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食べることは、生きること

神奈川県に住む父がコロナで重症化し救急搬送された。

取り乱した母から泣きながら電話があったのは、昨年の一月の終わりのこと。糖尿病の基礎疾患があった。5年ほど前から、直前の出来事を忘れ、何度も同じことを言うようになった。父は当時、司法書士をしていたが、約束を忘れるなど、仕事に支障が出て、廃業を余儀なくされた。司法書士時代の父は、認知症の方の成年後見人もしていた。顧客のお婆さまの話をしていたのが、つい、この間のようだったのに、ああ諸行無常。コロナ禍になる前は、たびたびわが家に滞在し、畑仕事を手伝ってくれていた。

両親とは、コロナ以降は2年間、会うことはなかったが、その年の年末年始はなんとなく会わなくては、という気持ちになった。ずっと心残りに感じていたのは、私が父の出身地である愛媛県に行ったことがなかったこと。

2021年12月末には行動制限はなかったので、なるべく人混みを避けられる場所で、一緒に過ごすことにした。父の出身地の愛媛県の一軒家の民泊を予約して数日間滞在した。何をするでもなく、温泉に行ったり、松山城を観光したり、お参りに行ったり、のんびり過ごした。父が50年以上前に中学高校時代を過ごした松山市は、当時とはほとんど変わってしまったようだ。山陰萩市の住人からすると、ものすごく都会に感じられた。

松山城

四国から本州への帰路、神社でひいたおみくじは「凶」だった。別れ際、なんとなく胸騒ぎがし、もうこれまで通りの父には会えないかもしれないという不安に駆られ、滅多にしないハグをして別れた。


愛媛県今治市の大山祇神社


帰り道の車中、夕日が見事だった

ここからは、母から聞いた話。父は、コロナは完治したが、食欲が戻らずに衰弱し、認知機能の衰えも心配されたため、リハビリのための病院に転院した。母が父と面会を許されたのは、その1カ月後のことだった。医師との面談で、父に食欲が見られず、このままだと衰弱死の可能性があると知らされ、命をつなぐために「胃ろう」をすすめられた。

医師との面談後、ストレッチャーで運ばれてきた父は、枯れ木のように痩せ細って、起き上がるどころか、寝返りさえうてなかった。母は「食べて」と半ば叫ぶように何度も懇願した。すると、父は「うるさい」と一言。そこで、父が好きなチョコレートを取り出して、「食べる?」と聞いてみると、即座に「食べる」と答えた。「これなら大丈夫」と母は思ったそう。胃ろうの手術をせずに、家に連れて帰って介護をすると腹を括った。

退院にむけて、「要介護5」の認定を受けた父。母は介護の研修を受けた。病院では、ご飯もおかずも混ぜこぜにするミキサー食。この味が嫌いだから食べないのでは?と思ったそう。

退院してから母は、お粥を作ってひたすら食べさせた。萩産の自然栽培された「はぜ掛け天日干し」のお米だ。じんわりと甘味が口に広がる本当に美味しいお米。お粥を父は、よく食べた。毎食1合近く食べて、枯れ木のように痩せ細った体も、徐々に回復。寝たきりで体を起こすことすらできなかったのが、散歩できるまでになった。この回復には周囲も驚いた。


長距離を散歩できるまでに回復した父

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