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【5分でホラー】脱衣所で聞こえる足音

我が家の脱衣所には、「何か」がいる。

それに気付いたのは、孝志が中学に入って、部活が忙しくなってからだ。汗や泥まみれになった体で帰宅する度に、母から「まず風呂」と急き立てられる。

面倒くさい、と思いながらも、火照った体を鎮めるように、シャワーを浴び、浴槽の中に身を浸すのは気持ちが良かった。

「それ」に初めて出会った日は練習試合があった日だ。

4-5。サヨナラ負け。まだ試合に出させてもらえない孝志も、先輩たちの気落ちした様子に当てられて、しおしおと帰宅した。

「ただいま」と言うのもそこそこに、一直線に風呂場へと向かい、孝志専用の洗濯かごに全てを突っ込み、シャワーを浴びる。

体を洗い終わり、入浴剤を入れた風呂の中に肩まで浸かって足を伸ばしていた時だった。

たたっ。

脱衣所の方で音がした。足音の、ような。

兄の光太郎だろうか。大学受験を控えている光太郎は、神経質になっているのか、シャワーの音がうるさい、だとかいう因縁というか八つ当たりのような抗議を時折孝志にすることがあった。

「兄ちゃん?」

声をかける。返事はない。また怒っているのか、とうんざりした。自分だって部活してた時は同じようにすぐ風呂入って、じゃあじゃあシャワー浴びてたくせに。

「もう上がるよ、俺」

また、返事はない。よくよく考えると、脱衣所に誰かがいれば、風呂場と脱衣所をつなぐ扉の擦りガラスから、人影が見えるはずだった。

それがないということは、孝志が聞いたと思った足音自体、聞き違いだったのかもしれない。

独り事を言う羽目になってしまった孝志は、どことなく気恥ずかしくなり、誤魔化すようにしてに立ち上がる。

さっさと夕飯を食べてゲームがしたい。

孝志の体の動きにつられて、湯の中の水がばしゃ、という音を立てる。そこから、一拍置いたときだった。

たたっ。

また、足音がした。

完全に気を抜いていた孝志は、ぎょっとして、摺りガラス越し、脱衣場の方を凝視する。

また、一拍。

黒い影のようなものが摺りガラス越しに見え、消えた。今度は足音がない。
どうやって、足音もなく、消えてしまったのだろう。

それから数日間、孝志は正体不明の足音と影に何度か遭遇してしまった。

最初は気のせいかもしれない、と呑気に構えていたが、段々足音自体が増えているような気がして、いよいよもって薄ら怖くなってくる。

たたっ、たたっ、たたっ…。

*************

「え、お前気づいて無かったの」

孝志が、意を決して兄の光太郎に相談しに行くと、帰ってきたのは意外な答えだった。

「え、じゃあ皆気づいてたの、もしかして」
「うん。少なくとも、母さんと俺は」

父と母は孝志が3つの時に離婚している。その父が見ていたかどうかは知らないということらしい。

「いつから気づいてた?」
「えー…あ、俺の中1の時だったかな」

兄が中1、ということは孝志は小学校1年の歳だ。その頃、奇妙な体験をした覚えはない。

幼かったから、分からなかっただけかもしれない、と孝志は思う。

クーラーが効いた兄の部屋が、また一段寒くなったようで、ぶるりと身震いした。

「母さんも気にしてたけど…まあ、『実害』はないから、って」

実害。

確かに言われてみると、そこに「いる」のは判別できるが、それ以上の怖い思いをしたことはない。

気のせいだ、と割り切ってしまうこともできなくはないような、些細なものだ。

でも、と口を尖らせる孝志を諫めるように、光太郎は続ける。

「母さんには言うなよ。この話嫌がるから」

その声の慎重さと、鋭い視線から、本当に母にはこの話は禁句だということが伺えた。孝志も黙って頷く。

「…俺、怖いんだけど」

孝志の訴えに、光太郎はうーん、と考えるように唸ると、自分の机の一番下の引き出しから、がさごそと何かを取り出し、孝志に向かって放り投げた。

中央が膨らんだ筒状で、中が透明になっている。透明の中に、コードらしきものが入っているのが見えた。

「何これ」
「風呂場用のスピーカー。それで音楽でも流せば気にならなくなる」
「兄ちゃんはもう使わないの」
「使わん。勉強のために風呂はさっさと上がるようにしてる」

だからお前もさっさとどっか行け、と言い捨てて光太郎は孝志に背を向けた。

シャワーの音をうるさい、と怒る癖にこれを貸してくれるということは、それなりに配慮してくれているのだろうか、と孝志は表情が分からない兄の背中を見ながら思う。

「…ありがと」

その日から、孝志は風呂場にスピーカーとスマホを持ち込むようになった。流石に音はそれなりに抑えてはいるが、それを使ってからというもの、例の足音は気にならない。

擦りガラスは極めて見ないように心がける。風呂自体も、だらだら入るのではなく、できるだけ早く上がるようにした。

その状態で何か月も過ごしていると、あの時の「何か」との遭遇も、大したことじゃなかったような気がしてくる。

自分が過剰に反応していただけだ、とすら孝志は思うようにすらなっていた。


そんな日常の連続に、いつの間にか気が緩みきっていたのだろう。

その日、ベッドに入り、スマホのアラームをセットしようとした孝志は、風呂場にスマホを忘れたことに気づいた。

「…やば」

どうしよう、と逡巡する。時刻は24時をまわっていた。朝取り行こうか、と思う。

けれど、このままだと寝る前に更新を楽しみにしている漫画アプリをチェックすることができない。続きがどうしても気になる作品があって、今すぐにでも読みたかった。

行こうかどうしようか、迷った挙句、孝志は取りに行くことを選択した。
さっさと取れば何も問題ない。

実際、音楽を鳴らしてからは「それ」を認識しなくなったことで、孝志の警戒心はぐっと薄らいでいた。

光太郎が「実害はない」と言っていたことも、判断材料の一つとなり、そろりそろりと、ベッドから抜け出す。

2階にある孝志の部屋から、1階の風呂場を目指す。光太郎に声をかけようかとも思ったが、なけなしのプライドが邪魔をした。

静かに階段を降り、廊下の電気をつける。看護師の母は今日は夜勤の日だった。しん、と静かな家の廊下を進む。

フローリングをぺたぺた歩く自分の足音すら過敏になっている自分を、孝志は少し恥ずかしく思った。

脱衣場まで来た。

意を決して、勢いよく扉を開け、いの一番に明かりをつける。脱衣場と風呂場の明かりのスイッチは連なっているので、二つとも連続してつける。

いつもの脱衣場と、風呂場だ。勿論、誰も、「何も」いない。

そのままさっと入ると、風呂場に通ずる扉を開ける。できるだけ何もみないようにして、いつもスピーカーをぶらさげている場所に大股で近づく。

スピーカーの筒の中に入っているスマホを取り出し、また大股で脱衣場まで引き返した。

はあっ、と息を吐く。

あとはこの場を離れるだけだ、と右手に持ったスマホに視線を落としたときだった。

ブラックアウトした画面に、「何か」が映っている。

あ、と思ったときには、その造形をはっきりと認識してしまった。

表情は分からないが、顔の輪郭と、長い髪のようなものが、スマホの画面に映し出されている。

ちょうど、孝志の背後から覗き込むような恰好だ。

考えるよりも早く、指先が動く。電源ボタンを押すと、画面がいつもの待受画像に変わった。手の平の上に、日常が戻ってきたことに、ほっとする。

それでも、鼓動がうるさい。

気のせいだ、と孝志は自分に言い聞かせた。

この場を離れなければ、と唾を飲み込んだときだった。

たたっ、たたっ、たっ・・・。

背筋が、耳が、体全体が、痺れるように、痛い。
スマホを持つ右手が震える。

兄ちゃん、と痛切に光太郎のことを考えた。声がでない。それでも、一歩踏み出そうと、視線を更に下に落とす。

目の前に、青白い二本の足があった。

口が、助けを求めるように開く。退路を塞ぐように立っているそれに対して、どうしたらいいのか、孝志には分からない。

持っていたスマホを落とし、がしゃ、というケースが床に叩きつけられる音がした。

風呂場には不釣り合いな、腐った泥のような匂いが鼻を掠める。青白い足から視線が外せない孝志の耳元に、生温かい息が、ふうっとかけられた。

ねえ。

囁いたのは、女の声だった。

孝志は反射的に顔をあげた。

顔の左半分が火傷のように引きつり、眼窩が落ち窪んだ女が、孝志の鼻先数センチの所まで、顔を寄せていた。べしゃりと、汚らしい髪の毛が顔全体を覆っている。

腐った匂いが、孝志の鼻から口から、全て覆いつくす。

みえて、る?

目の前の女が、にたり、と嬉しそうに口を歪めたのが見えた。覆われた髪の中から覗く、不釣り合いな程に小さい黒々とした瞳と目が合う。

その瞳が、興奮したように、ぐるりと回転した。

よにん、め。

*************

そこからのことを、孝志はよく覚えていない。光太郎が血相を変えて脱衣場までやって来たことは漠然と分かった。

きっと自分は叫んでしまったのだろう、と孝志はベッドの上で、朦朧とした意識の中で考えた。

「お前も、見たんだな」

兄の声を遠くで、聞きながら、孝志は眠りの中に引き込まれていった。


「可哀想に。一度気づいたら、これからずっと・・・」



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