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〈弔い〉の作法について

 2017年の3月11日は、仙台におりました。14:46分、町にサイレンが響きわたると、歩いていた人たちは自然と立ち止まって、海の方角を向き直し、静かに祈りを捧げておりました。多くの人たちが一斉に、じっと祈りを捧げる時間は、よくよく考えてみると、稀なことのように思います。それだけ、大きな災害に見舞われた土地には、弔いの所作が深く編み込まれているのでしょうか。
 その翌日、なんとなしに海を眺めてみたくなり、友人と連れ立って、浜辺をまわっておりました。いつもより少しばかり荒い波を見聞きしながら、砂浜を歩いていると、渚に手向けられた花を見つけました。

渚に手向けられていた花

 波がぎりぎりに届かない、陸と海とのちょうど境目に、手向けられていた花。きっとこの花を供えた人は、亡くなられた方々が、ほんの少しでも長く花を愛でられるようにと、この場所を選んだのでしょう。ここにはいない誰か向けられた、小さな花と、弔いの気持ち。渚で花を手向けた人に思いを馳せながら、私も掌をあわせました。

 花が手向けられていた浜辺からは、原子力発電所の煙突を眺めることができます。東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が起きてから6年が経ってもなお、いまだに遺骨や遺品が見つけられないままの方々もいることが、私たちの心を痛めます。津波で亡くなられた方々のなかには、原発事故によって放射性物質が撒き散らされたために、捜索さえままならぬままに、野にさらされていた人たちがいることを思えば、核エネルギーの残酷さを思い知るとともに、〈弔い〉とは一体何なのかと、問いかけられているような気がいたします。

 死者を鎮めるための作法は、急かされるように失われようとしています。
 元々は地域社会が共同で担っていたはずの葬祭にかかわる儀式は、サーヴィスとして葬儀屋に委託されるなかで、私たちは〈弔い〉の作法を忘れつつあります。

 そのようななかで起こった原発事故は、〈弔い〉とは何かと、私たちに問いかけたのではないでしょうか。

 町や村ごと強制的に避難させられ、先祖代々の墓が置いてきぼりにされ、死者が雨風にさらされ、しかも誰もが〈弔い〉の作法を忘れつつある社会のなかで、逆説的に〈弔う〉とはどういうことかと、私たちは自分自身を問い直しはじめているような気がします。

 彼岸になると、立ち入り禁止の看板の前で、お線香を焚く方もおりました。お墓参りすら許されていないので、せめてお墓から一番近いところで先祖に手を合わせようとしていたのでしょう。

 誰にも見つけられぬままに、雨風にさらされていた人たちのことを思うと、胸が締め付けられるような思いにとらわれるのは、私だけではないでしょう。遺骨は箱にしまわれ、白い布で覆われる作法もあることを思えば、原発事故によって強制的に避難させられたために、野にさらされ続けた方々や、またはその身が海に流されていった方々に対して、せめて奇麗な花だけでも眺めて欲しいと、いくつの花が浜辺には手向けられたのでしょうか。

 海の方を眺めて、手を合わせること。お墓のできるだけ近くで、お線香を焚くこと。死者に思いを馳せて、花を手向けること。私たちは喪の作法を、少しずつ編み直しているのでしょうか。


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