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数奇な日常によせて

世界中の劇場がいま、暗く静かな箱になっている。

不思議な気持ちです。日比谷に行っても、渋谷に行っても、下北沢に行っても、きっと劇場は静かに眠っている。場当たりや仕込みまで進んでいたが…という話もたくさん聞こえてきます。悲しいことに我々の生きている場所は、劇場も、稽古場も密室であり、ひととひととが肩を寄せ、顔を付き合わせ言葉を交わし合ってしまうのです。

舞台の歓びはどこにあるのか。今再確認しています。

目を合わせ、空気を感じ、息を合わせ、体を寄せ合い温度を感じる。

みんなで顔を寄せ合って、演劇を作りたいなあ…。


だけど!演劇というものは、日常ありきのものです。生活の上に成り立ってるとかそういうことじゃなくて!

友達と話す時はこういう風に話す、仕事で家に帰ってきて疲れ果てている時はこういう息をする…そういうリアリティを計画的に作り上げていくことが我々の仕事です。リアルがあり、そのリアルから突然ズレた反応をすると笑いが起きたり、ファンタジーになったり、不気味になったりする。(そういう作りじゃない芝居もあるかもしれませんが!)

お客さんの日常が違えば演劇のあり方も変わってしまうのではないかと思います。演劇は、日常と地続きに存在しているものなので。

映画とは違うのもそこです。映画はスクリーンを隔てているので、自分の日常と地続きに感じる度合いが少し下がりませんか?

例えば!

今、映画館の椅子に座って、キスしてる人たちが流れているのを想像してみてください。

今、劇場の客席に座って、キスしている人たちが演じているのを想像してみてください。

舞台で観る場合の方が「濃厚接触」の文字が頭によぎったり「役者さん大丈夫だろうか」という不安に襲われませんか?

演劇はリアルタイムです。お客さんは観客でありつつも、台詞を受け、表情を受けて、心が動いている。直接言われているとは思わなくとも、なんだか「直接」言われているような気がしたり、その場に「居合わせて」いるような気持ちになる。

日常と乖離したところに存在しているわけじゃない。

日常に持ち帰るものが多い。

演劇の、舞台の特徴ではないか、と私がここ数年考えていることです。(まるゆめ・うまれおちますオペレッタ!はこういう思考もありました)


と、周り道をしましたが。

今無理やりに生で演劇をやったところで、みなさんの日常が「違いすぎる」んですね。持ち帰るべき日常が、いつもあるはずの日常が、待っているはずの明日が、全く違う景色に成り代わっている。


ウイルスが落ち着く日をじっと待ってなどいられません。


それは、この数奇な日常に合わせた演劇を作らないと気が済まない自分がいるからです。せっかく全員で違う景色を見て共有しているのだから、今こそみんなで味わえるものがある気がするのです。

そりゃあ生がいいよ!生のコミュニケーションって面倒臭いことがめちゃくちゃ多いけど、やっぱ最高だったよね!会いたい人と会って、食べたいものを食べて、行きたいところに行きたいよ!そこで生まれる非日常を演劇にして稽古して舞台に上げたいよ!

私は力も知名度も持たない未熟な演劇好きです。一緒に育って行く予定だったプロジェクトがどうなるやらの胸騒ぎで、夜も昼も寝っぱなしです。

だけどラッキーなことに。この状況になっているのは私だけではないのです。日本だけではないのです。世界ぜんぶが、混乱している。世界ぜんぶがアン・ラッキーなので!みんなの「あるある」があってこそ作品は生まれるはずなので。何か書いてやるぞ。

そして作ったものを数年後に見返して、コロナ経験者はみんなで「あ〜〜あの時の気持ち思い出すなあ」と思えるような。いや〜な味だけど、この数奇な日常に戻ってしまうような。それでも過去のこととして笑えるようなものを生み出すのが、この時代に生まれてしまった若い劇作家の使命なのではと思っています。


それに!

ウイルス関係なく、家から出られない人に寄り添いたい。

そうも思っています。今だからこそ理解できるかもしれないよね、そういう人たちの気持ちや日常が。


毎日悲しいです。ぽろぽろ涙が出て止まらないこともあります。こんなことにならなければ、と悔しく思うことは山ほどあります。未来は不安だし大好きな人たちに感染してほしくないし、今まであった日常に戻ってほしいとしか思えません。


暗い世界の灯し火を 

細いマッチでつけるのが 

演劇だったら、いいのにな


私は演劇を諦めません。

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