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撮りたい写真、撮らない写真

あけましておめでとうございます。

note書き初めにしては大きすぎるテーマを掲げましたが、おそらく時間をかければかけるほど終わりが見えない話になってしまいそうなので、さらっと書くことにします。

撮りたい写真

【子どもの成長記録】

子どもが生まれてからずっと撮っている。長男の育休から仕事に復帰した年は、母子ともにしょっちゅう病気にかかり、ゴールデンウィーク、運動会、発表会、誕生日くらいしかカメラを持つことがなかった。「あれ、私このとき何してたんだろう?」と思い出せない。ぽっかり穴が空いたようで寂しかった。だから、撮りたい。

【子どもと夫、できれば自分も】

4人で暮らしていることが当たり前と言えば当たり前なのだけど、私は結婚する前から(いや、恋人すらいない頃から)「いつか離婚するかもしれない」というネガティブ思考で生きてきた。幸い結婚生活が続いているけれど、当たり前は当たり前ではないかもしれない。だから、この当たり前を、写真に残しておきたい。

【お気に入りのモノ】

一生懸命お金を貯めて、欲しいほしいと思ってやっと買えたモノは、初めて会った時から特別な存在になる。最初に出会えた時の感動を忘れないように「開封の儀」として写真を撮るのが好きだ。新入りだけでなく、これは私の相棒と思っているモノたちも、美しく撮りたい。被写体に向かって、「うちの子かわいい」と呟いているようなものだ。

【儚さを秘めた美しいもの】

諸行無常と言うのでしょうか。美しすぎるものは、儚い、切ない。ぐわっと、感情が動く。それを忘れたくないから撮ってる。

一瞬の光景に限らず、当たり前の日常も、実は儚さを秘めている。日常のありがたさを時々忘れてしまうから、「後で思い出すために撮っておく」という思考回路になる。


撮らない写真

【自分との関係性が希薄なもの】

撮りたくないと言うか、被写体に対して愛着、興味関心がなかったり、初対面の人やモノを撮っても、自分の中では持て余してしまう。「ごめん、私、人見知りだからうまく撮れない」ってなる。

【消費されてしまうもの】

美女の写真が好きで、Instagramでは毎日美女を見ている。でも大抵は記憶に残らない。記憶に残るとしたら、そこに物語が生まれるときだ。撮りたい写真の「儚さを秘めた美しいもの」と、撮らない写真の「消費されてしまうもの」のちがいは、その写真を見て、詩が書けるかどうか。

【子どもに嫌がられたら、撮らない】

「撮りたい」はこちらからの一方的な愛の告白だけど、必ずしも両想いになれるとは限らない。フラれることもあるし、フラれてからの再アプローチ(お菓子あげる作戦とか)で両想いになれることもある。でも、フラれたら、「ま、そういう時もあるよねー」と諦める。


例外

【自画像】

誤解しないでください。私は自撮りをしたいわけではないのです。むしろ、私なんて撮ってもなんもいいことないで!と声を大にして言いたい。それは確実。

ただ、美女でもなく取り柄もなくただ普通の人である自分を魅力的に撮れないのは、自分の腕のなさだと思っている。

良い機材と、美しくて表現力のあるモデルがいれば、誰だってそれなりの写真は撮れるだろう。

でも、普通の機材で普通の自分を魅力的に撮れたら、それは自分の腕と言えると思う。

だから、撮りたくはないが、自分を撮りたい。表現力の腕試しのために。