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財布の中には6,000円があり、帰りにコンビニで電気代を支払うものとする。


 

 よって本日は3,000円でおつりがくるように飲む必要がある。


 ミッションとしては容易い方だ。


 飲まずに帰れよという意見はナンセンス。


 聖書にも書いてある。
 貧乏人は酒飲んで自分が貧乏だってこと忘れろって。
 どこかはわすれた。


 神の教えに背くことこそがナンセンス

 わたしはその導きに従おう。

 のんでものまれるな、それだけだ。


 晩酌セットがある店のリストを思い浮かべる。

 1,300円以内、ドリンク2杯、フード2品以上。

 ほとんどの店舗で19:00までの注文とされている。
 急がなくてはならない。

 帰り道の途上にある、とある行きつけ店に狙いを定め、歩みを進める。

 今日は地下が混んでいる。
 地上を歩くか。
 わたしは剥き出しのコンクリートの階段を上った。



 ――ふと。

 わたしは通りがかったビルの前で足を止めた。



『17:00~19:00、カウンター席限定!
 ドリンク2杯、おまかせおつまみ3品付き!
 ¥1,000(税込)!!』



 ふっとわたしは口元に笑みを浮かべる。
 ――これだから、この町は面白い。


 赤く塗られた細い階段を上る。
 初めての店だ。
 わたしはよそゆきの顔を作って暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませっ!!」
 女性の声が響いた。

「一名様でしょうかっ!?」

 語尾にこもる力にみなぎる若さを感じる。

「あの、外の看板見たんですけど。
 カウンター席で1,000円のやつ、いいです?」

「はいっ、どうぞこちらへっ!!」

 学生さんだろう。
 もしかしたらまだ十代かもしれない。
 かわいい。
 もう若いってだけでかわいい。
 まだ他に客の姿はなく、わたしが本日最初の客のようだ。


「ドリンクは、こちらからお選びくださいっ!! フードは、こちらのお任せになりますっ!!」


 お任せになる前はなんだったの? と日本語の乱れをそっと心の中でつっこむ老害のわたしは、「とりあえず、ハイボールで」とメニューを見ながら言った。
 全体的に抑えられた値段の店だ。
 雰囲気も悪くない。
 店内ポップ等の工夫もされていて、個人店の強みが活かされた良い空気感だ、と感じる。
 これならまた来ようか。
 そう思った時である。

「ななちゃん……わかっているね」
「……はいっ!!」

 カウンター内の、キッチンから声が聞こえた。


 店主と思われる中年の女性は、『ななちゃん』が角ハイグラスを手に取り、神妙な表情で製氷機を開け、深刻な真剣さで氷をグラスに入れる様子を、固唾を飲んで見守っていた。

 ――しまった。

 わたしは自分の重大な過ちをその時悟った。


 今日は、『ななちゃん』の独り立ちの日なのだ――。



 なんというタイミングで、わたしはこの店に来てしまったのだろう。

 ななちゃんが業務用ウィスキーのプッシュボトルの頭を、地球の運命を決める核弾頭の発射ボタンであるかのように逡巡して押す。
 そうだ、その一回で決まってしまう。
 押し損なってしまえば、すべてのお客さまに平等な濃さのハイボールを提供できない――。


 店主女性が無言で頷いた。
 どうやら第一関門は無事に突破したようだ。
 わたしは詰めていた息をいっぺんに吐いた。

 次は炭酸だ。
 生ビールと同じく、注ぐ角度と速度により、泡立ちが違う。
 早すぎては泡が多くなってしまい、その分だけ量が少なくなってしまう。
 生ビールはビールと泡の分量が7:3という不文律があるが、ハイボールはその限りではない。
 客の好みに合わせる余裕のある店もあるだろうが、大体はグラスに人差し指の第一関節分程度の余裕を残して提供する。
 わたしの席からは見えないななちゃんの闘いの勝利を、わたしはこぶしを握りながら願った。

「お待たせいたしました……!」

 その笑顔は美しかった。
 やりきった者の笑顔だ。

 わたしはグラスを受け取り、何も言わずに口をつける。
 美味い。
 わたしはななちゃんが独りで接客した、最初の客になったのだ。
「おいしい」
 思わず呟いたかのように、しかしキッチン内に届くようにわたしは言う。
 ななちゃんが女性店主に向かって、にへ、と笑った。

 フードはまだ作れないのだろう。
 女性店主が説明しながらまな板に向かう。
 わたしは感謝した。
 通りすがりの一見客なのに、ななちゃんの訓練に用いていただけている。
 それは「このお客様なら大丈夫」という、ある種の信頼がなければできない。
 店に入る前に血統書付きの猫を14匹着こんだ甲斐があったというものだった。

 一品、女性店主が作った。
 ななちゃんは真剣にその手元を見ていた。
 そして、女性店主は言った。

「やってみるかい」

 と。

 若い笑顔がはじける瞬間をわたしは目撃した。
 かわいい、まぶしい!!!!
 わたしはこの時点で負けを覚悟し、また、認めた。

 まるでキッチン内のことなど気にしていないかのようにわたしはスマホを繰る。
 活動報告のコメントに返信していれば、ああ、退屈でいじっているのではないのだな、と思ってもらえる。
 ななちゃんの訓練は順調だった。
 彼女は筋のいい飲食アルバイターなのだろう。
 言われたことを言われたようにこなして行く。
 そして――3品ができた。

「――おまたせ、いたしました」


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 ななちゃんの緊張はハイボールの比ではなかった。
 そうだ、これは責任の度合いが違う。
 まかり間違えば、食中毒を発生させてしまうことだってある。
 酒はアルコール消毒されるから適当でいい。
 しかし、食べ物だ。
 彼女が一品一品、丁寧にカウンターに並べていく様子を、わたしはあえてスマホをいじりながらやり過ごした。

 ――そして。

「あ、おいしい」

 わたしはやはり、スマホを片手に言った。
 ななちゃんが笑った。

 もう、だめだ。
 わたしは、全面降伏した。

 メニューをとって、眺める。
 キッチンに緊張が走った。

 よし、これだ――。
 わたしはキッチン内に目を向けて「すみません」と声をかけた。


「長いもの素揚げ、少し経ってからもらえます? それと、二杯目、ビールください」


「はいっ!!」
 ななちゃんがとてもいい返事で、ジョッキクーラーへと飛んで行った。
 女性店主はわたしを見て、少し口元を緩ませてから、「初めてお越しですよね?」と訊ねた。


「ええ、たまたま通りがかって。
 こんないい店があるなんて、知りませんでした。
 感じいいですね」


 そう答えて、わたしはまたスマホに視線を戻した。
 ななちゃんの訓練に、おしゃべりな客はまだ必要ない。
 とにかくスマホ画面をフリックする。
 ななちゃんは会心の出来の7:3を、最高の笑顔で持ってきた。

 ああ、美味い。

 こういう酒が飲みたいの。

 もう負けを認めていたから、わたしは素直にそう思った。
 三杯目は、サワーがいいかな。
 財布には6,000円入っている。

 電気代は明日払います。
 お会計は¥4,830-なり。

 なんでそんなことになったって? 言わせないでよ、野暮ね。

 ななちゃんがひとりで作ったことのないお酒に食べ物。
 いったいどれだけあったと思う?


 スマホの充電が30%になって、そろそろお暇ね、と席を立った。
 会計が終わったときにわたしは言った。

「あなたの感じがよかったから、また来るわ」

 ななちゃんは目を真ん丸にした。


「ありがとうございましたっ!!」


 女性店主さんも入り口まで出てきてくれて、わたしはスマホをいじりながら階段を下りる。

「ありがとうございましたっ!!」

 下りきったときにもう一度聞こえてわたしは笑って手を振った。


 ああ、いい酒だった。


 わたし、こういう酒が飲みたいの。


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