「怖い」とはどういうことか

最近はネットフリックスなどの定額動画サービスでよく映画を見ている。

ネットフリックスを使うようになったきっかけはなんだったか思い出せないが、ちょうどバキのアニメが始まった2年前くらいのことだったので、当初はアニメもよく見ていた。ジョジョや斉木楠雄などの何度でも見れるタイプのアニメも多く、特にこのふたつは何回もリピートしているが、もちろん映画もたくさん見てきた。加えて、アマゾンのプライムビデオも先月あたりから使っている。というのは、いつのまにかプライム会員になっていたからである。たぶん、セミがたくさん出始めて、そうすると夜中に家の入口あたりにセミが集まってきて帰宅できないということが出てくるので(ぼくはゴキブリの次くらいにセミが無理です)、急いでセミよけのグッズを集めたくて、無料体験的なやつでお急ぎ便を利用したのが、そのまま登録になってしまったからとおもわれる。たしかに、30日なにもしなければそのまま有料会員に・・・というような文言をみたような気もするが、あまり覚えていない。が、せっかくなので利用している。音楽も、古いジャズやクラシックなどは制限などないに等しいし、もっとはやくやればよかったとおもったくらいである。まあ、そういうものに限って、ライナーノーツ(CDに添付されている解説)が必要になるような作品も多く、もどかしくもあるが。ともあれ、そこまできて、「ということは、プライム会員のアレも見れるのでは?」とようやく気がついて、映画を見るようにもなったのである。さらに付け加わるのが、ちょっとした環境の変化もあり、夜に相方とのまとまった時間がとれることが増えたということもある。といっても21時以降の3、4時間とかいうことなので、出かけたりできるわけではないが、これまでは2時間以上のいっしょの時間が年間通してぜんぜんないみたいな状況だったので、ようやく睡眠時間を削らずに映画を見れるようになったわけである。

それでまあ、ふたりともホラー映画やゾンビ映画が好きなので、そういうのをよく見ている。最近見ておもしろかったのは韓国映画の『コンジアム』や台湾映画の『呪われの橋』などだろうか。特に『コンジアム』はテンポもよく、ふつうにおもしろかったという印象である。
もちろん、ほかにもたくさん見ている。アルゴリズム的なやつでおすすめされるものもほとんど片っ端から見ているし、ツイッターなどで「ネットフリックス ホラー」「ホラー おすすめ」などと検索したりして、まだ見ぬ名作を探す毎日である(そもそも「コンジアム」はそうやって見つけた)。ツイッター情報だが、ネットフリックスは設定言語を日本語にしておくと検索しても出てこない映画がある仕様らしく、言語を変えて試してみたりもした(ぱっと見でなんの映画かわからないので、すぐやめてしまったが)。
世の中には、おもしろい映画がいっぱいある。本と同じで、生涯かけても見切れないほどある。ぼくは批評めいたことをやっているが、点数をつけるのが仕事ではないので、どんな作品も楽しい。いってみれば「どう楽しんだか」を書くのがぼくの考える「批評」である。ひとが真剣に、魂から作り出したものが、つまらないなんてことはそうそうない。もしそうおもわれたのなら、それはこちらの準備が足りなかったからなのだ・・・と考えるのが基本スタンスだ。
そういうわけで、わたしたちが見ていくホラー映画は、どれもすばらしい。ハラハラするし、不安な気持ちになるし、おもしろい。ところが、心底震え上がるような恐怖には、なかなかぶつからない。「ほんとうに怖い映画」を求めてさまよっているようなところがあるのはわかっていたが、もうずいぶん長いあいだそういう映画に出会っていないと気がついたのだ。そこでふと、もうひとつ大事なことを悟りもした。そもそも、ぼくは映画でもなんでも、恐怖作品をみて、「心底震え上がる」ような経験をしたことがあったろうかと。


【「怖い作品」候補】

たとえば映画では『呪怨』は、たしかに怖かった。寝ているところを真上からのぞきこまれる場面など、当時衝撃的だった記憶もある。だが、もっとこう、そういうのじゃないのだよなというおもいもある。要は、それを見たあと数日のあいだは、シャワーを浴びて髪を洗っているときに背後が気になってしまうような、そういう体験なのだ。
ほかにもいくつか候補をあげてみると、『リング』ももちろん優れたホラー映画である。だが、そういう恐怖の感じは、高校生くらいの当時からぼくにはなかった。この作品にかんしてはぼくは原作が大好きだった。大学受験のとき、絶対に寝坊する・絶対に緊張する、となぜか信じ込んでいたぼくは、60分くらい余裕を見て出発し、さらに緊張をほぐすためにこの『リング』をお守りがわりにかばんに忍ばせて電車に乗ったのである。というのは、この小説の名探偵ポジションにある高山竜司という男の明晰さが、ぼくを救ってくれるかもしれないという祈りもあったからだ。ぼくは電車のなかですでに読み終えたこれを開き、熱中して読み始め、ついにはるか遠くに到達するまで、まちがった電車に乗っていることに気がつかなかったのである。
これはよけいなはなしだが、重要なポイントは、ぼくが高山竜司という人物(映画では真田広之が演じている)に名探偵的なもの、もっといえば批評家的なものを見出していたということだ。映画でもそういう描写はあったとおもうが、高山はあの呪いのビデオをとにかく分析する。印象的なのはあのビデオをスロー再生するところだ。スローにすると、映像がときどき真っ暗になっていることがわかる。しかも、完全な暗闇ではなく、残像が残るような暗さだ。そして高山は、その暗転の頻度が、人間のまばたきのそれと似ていることに気がつく。つまり、その映像全体が、ひとりの人間の網膜を通じて感受されたものなのではないかと仮説をたてるのである。そもそもあの呪いのビデオをスローで分析するということじたいが理知的すぎるわけだが、ともあれぼくは『リング』をそういう目線で楽しんでいた。げんに、なにが呪い解除の鍵なのかを探すということには、ある種の謎解きが伴うのであって、これはホラー映画には共通していることだろう。なにが呪いの原因であるのか、敵の弱点はなにか、こういう推理の働きをトレースできなくては、スリルも恐怖もないのだ。そのあたりがあの山村貞子のシリーズを貫通するおもしろみのひとつなのである。
では、最近また読み始めた粘膜シリーズはどうだろう。これは飴村行という天才作家の「どうかしてる」物語である。だがこれにかんしても、やはりちょっとちがうという気がする。たしかにぼくは、最初に『粘膜人間』を読んだあと、夢のなかに作中の人物と出会っている。が、風呂場で髪を洗っているときに彼の存在を感じるということはない。粘膜シリーズが備えているのは嫌悪感と、それとぴったり背中合わせになったある種の破壊衝動がもたらす快楽とおもわれる。系統としてはゾンビ映画的なものなのだ。
その他に、ふと思いついたのは、トラウマラインのようなものもあるということだ。ついこの前インディ・ジョーンズ魔宮の伝説がテレビ放映されていて、それで思い出したが、ぼくはレイダースの、最後にナチスの連中が溶けていく場面が怖すぎて、インディ・ジョーンズは好きなのに、レイダースだけそんなに見返してはいないのだ。魔宮の伝説も、心臓を取り出すところや、あとあの大量の虫のところとかはよく飛ばしてみていた。しかしこれは、恐怖というよりは不快感に近いのである。別にそのことで震え上がるということはないのだ。
他に考えられるラインは、残虐ラインと心的圧迫感ラインである。残虐ラインは問題外といっていいかもしれない。要するに、スプラッタホラーは大好物だが、それをじっさいに「恐怖」することは、ぼくはあまりないのだ。ここで心的圧迫感といったのは、たとえば「冷たい熱帯魚」とか、ウシジマくんでいう洗脳くんのような、世界の認識じたいにかかわってくるような強権的な書き換えのようなものに対する恐怖である。トータルでみてぼくはこの恐怖がいちばん堪えるようでもある。じっさい、「洗脳くん」の感想を書いていたときはかなりきつかった。が、それもまた、カロリー消費的な「きつさ」でもあり、「恐怖」とはやはりちがうようにおもわれるのである。


【恐怖の経験じたいはないでもない】

こうした具合に、「ホラー作品」として非常に評価しながらも、ほんらいホラーが存在目的としているような(あるいはぼくがそう思い込んでいるような)効果が、どうもぼくにはもたらされないようなのである。それがほんらいもたらすべき結果を、ここでは「髪を洗っているときに背中になにかを感じる」というイメージに集約させることにしよう。では、ぼくはどういうときにこの感じを覚えてきたのか? たぶんいまぼくがこれをまったく感じないのは、たんじゅんに「大人になったから」である可能性が高い。なので少年時代の記憶を掘り返すしかない。ほとんど思い出せないというのが正直なところだが、おぼろげな記憶では、いままで見てきたような映画や小説ではなく、テレビ番組でやっていたようなお化けの描写や、あるいは宇宙人と遭遇したひとのはなしを再現したような些細なVTRとかを見たあとに、経験したような気がする。ひょっとすると、この手の恐怖を体験するには骨太の「物語」は不必要どころか邪魔になってしまうのではないか、などとおもわれてくるが、なにしろこの記憶じたいがあいまいなので、なんともいえない。ひとつ鮮明に記憶していることといえば、絵本『地獄』を読んだあとのことだ。これは覚えている。なにしろ何日か眠れなくなったので。だがこれも、シャワーのイメージのようなものとはちょっとちがう。なにかこう、生きていることの不安というか、サルトル的な世界の異物感というか、そういう感じのやつだ。

シャワー中に背後に気配を感じることはある、あるいは、感じた記憶はある、が、その原因については覚えていない、以上、終わり、ということになってしまうが、ではぼくは大人になってから、あるいは高校生以上くらいになってから、その手の経験をしていないのだろうか? じつはひとつだけ覚えのあるものがある。『IT』である。最近つくられたほうではない、古いITだ。ペニーワイズが、夢の世界を支配するフレディのように、物理法則を無視して襲いかかってくるさまに、心底おびえた記憶があるのである。これが、おそらく中学生くらいのとこのことなのだ。このことと、シャワーのイメージはかなりスムーズにつながるのだ。だが、このことにもやはり問題はある。あるのだが、同時にこたえにもなる。ぼくは旧版の「IT」を深夜テレビで観た。このときこの作品は前半と後半にわかれて放映され、前半は、いま書いたように、神出鬼没、コントロール不可能なペニーワイズのふるまいに真に恐怖した記憶がある。このとき、ぼくは後半を見逃した。たぶん次の週とかにやったんだろうけど、このときは見なかったのだ。ほんとうはそれでよかったのだ。だがやがて、バイトなどしてお金が入るような身分になり、レンタルビデオ屋などにも行くようになってから、ついに後半部分を見ることになったのだ。そこで、ペニーワイズのあのでっかい蜘蛛のような正体が明かされたのだ。その瞬間から、ぼくはもうペニーワイズが怖くなくなったのである。こういう経験じたいは、じつはいまでもよくある。いい感じに怖い映画なのに、最後あたりでけっきょく恐怖の対象の「姿」が開示されることになり、がっかりしてしまうパターンだ。


【「対象」が見えるか見えないか】

この経験は重要であると同時に、比較的当たり前のものであるともいえる。以前読んだ新曜社の『コワイの認知科学』は、生き物への恐怖がメインで、心霊現象などについての記述はあまりないが、2ページだけ、ホラー映画についての言及がある。そこで、映画ファンには前提のように理解されていることとして、日本とアメリカでの恐怖のちがいが、日本では「不安」に源泉があるのに対して、アメリカでは目に見えるもの、恐怖の対象そのものが原因となる、というふうに書かれているのだ。日本での「恐怖」は、そもそもそれがなんなのかよくわからないものに注がれるのである。対して、とりわけハリウッド映画では、それは実体をともない、凶器がなんであるかまで明白な距離感で迫ってくるのだ。言語学者なら、日本語のコノテーションの機能をここに見るかもしれない。コノテーションとはかんたんにいえば意味の「含み」である。「もういっぱいお茶どうですか」は、逆の意味であるデノテーション的にはお茶をすすめているだけだが、コノテーション的にはそうではないわけである。一般論として日本人が非常に空気に左右されやすいのも、この機能が主因と考えられる。たんに意味をくみとるのに長じるばかりでなく、意味があるはずと習慣的にとらえていくことが民族的なものとすれば、恐怖体験が不安を源泉とするのも自然のことのようにおもわれる。
だとするなら、現象から意味をくみとる能力が、ぼくでは衰えているということなのだろうか。ここではふたつの仮説を立てることができる。ひとつには、日本語のコノテーションの機能がいまでは問題となっているのと同じく(現代では「メシ、フロ、ネル」が問題であることは議論の余地がないだろう)、価値観が多様になっていく世界で原則的にはデノテーションよりの描写が好まれがちであるということだ。「ことだ」といっても、そういう確信があるということではなく、そうであっても不思議はないというようなはなしだ。しかしじっさい、「途中までは「不安」がいい感じに作用して怖かったが、けっきょくお化けの正体が示されてがっかりしてしまう」パターンの映画が、仮に「不安」のまま終わってしまったとして、なんの非難もあびないかというと、いまはそういうことはないんじゃないかとは想像できるのだ。
もうひとつは、ぼくじしんが、『リング』の、高山竜司の影響を受けているということだ。高山は恐怖の対象、不安の源泉である「呪いのビデオ」を何回も、しかもスローでくりかえし研究する。「呪いのビデオ」それじたいはまさしく「不安」をあおるもので、それそのものになにか「意味」があるわけではなかった。これを、高山はくりかえし鑑賞する。現在のぼくにはそこに批評の手つきすら加わっている。恐怖演出が優れているような「おもしろい映画」ほど、物語は骨太になり、骨太になるほど、ぼくは鑑賞しながら「意味の解体」に忙しくなる。このことは、おぼろげながら「物語」にかんしては手薄であるはずのテレビ番組の再現VTRにこそ恐怖した(ような気がする)記憶とも平仄があう。要するに、恐怖を求めて映画をたくさんみて、目が肥えるほどに、現象が孕む「意味」のカウント数が増えていくのである。

そもそも、「シャワー中に背後に気配を感じる」というのは、人間の五感の不備を感じている瞬間でもある。眼をとじていればまわりの様子はわからない。仮にあいていても、背後がどうなっているか正確にはわからない。恐怖作品を見たあとにやってくるこの経験は、「すっかり把握できない未知のぶぶんが世界にはある」ということを強く感じるものなのだ。ぼくが「心底震え上がるような恐怖」をこのイメージで把握している以上、「不安」を源泉にした作品ほど理想形に近いものとなるわけである。なにしろそれは、「わからないことがある」ということを描いたものであるはずだからだ。だから、正体をあらわしたペニーワイズは、いわばシャワー中に目のすみにとらえた人影のようなものを振り返って確認し、「なんだ鏡にうつってるじぶんか」となるようなものだったわけである。そういう意味でいえば、恐怖のシチュエーションじたいは、洋の東西を問わないのだろう。たぶん、どこに納得がおとずれるのかとか、そもそも納得が必要なのかとか、「恐怖」に「驚き」を含めるべきかとか、そういう細かな問題がここには横たわっているはずである。なのでこれはけっきょく「ぼくのはなし」ではあるのだが、なんでこんな長い記事になっているのか、よくわからない。さらっと雑談をするつもりがいったい・・・。

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