境界知能という言葉について

「境界知能」という言葉を目にするようになった。
何かの構造的現象を説明するときに用いる言葉としてならまだ理解できるが、「自分より知能が劣る人たち」みたいな文脈で使われているのを見ると、大変残念な気持ちになる。

特にSNSなどでインフルエンスがある人が使うと、言葉がひとり歩きする傾向があると思うので、特に悪気なく使っている人が増えて差別的な思考が広がるのではないかと懸念している。

さて、境界知能という言葉は、この社会がIQとか、偏差値とか、文明社会を営む上で、用意されている指標を前提としている。つまりこの社会に適応することに特化している場合に有利になるに過ぎない能力だ。
わたしたちは、普段生きているときには、前提がすっぽり抜け落ちて生活していることが頻繁に起こるだろう。

前提を忘れると、いま生きている社会をマジガチでしか捉えることができなくなる。そうなると、境界知能は社会に役に立たないから切り捨てようみたいな、めちゃくちゃ短絡的な思考に陥ってしまいがちだ。

社会は人間が作るもので、今のところ知能が優れている人が優位な状況になっているに過ぎないだけだ。遺伝子は、もっと自由で多様性を表現するように働いているはずである。
だから、社会が勝手に決めている「知能指数」なんて、真に受けない方がいいし、差別的に言葉が使われ出したら、それは社会の方が変なんだと、考えた方がいいと思っている。

社会の中で生きるとは、文明つまり文章、言葉を使って生きることに他ならないだろう。だから使われる言葉に、気を配られなくなるとき、悪い方向に進行する。「境界知能」という言葉が、いかに使われるか注意してみていきたい。そして安易にその言葉が影響力を影響力をもつような事は、許してはならないように思っている。

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