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書く仕事を手放す日

「フリーランスの商業ライター」としてのペンを、一旦置くことにした。


これは前々からずっと考えていたことだったけれど、なんとなく気持ちの落としどころが見つけられずに、長いことぐずぐず引きずってきた課題だった。



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学生時代、学内研究誌の執筆・編集に携わったり、本屋や校閲関係のアルバイトをしたりしていた経験を見込まれて、ライターとして新卒入社をした。

「ライター」と一口に言っても、手がける中身は人によっていろいろだろう。
小説や詩歌などの創作が生業のいわゆる「作家」や、コラムを執筆するコラムニスト、エッセイを執筆するエッセイスト、時事問題などを取材して記事に表すジャーナリスト、新聞記者に雑誌記者等々……。

就職先でのわたしの仕事は、町の企業に取材をして、経営者の事業への思いや経営戦略、商品紹介などを記事にすることだった。
ビルの一角で大人たちがスーツを着て働く「THE 会社」という感じの会社をはじめ、レストランやお菓子屋さんといったお店についても記事を書いた。

仕事自体は好きだったものの、だんだんとその数が増えていくにつれ、手が回らなくなり、お昼ごはんを食べる時間が消え、夕ごはんを食べる時間が消え、眠る時間が消え、最終的にトイレに行くのすらままならなくなった。


結果、体を壊し呆気なく退職。


しかし、会社は辞めても書く仕事への未練はたらたらだったため、いくつかの会社と契約を結び、フリーランスとしてライター業を続けてきたのだった。



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わたしが書くのは、主にウェブメディアに掲載する記事だった。

美容や医療、税金、副業、育児、男性向けの趣味紹介、主婦向け便利グッズ、恋愛、婚活、フラワーアレンジメント、映画、書籍、ビジネスマナー等々、依頼があればとにかく何でも書いた。

「ネット記事ってどっかの誰かがてきとうに書いてるんじゃないの?」と思っている人もいるかもしれない。
確かに、悲しいことだけれど、そういう記事もたくさんある。

でも、変な言い方になってしまうが、「身元のきちんとした会社」が展開するウェブメディアに掲載されている記事については、何人もの人の手によって厳しく事実確認が行われることがほとんどだ。

文章表現・誤字脱字、コピペなどの基本的な審査はもちろん、表記ルール(会社ごとに異なる)が守られているかや、記事内容が正確かどうか、読者に誤解を与えかねない表現をしていないかなど、とにかく徹底的に校閲・編集が入る(特に金融系の記事や、薬事法を念頭に置いて書かなければいけない美容・医療系の記事は、書く方も編集する方も神経をすり減らす)。

ちなみに、原稿料はライター自身の経験・実績や、契約を結ぶ会社によってそれぞれ異なる(代理店の役割を担う会社を介さずにクライアントと直接契約を結ぶ場合は、その分原稿料も高い)。
わたしの場合は、それなりの収入を得るために、3000~6000字の記事を月に20~40本書いていた。


求められるのは、迅速さと正確さ。
そして何より知識量だ。



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話は変わるが、わたしはライターの他に、低学年向けの塾で子どもに勉強を教える仕事をしている。

これは、フリーランスでやっていくと決めたときに、「学生時代に借りた奨学金の返済や税金・年金など、月々必ず発生する支出の分だけは、毎月安定して稼ぎたい」と思ったことがきっかけで始めたことだった。
フリーランスである以上、いつ何時、その月の仕事がゼロになるかわからないと怯えていたのだ。

学生時代に教員免許を取得していたのが幸いしてありつけた仕事だったが、最初はとても大変だった(この仕事については後日改めて記事にしたいので詳しくは割愛するけれど、ごく簡単に表現すると、「子ドモ、モンスター、ヤツラ、カミツク」という具合だった)。


ずっと一人黙々と書く仕事に徹してきたところから、急に子どもの世界に飛び込んだこともあり、体力も気力も尋常じゃないスピードで消費されていく。

それでも、泣いて泣かれてときどきお腹の底から笑って、大人げなくも真正面から子どもと衝突することを繰り返していたら、いつの間にかこちらの方を本業にしたいと思うようになっていた。

長いことかかったけれど、ようやく今日、そのための実際的な準備と、心の準備の両方が整った。



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体がボロボロになったとしても、書く仕事にしがみつかないと気が済まなかった。

お金をいただく以上は、「このテーマは難しい」「なんか今日調子が出なくて書けない」と思っても、書けないなんて許されない。自分が執筆を依頼する側だとしたら、そんな甘えが透けて見える記事が出された時点で「お金返してほしいな」と思ってしまう。

依頼があれば何でも書いたし、祝休日の締切や夜中に届く修正依頼にも対応した。そして何より、ターゲットである読者に読んでもらえるように、好きになってもらえるように心を砕いて書いてきた自負がある。

だからというわけではないけれど、自分自身に、「もう、そんなに追い込まなくてもいいんじゃないかな」と声をかけたい。
「そろそろ自分をちゃんと見て、できることならのんびり行こうよ」と。

仕事として書きたいことはもう残っていないと言えるくらいには、やってきたはずだから。



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人に好きになってもらうための文章や、人の役に立つための文章もいいけれど、これからは、わたし自身が納得できる、好きになれる文章を書いていきたい(特にnoteではそれが炸裂している自覚がある…)。

それは必ずしも、簡潔で読みやすい文章ではないだろう。
誰かにとってのお役立ち情報や新しい発見を与えられる文章でも、きっとない。

でも、仕事で書いていたときには使えなかった「しかしながら」とか「ままならぬ」とか「かもしれない」とか、飾りのついた接続詞や古めかしい日本語、自分の気持ちを表す言葉を自由に使うたび、きっとわたしは一つ、また一つと、書くことの喜びを思い出していく。


そうしていつか振り返ったときに、痛いほど握りしめていたペンのヒビすら愛せるようになって、新しく握ったペンがしっくり手に馴染んでいたらいいなと思うのだ。






長く続けることをモットーに励みます。