
「知ってる先輩いるけど、飲み会も多いし、取材とか色々行かないとしないといけないから結構面倒くさいっつーか、大変らしいよ」
「それが楽しいんじゃないの?」
「だって優美は、うーん……人付き合い自体苦手じゃん」
拓海の言葉に、ぴり、と胸が細い針で刺されたように胸が痛む。
「前バイトした時も、接客が苦手だーって言って、今のバイトにすぐ変えちゃったしさ。自分から積極的に人を誘うようなタイプでもないし」
拓海からの真っ当な指摘に、優美はぐっと言葉に詰まった。大学に入学してから、優美はバイトを決めることに躍起になっていた。
最初は塾講師のバイトを始めようと思ったものの、最初に校舎に足を踏み入れた時に同じ大学生のチューターたちの雰囲気に気後れしてやめてしまった。コンビニや本屋なら、と思って始めてみたものの、これもまた同じバイトや社員さんとの人間関係や理不尽な客からのクレームに眠れなくなるような日を過ごした。
今は必要最低限しか話さなくていい、高校生の模試の採点バイトと、時々募集がある試験監督のバイトを掛け持ちしている。どちらも気楽だし、時給もそんなに悪くない。
「人間って棲み分けがあるから」
拓海が発した言葉の意味が分からず、優美は反応が少し遅れた。ややあってから、「どういう意味?」と聞き返す。
拓海は染めたばかりの金髪が気になるのか、がしがしと頭をかきながら言った。
「自分が向いてないの分かってるのに頑張り過ぎたって、そんなの、優美が疲れて嫌な思いするだけだろ」
「何で」
思わず声が出た。拓海がぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
「何で、拓海にそんなこと言われなきゃいけないの」
優美の態度が予想外だったのか、拓海が不機嫌そうに眉根を寄せた。
「優美こと思って言ってるんだろ」
「分からないじゃん、やってみないと」
「大体見てりゃ分かるよ。まあ、そんな風に言うなら、やってみるだけやってみれば?」
無駄だと思うけど。
拓海が吐き捨てるように呟いた言葉が、優美の耳の奥でずっと反芻し続けた。
結局、一度崩れた雰囲気は戻ることがないまま、二人は店を後にし、駅で別れた。電車に乗っているとき、拓海からのメッセージが届いた。「ごめん!」と謝っているスタンプも一緒に送られてくる。
本当にそう思っているのか疑わしい、と優美は鼻白んでしまう。また再び怒りが沸いてきて、さっき自分が話題にしたサークルを調べてみた。見ると、一年の春からの参加以外はお断りしているのだという。
ほらみろ、と拓海が笑っているような気がした。実際にそう言われたわけでもないのに、想像の中の恋人に更に腹を立ててしまう。
ようやく自分の部屋に帰った優美は、部屋の電気もつけずにベッドの上に倒れこんだ。拓海の家にあるベッドよりも固さがあるそれに敷かれた布団をぎゅっと握る。自然と涙が出て来た。
この感情の正体を知っている。悔しいのだ。うー、と子どもの癇癪のような声をあげながら、優美は涙を流した。
そのまま、気付いたら眠ってしまったようだった。優美はもぞもぞと身体を動かす。玄関のところだけ照明をつけていたので、部屋はそこから伸びる光だけに照らされていた。メイクを落とさないままだったので、パリパリになったマスカラや、歯磨きをしないままの口の中が気持ち悪くてたまらない。
時間を確認しようとスマホを触ったけれど、電源が切れていて、優美の不快感は募るばかりだった。枕元の時計を見ると四時を指している。優美は起きたくないと訴える体を説得して、無理やりシャワーを浴び、入念に歯磨きをした。洗面台の自分は昨日の鬱屈とした雰囲気を引きずったままだ。
大学入学と同時に一人暮らしを始めた時から、優美は家の中を快適にすることに拘ってきた。バイト代も、友達との交際費以外では主に家具やキッチン用品に消えていく。優美がかわいい、と思わず手に取るようなものは値段が可愛くないものも多い。何度もサイズやそれを置いた時の部屋全体のバランス、掃除のしやすさまで考えた上で優美は購入を決める。
「優美のそういう慎重なところ、俺本当にすげえって思うよ」
いつだったか、拓海と一緒に買い物に行った時のことが思い出された。その時も、優美は吉祥寺の家具や雑貨を取り揃えている店で、うんうん唸って拓海を随分と待たせてしまった。
なるべく失敗したくない、という気持ちにおいて、拓海と優美は随分差があるように思えた。
拓海の部屋に初めて入った時のことを今でも鮮明に覚えている。
読み捨てられた雑誌が乱雑に置いてある拓海の部屋はお世辞にも綺麗とはいえないが、程よく汚れていて、程よく人が生活する上での矜持はちゃんと残してあった。彼が生活している様子をありありと想像できる部屋。積み重なったカラーボックスも、恐らく飾りと化しているギターも、拓海自身をきちんと好ましく体現している。
その一方で、開けられていないままの段ボールも部屋の隅っこに何個か転がっていた。
「これ、なあに?」
「んー。ネットで買ってみたんだけど、思ってたのと何か違うなあって思った品物の数々です」
捨てるの面倒くさいんだよなあ、という拓海の言葉に、優美はふうん、と言いながら、口に出したかったはずの言葉を飲み込んだ。
シャワーを浴びる前に冷蔵庫に入れておいた、飲みかけのストレートティーをお気に入りのマグカップに移す。すっきりと冷たくなっているそれを一口飲むと、昨日さめざめと流した水分が、身体の中にぐんぐんと染み込んでいくようだった。
カーテンを開けると、早朝と呼べる時間なのに空はまだ暗い。星がちらちらと瞬いているのがよく見える。数を数えられそうなほどだ。
優美はベランダに続く窓をカラカラと開けた。朝の冷たく澄んだ冷気が、昨日までの膿を少しずつ洗い流すかのように、優美の全身を包み込む。
「人間って棲み分けがあるから」と拓海は言った。恋人からそんな風に言われたことが、優美にはショックでたまらなかった。もしかしたら拓海なりに優美が傷つかないようにと思ってのことだったかもしれない。傷ついている一方で、拓海を擁護するようなことを考える自分も情けなかった。
でも、と優美はもう一口ストレートティーを飲む。
拓海と仲の良い女の子にくすくす笑われたことも、拓海の発言も、根本的には同じなんじゃないだろうか。
『私を見くびっているの?』
いつだったか、少し古い映画でヒロインの女の子が元恋人にそう啖呵を切ったシーンを思い出す。君にはハーバートのロースクールなんて無理だよ、と元恋人に言われた主人公はその後一念発起して、弁護士になるサクセスストーリーだ。そうだ、私は見くびられている――。
目尻に再び浮かびそうになる涙を拭った。徐々に姿を見せた朝焼けを睨むようにして見つめる。見くびらないで欲しい。他人から安易に判断されない自分になりたい。
優美はおもむろに立ち上がって振り返ると、ベランダから自分の部屋を改めて見つめた。大丈夫、やれる。自分の好きなものを厳選した空間なら、何でも勇気が出せる気がしてくるから不思議だ。
優美は充電ケーブルに差し込んでいたスマホを手に取ると、おもむろにこの悔しさを払拭する方法を検索し始めた。
空が徐々に白く染まっていく。その眩しさに、優美はそっと目を伏せた。
最後に
主人公 優美の葛藤を通して、読者の皆さんが生きていく上での光を見つけてもらえるようにという思いを込めて、この小説を書きました。
少しでも「読んで良かった」と思っていただける作品になっていればいいな……!と当日までドキドキして待ちたいと思います。
どうぞよろしくお願いします!
出店日時:2023年11月11日(土)12:00~17:00
出展ブース:東京流通センター 第二展示場 Eホール | い-12
タイトル:Calling(辻村 いち)
本文:120頁(約53,500字)
価格:200円
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