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イスラーム世界から見た日露戦争

一 イスラーム世界の日露戦争報道

ペルシャ語紙『ハブロル=マティーン』の報道

 日露戦争を契機にイスラーム世界は、日本の「力」に熱い眼差しを向け、「ミカド」と「トーゴー」に傾倒していった。日露戦争に関するイスラーム世界の報道の方向性は、戦争勃発前にある程度決定づけられていた。イスラーム世界には、同一の課題を背負った者として、日本に対する強い共感が芽生え始めていたからである。
 イスラーム世界は、日本と同様に欧米列強の進出に直面し、国家独立の維持・回復という重い課題を背負っていた。列強との間の不平等条約の改正は、明確な課題の一つであった。同時に、イスラーム世界の知識人は、日本の知識人と同様に、列強の帝国主義とそれを支える西洋近代の価値観自体を乗り越えようと模索していた
 日露戦争当時、カイロでは比較的自由な報道が許されていた。これに対して、ペルシャ語新聞は、イラン立憲革命当時、国内では厳しい検閲を受けていた。そのため、国外で多数のペルシャ語新聞が刊行されていた。カルカッタで発行されていた『ハブロル=マティーン』(強固な絆)紙もその一つで、同紙は日露戦争を詳しく報じていた。日露戦争の戦況を時々刻々報じ、「日本の戦争の歴史」の特集を組んだほどである。
 一方、オスマン帝国でも、新聞報道には制限があった。ボスポラス大学歴史学部教授のサルジュク・エセンベル女史は、「日露戦争中、オスマン帝国の国民は日本の勝利に熱狂したが、アブデュルハミト二世は、親日的な記事を掲載することを認めなかった。ロシアとの政治的問題を避けたかったからだ」と指摘している。前嶋信次によると、オスマン帝国における検閲制度が廃止され、ジャーナリズムが生気を取り戻すのは、一九〇八年七月のことである(『イスラムとヨーロッパ』)。したがって、イスラーム世界の日露戦争認識は、新聞報道以外の書籍類も含めて検討せざるを得ない。
 日露戦争が一九〇四年二月一〇日に勃発し、翌一九〇五年一月に日本軍が旅順要塞を攻略すると、『ハブロル=マティーン』紙(一九〇五年二月二七日)は「戦争の趨勢は決定づけられた。もはやロシアは勇敢な敵に抵抗することができないことかがはっきりしたのだ」と報じた。
 同年三月、日本は奉天を占領する。この間、ロシアはバルチック艦隊、黒海艦隊を極東へ回航させる作戦を検討していたとされる。当時、日本はロシアがバルチック艦隊を極東へ派遣することは予測していたが、黒海艦隊とどこで合流するかが関心事となっていた。黒海に根拠地を置く黒海艦隊が極東を目指すためにはボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡からエーゲ海、地中海を経て大西洋に出る航路しかなかった。
 この動静を把握するのに最も適していた国こそ、トルコであった。そこで、イスタンブルに長く滞在していた山田寅次郎に対して、駐オーストリア特命全権公使牧野伸顕から「黒海艦隊の動向を極秘裏に監視せよ」との秘令が飛んできた。茶道宗偏流家元山田家を嗣いだ山田は、一八九〇年にオスマン帝国最初の親善訪日使節団として日本を訪れた軍艦エルトゥールル号がその帰途、台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、沈没したエルトゥールル号に衝撃を受け、一八九二年に義捐金を携えてイスタンブルに渡った人物である。彼は一九一四年までの間のほとんどの期間をイスタンブルに滞在、貿易と民間交流に努め、日本とトルコの友好親善の礎を築いた。
 一九二五年から一九二九年までイスタンブルの日本大使館で通訳官として勤務した経験を持つ内藤智秀が、直接山田から聞いたところによると、山田はマルマラ海の入口に位置し、ボスポラス海峡を眼下に見下ろせる小高い丘の上に民家を借り受け、望遠鏡で監視し始めた。さらに十数人を雇い、交代で監視させた。一九〇四年七月四日、ついに山田はロシア艦隊の動きをつかむ。三隻の軍艦が、食料や飲料水を補給して出航の準備をしている光景を目撃したのである。山田は、ただちに牧野公使に急報、七月六日牧野は日本へ緊急電を入れた(「山田寅次郎の軌跡」)。結局、黒海艦隊はバルチック艦隊と合流せず、一九〇五年五月にバルチック艦隊は日本海海戦で全滅した。
 『ハブロル=マティーン』は、一九〇五年七月二四日に、「日本の医療技術の高さには驚くばかりである。日本の規則正しく、秩序立ったやり方と、ロシアの混沌としたやり方は、鮮やかな対照をなしている。……日本の優位性は、戦争遂行に対する士気の高さと熱烈な姿勢にある」と書き、日本の優勢の原因を分析した。
 戦争は、同年九月五日に調印されたポーツマス条約によって終結した。この間、同紙(同年八月一四日)は、「ロシアの敗因として、国民と政府の間の不一致」を指摘し、日本の団結を勝因として強調した。さらに、同紙(同年一〇月一七日)は、「国家の繁栄に不可欠なことは、団結である。日本人から不調和といった言葉を聞くことができないほど、彼らは団結している」と日本人の団結力を改めて高く評価した(Russo-Japanese War as Told by Iranians)。
 一方、一九〇六年二月三日には、カイロ発行の『アル・ファーテ』紙が、「……旭日国の恩が如何に広大なりしかを感悟するなる可し、……世界中の自由観念を有する者も亦、奉天及び対馬の戦捷者が、世界の各民族に自由を与ふるが為めに戦ひたること、及び人道全体の為めに尽したることを知るべし」と日本勝利の意義を称えた。ただし、同紙はアジア、アフリカの民衆たちを感化させるには、宗教の力が必要だと指摘し、日本の宗教の感化力に対しては低い評価を下していた(「回教圏に光被する所の旭日」)。

立憲王制の勝利と理解された日本の勝利

 日露戦争終結後まもなく、『ハブロル=マティーン』紙などの報道に基づいて、日露戦争を題材とした著作が発表されるようになる。杉田英明氏が指摘するように、日露戦争を題材とした作品、あるいは戦争に触発されて日本を理想化した作品はイスラーム世界では枚挙に遑がないほど多い。しかも、一九二〇年代に至るまで長期間にわたって作られた。
 一九〇五年には、『ハブロル=マティーン』紙の報道に基づいて、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズィーがペルシャ詩特有の詩型で『ミカド・ナーメ』を刊行した。これは、サーマーン朝・ガズナ朝時代に活躍したペルシャ詩人、フェルドウスィー(九三四~一〇二五年)に倣ったものである。フェルドウスィーは、ペルシャ歴代の王や英雄を詠った叙事詩『シャー・ナーメ(王の書)』の作者として名高い。
 杉田氏によると、シーラーズィーはまず、日露両国の発展の歴史的経過を振り返り、ロシアに関してピョートル大帝の事跡を、日本に関しては明治天皇の即位以来の国造りの努力を叙述する。明治天皇の国造りの努力について次のように詠う。
 「まず知恵と名誉を求め、/国家の改革によって//自分の王国から野蛮性が消え去り、/国民が学問と技術の追求に赴くよう努力した」
 『ミカド・ナーメ』は、日露戦争の推移について、「鴨緑江の戦いにおいては、日本軍は/いかなる難問にもやがては鍵が与えられるとの/希望をもって耐え忍んだ。/全員が神の慈悲を信頼し/決して自らに傲慢にはならなかった」と詠んでいる。
 杉田氏が指摘する通り、イランでは立憲革命の進展という政治的状況を背景にして、特に日本の立憲制度に着目し、日本の勝利をロシアの専制に対する立憲王制の勝利ととらえる傾向が強かった。
 イラン立憲革命は次のような経過で進んだ。ナーセロッ・ディーン・シャーがヨーロッパ諸国に経済的権益を次々と与えるようになり、一八九〇年にはイラン人の嗜好品であったタバコの独占的販売権をイギリスの投機家メイジャー・タルボットに付与した。この利権供与は、イランのバーザール商人だけではなく、タバコ生産者にとっても死活的問題だった。利権供与の問題が報道されると、反ガージャール朝の機運が高揚、イスラーム教シーア派のウラマーたちが抗議活動を開始した。ウラマーたちはタバコ・ボイコットを呼び掛け、ボイコット運動はテヘラン、タブリーズをはじめ、主要都市に拡大していった。ついに王朝は、イギリスに与えた利権を取り消さざるを得なくなった。やがて、一九〇五年末のテヘランでの砂糖価格高騰を契機に国民が政治的要求を掲げて立ち上がり、一九〇六年八月には立憲勅書を獲得するに至った。同年一〇月には第一議会が招集されて憲法制定の作業が開始され、同年末に憲法が発布された。まさに、日露戦争における日本の勝利は、イランにおける立憲革命の進展の時期に起こった。だからこそ、日本の勝利は立憲王政の勝利として理解され、イランの立憲革命を促進する要因としてはたらいたのである。
 『ミカド・ナーメ』の末尾にも、次のように詠われている。

   憲法が王権の礎となるとき、
    それは王権の資源をますます豊かにしてくれる。
   立憲制によってこそ日本は偉大になった。
    その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ(杉田『日本人の中東発見』、以下『発見』と表記)。

 明治天皇崩御の後、『ハブロル=マティーン』(一九一二年八月一五日付)は次のように書いている。
 「日本先帝陛下は露国を撃破したるの後、アジア全般に立憲思想を普及せられたるが、日本の立憲政体に倣いたる最初の帝国は波斯にして、土耳吉之に次ぎ清国は最後に日本の顰に倣いたり。抑も波斯、土耳古、及び清国の三帝国は終始露国の圧迫威嚇の下にありて、此等三帝国は過去に於いても今日に於いても依然専制君主国たる露国を慮り、各自其国内に憲法を布くことは不可能なりき」

精神力の勝利を強調したオスマン帝国の観戦武官

 日露戦争に関するイスラーム世界の認識としては、ジャーナリズムの報道以外に、各国から派遣された観戦武官による記録が重要な情報源である。オスマン帝国は、参謀大佐のペルテヴ・パシャを観戦武官として満州に派遣していた。彼は、旅順、奉天の戦場を目のあたりにし、戦記『日露戦争』(一九〇五・六年)や講演録『日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因』(一九一三年)を刊行している。後者の中で、日本戦勝の原因について次のように書いている。
 「要するに日本が戦に勝った所以を考えると、トルコのスルタン、セリム一世も言ったような、精神の力である。すなわち、戦勝の十秘訣は一は金であるが、他の九は精神力である。その九精神力とは勇敢、軽死、憂国、信頼、忍耐、威儀、遠大なる計画、果断、活発以上である。米国士官は米西戦争において突撃の直前愛人に口吻する事を欲した。日露戦争の際旅順の閉塞隊七七名を募集せるに二千名の志願者があった。これが戦勝の理由を証明するものではあるまいか」
 また、彼は、国民の運命は自己の実力によって決定される事を力説し、日本軍人の武士道的な犠牲的精神を讃嘆した(内藤「トルコ人の眼に映じたる日露戦争」)。
 山田寅次郎の回想によると、日露戦争が勃発すると、トルコ国民の日本に対する情誼は、「実に誠欵敦厚を極め」、トルコ国民は日本の赤十字社、新聞社等への寄付を開始、戦役負傷者を慰問するトルコ人も続出した。オスマン帝国の新聞は、日本の武勇義侠が他国に卓絶していると嘆賞した。しかも、トルコ人たちは日本人が同じアジア人だとして、なおさら敬慕の念を深め、上は帝室から下は一般国民に至るまで、山田を特別に歓待したという『土耳古画観』。
 一九〇六年には、トルコの親日軍人スユナーイ少佐とファート大尉が「日露戦争」五巻の大著を公刊し、日本の勝利を絶賛している。ムスリムの熱狂については、様々な記録がある。伊東忠太は『土耳其・埃及旅行茶話』において、「元来土露の間は宿怨深く骨に銘じてゐるので、土耳古人は今回の戦争に就いては実に熱誠を以て日本の戦勝を祈つてゐる」と書いている。
 孫文による回想もある。日露戦争当時、彼が帰国の途につくためスエズ運河を通過しようとしたときである。乗船してきたアラビア人たちは、孫文に「あなたは日本人か」と訊いてきた。彼が「そうではない。私は中国人だ」と答え、どのような状況なのかと尋ねると、アラビア人たちは、次のように語ったという。
 「我々は今非常に悦ばしいことを知った、この二、三カ月の中に、極最近の中に東の方から負傷したロシアの軍隊が船に乗って、このスエズの運河を通過してヨーロッパに運送されるということを聞いた。これは即ち亜細亜の東方に在る国がヨーロッパの国家と戦って勝ったということの証明である。我々は、この亜細亜の西における我々は、亜細亜の東方の国家がヨーロッパの国家に勝ったという事実を知って、我々は恰も自分の国が戦争に勝ったということと同じように悦ばしく思っている」
 これは、一九二四年一二月に孫文が神戸で演説した際に語ったことである。

イブラヒムが感動した東郷元帥の質素倹約

 トルコでは、日本勝利の直後、東郷平八郎にちなんで子供にトーゴーと名づける親がかなりいた。トルコの国粋主義者で女権拡張論者であるハリデ・エディプも、息子に「トーゴー」という名前をつけた(「日露戦争と日土関係」)。
 一九〇九年に日本に滞在していたトルコ系のタタール人、アブデュルレシト・イブラヒムも、一九〇九年四月一八日の講演で次のように語っている。
 「日本の勝利を知ったときのムスリムの喜びようは驚嘆すべきものでありました。多くのトルコ人が日露戦争後に生まれた子供たちに、東郷、大山、山県など日本の英雄たちの名前をつけたものです」
 イブラヒムは、著書の中でも大山とともに東郷に言及し、あるエピソードを紹介している。ある日、アメリカ人旅行者六〇人が東郷を訪問した。彼らが自己紹介すると、東郷はこの旅行者たちを喜んで応接すると語った。しかし、自分の官舎には六人以上の客は入りきれないので、会見のために玄関先に出ると伝えた。すると旅行者たちは「私たちは提督閣下にその自宅でお会いしたいのです。お許し下さるなら、私たちは六人ずつに分かれて訪問したいと思います」と言った。こうして、旅行者たちは六人ずつ、面会時間は一グループ五分という条件で訪問することになったという。この出来事を知った海軍将校たちは、痛惜にたえず、仲間内に呼びかけ、東郷閣下の名声にふさわしい家屋を購入しようと資金を集めた。そして代表二名がこれをもって提督を訪ねた。すると、東郷は「私はずっとこの家で暮らしてきた。五〇年の生涯ではじめてあのような会見をして恥をかくことになったわけだが、この先また五〇年生きることはまずあるまい。そうだとすれば、再びあのような恥をかくこともおそらくないだろう。とはいえ、諸君の尽力は感謝にたえない。諸君の苦労をむだにはすまい。わが海軍の学校はどこも予算に窮している。このお金を学校に寄付してもらえればありがたいのだが」と語ったという。イブラヒムは、「この将校にしてこの提督あり。これこそまさに日本人の美徳なのだ」と書いている。

「青年トルコ人」を覚醒させた日露戦争

 日露戦争における日本の勝利は、トルコにおける「青年トルコ人」運動にも影響を与えた。
 一八八〇年代末には、アブデュルハミト二世の専制政治を打倒しようという「青年トルコ人」運動が開始されていた。一八八九年には、イスタンブルの軍医学校の学生イブラヒム・テモらによって、後に「統一と進歩委員会」と呼ばれるようになる秘密結社が創立されている。彼らは、一八九〇年代に入ると、イスタンブルの陸軍士官学校、海軍兵学校などに、その組織のメンバーを拡大していった。しかし、アブデュルハミト二世は運動に対する弾圧を続け、メンバーは次々に逮捕、監禁された。一八九〇年代初頭には路線対立によって運動は停滞していた。
 ところが、一九〇五年にイランのガージャール朝で立憲革命が起こって専制体制が終焉、さらに憲政を導入した日本が日露戦争で勝利したことに刺激を受け、憲政復活の運動は勢いを取り戻した。そして、一九〇八年七月、「統一と進歩委員会」のサロニカ本部に属する軍人たちが、サロニカなどのバルカン半島諸都市で武装蜂起し、アブデュルハミト二世による専制政治を終焉させたのである。
 パン・イスラーム主義者のムハメッド・アキフ、青年トルコ党のアブドラー・ジェブデトなど、オスマン・トルコ世界のトルコ人知識人たちが、日本はイスラーム世界の近代化、民族意識、改革主義のモデルだと論じた。青年トルコ党員アブドラー・ジェブデト、アハメド・リザやエジプトの国粋主義者を含む多くのイスラーム系知識人たちは、日本の勝利が「立憲主義が帝政の独裁政治に勝利したこと」にほかならないと考えた(「日露戦争と日土関係」)。

天皇に忠誠を尽くす国民の愛国心

 一方、エジプトの民族主義者ムスタファー・カーミルは、日露開戦直後の一九〇四年六月にカイロで『昇る太陽』を刊行した。杉田氏は、「カーミルが本書で目的としたのは、エジプトを近代国家へと変革し、イギリスからの独立を達成するために、日本をモデルとして選び出し、その発展の秘密を分析することであった」と書いている(『発見』)。カーミルが同書を書くに至った理由には、次のように日本の強さの源泉に迫りたいという強い願望であった。
 「墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗を信じていた国(中国)を打ち破り、人々の心を呆然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えることとなったこの民族とは一体何者なのか。彼らはいかにしてわずかの年月にこのような高みに達し、ある部分では西洋と肩を並べ、ある部分では西洋を追い越すまでになったのか。また夜を徹してこの民族のために力を尽くし、刻苦精励してその地位を高め、『わが国は、他国がいまだかつて獲得したことのないものを最も短期間に獲得せねばならぬ』と言ってのけた、かの偉大な人物(天皇)とは何者なのか。いかにして歳月は彼の呼び声に応え、時代は彼の意志に従い、世界はかくも高揚した力を、つまり七つの海とあまたの国々とを震憾させずにはおかぬ一大勢力、全世界を照らし出す昇る太陽を、目のあたりにすることになったのか。今や誰もが驚きと讃嘆の念をもって、この民族についての問いかけを口にしているのである。
 私は人々がこの若い国を知ろうとしてさまざまの質問を発するのを耳にし、それらの問いに対する解答を提供してみたいと考えた」
 カーミルは、近代日本の発展の秘密として、強大な天皇と天皇に忠誠をつくす全国民の愛国心を挙げたのである(『発見』)。強大な権力のもとに民族主義的精神が結集されれば、西洋の立憲国家が何年かかっても達成できなかった目標さえ、一日にしてなし遂げることができるとも指摘した。
 杉田氏は「エジプトをはじめとするアラブの人々の日本賛美は、かくてここに定められたと言ってよい」と書いている。エジプトの社会主義者サラーマ・ムーサーは、自伝の中で次のように書いている。
 「ロシアと日本とのあいだに戦争が起こったのは、ちょうどその頃であった。世論は日本に好意的であったが、それは日本を自分たちと同じ東洋の国だと考えたからであった。我々は、ロシアの敗北のニュースを読むたびに快哉を叫んだ。一般的イメージとして、ロシアは英国の属するヨーロッパを代表していたのに対し、日本は東洋の覚醒を象徴した。事実、ムスタファー・カーミルは『昇る太陽』と題する書物を著わしさえしたのである」(『発見』)

詠まれ続けた「日本の乙女」

 カーミルとも親交のあった詩人ハーフィズ・イブラーヒームは、日露開戦直後の一九〇四年四月に「日本の乙女」という詩を発表した。日本の従軍看護士を主人公とした四〇対句からなる詩である。

 砲火飛び散る戦いの最中にて傷つきし兵士たちを看護せんとうら若き日本の乙女、立ち働けり、 牝鹿にも似て美しき汝れ、危うきかな!いくさの庭に死の影満てるを、われは、日本の乙女、銃もて戦う能わずも、身を挺して傷病兵に尽すはわがつとめ、 ミカドは祖国の勝利のため死をさえ教えたまわりき。ミカドによりて祖国は大国となり、西の国ぐにも目をみはりたり。わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽すなり(日本・アラブ通信訳)。
 イブラヒムは、看護士に次のように語らせている。

 帝国の揺藍時代には天皇も幼く、
  王冠もいまだ小さかったにも拘らず、
 いまや帝国は栄誉の天空となり、
  王冠はそこに輝く星となったのです。
 天皇が祖国を死の眠りから甦らせて、
  栄誉のために全力を尽くせと号令をかけられるや、
 祖国は栄光の高みを望んでその頂点に達し、
  ついにそのすべての目的を達成したのです。

 この詩は、我々が想像する以上に大きな感銘をアラブ諸国に与えていた。シリア特命全権大使を務めた小高正直が、第二次大戦前エジプトに留学した際に接した教員たちは、小高に、この詩を繰り返し繰り返し誦してくれたという。第二次大戦後再びエジプトに赴いたときにも、知己となった学者、軍人たちはこの詩を朗誦した(『アラブと歩いて三〇年』)
 この詩は、今日でもレバノンや中東アラブ諸国の教科書に掲載されている。杉田氏が指摘する通り、アラブ諸国では、日本と日本人を東洋の覚醒と解放の象徴として理想化しようとする作品は枚挙に遑がないほど数多く作られた。例えば、イラクの詩人マァルーフ・アッ=ルサーフィーの『対馬沖海戦』や、レバノンの詩人アミール・ナースィル=ディーンの「日本人とその恋人」など、一九二〇年代に至るまで長期間にわたって作られた。

天皇のイスラーム改宗の噂

 日本人として二度メッカ巡礼を敢行した田中逸平は、二度目の巡礼の際の一九三四年二月、テヘランでガエム・マヘガミという老人に出会った。彼の祖父は総理大臣を務めた家柄で、自ら日露戦争史を編纂していた。彼は、客間の壁に明治天皇の写真を祭壇のように掲げていた(田中逸平『白雲遊記』)。
 田中は天皇がイランにおいてまで世界の救世主として尊敬されていると感激し、日本人として世界人類を救い、福祉の増進のために行動する責任の大きさを痛感した(『回教世界と日本』)。この老人のことは、一九三九年六月の『回教世界』でも、次のように取り上げられている。
 「応接間の壁には明治天皇、今上陛下の御尊影を始め奉り東郷元帥、乃木大将の写真、日露戦争絵巻、日の丸の旗、東京の絵葉書などを一杯に飾りつけ、飾棚には扇子、陶器の手函、人形、写真帳、煙草入れ等々よくもこれだけ集めたものだ。/彼は日露戦争後急に日本が好きになつて七十三歳の今日迄一貫して日本贔屓で押通した」
 イスラーム世界では、天皇をカリフとして戴くという願望が強まったほどである。アブドゥッラー・ジェウデトは、一九〇五年にオスマン帝国の『イジュティハート』誌に、「ロシアと日本」と題する論文を掲載、「日本がもしイスラーム国家となれば、天皇がカリフとなるのが適当である。そうなればイスラーム諸国の団結はますます強固になるであろう」と書いた(「トルコ人の眼に映じたる日露戦争」)。
 日露戦争の観戦武官ペルテヴ・パシャが「天皇の図書室に入ったとき、クーファ書体で書かれた『コーラン』を見たこと、そして天皇が彼に『読んでみせましょう』とさえ言われ、ご自身でペルテヴ氏に読み聞かせた」なども事実として信じられていた(『発見』)。一九〇六年八月に、日本で天皇が宗教会議を主催し、各宗教・宗派の代表を集めて討論させた上で、日本に最も相応しい国教を選択・決定する予定である─しかもイスラームが最有力候補である、という噂が、ヨーロッパや中東の新聞に流された(『ジャポンヤ』)。これらは全てデマだったわけだが、これらを信じて来日したムスリムもいたのである。

東南アジアのムスリムの覚醒

 日露戦争における日本の勝利は、東南アジアのムスリムにも強い影響を与えた。谷川栄彦氏は、「日露戦争における日本の勝利は、それまで多くのインドネシア人のあいだで信じられていた白人優位の神話を打ちやぶり、彼らに自信をうえつけた」と書いている(谷川『東南アジア民族解放運動史』)。
 日露戦争における日本の勝利、インドにおける民族運動の台頭、トルコにおける反西欧運動の高まりなどに触発され、インドネシアではオランダの支配を批判し、民族的奮起を促す新聞・雑誌などが現地語で相次いで刊行されるようになったのである。そして、一九〇八年には、最初の民族主義組織としてブティ・ウトモが結成された。
 以上の報道や記録に示されるように、イスラーム世界は日露戦争における日本勝利に歓喜し、日本が発展し、強大になった理由について分析した。そして、日本軍人の士気の高さと熱烈な姿勢、日本人の精神力を称賛するとともに、日本人の団結力、愛国心、忠誠心に注目した。イスラーム世界は、天皇に仕え奉る国体を日本の強さと発展の源泉としてとらえていた。一方で、主にイランでは日本の勝利は立憲王制の勝利としてとらえられ、自国の改革のモデルとして注目した。
 同時に、イスラーム世界は、他のアジア諸国同様、日露戦争の意義を欧米支配の国際秩序を打破する一大契機としてとらえ、イスラーム世界と日本の連帯、アジアの団結の意義に覚醒した。それは、元来、欧米を模倣して近代化を急ぐのではなく、イスラームの教え、アジアの伝統宗教・文化に基づいた、より普遍的な文明を目指したものであった。

二、アジア連帯を促進した日露戦争報道


ムスリムのアジア連帯思想

 満州事変以後、日本政府・軍はムスリムとの協力関係を満州国の統治や戦争遂行に利用するという政策的な発想を強め、支那事変以後には一層軍事的側面を重視するようになったとされる。その過程で、満鉄東亜経済調査局などがイスラーム研究を重視する一方、一九三八年には回教圏攷究所(一九四〇年に回教圏研究所と改称)、大日本回教協会などが設立された。
 戦後史観においては、ムスリムとの交流はこうした軍事的目的の観点から否定的に描かれてきた。しかし、もともとアジア連帯は欧米列強の支配への抵抗運動であり、同時に相互理解に基づく宗教・伝統思想の復興運動であった。
 日露戦争における日本の勝利についての熱狂的な報道は、アジアの連帯を加速させた。日露戦争後、日本を目指すアジア諸国からの留学生や亡命者たちが急増、一九〇七年七月には、日本の反帝国主義者と章炳麟、張継らの中国の革命家、インド、ベトナム、フィリピン等の革命家によって亜州和親会が設立されている。
 そして、一九〇九年六月七日には、ムスリムと玄洋社、黒龍会、東亜同文会などに連なる興亜陣営による興亜組織として「亜細亜義会」が結成された。一九二〇年代には、タタール人のクルバンガリーが興亜陣営との協力を推進した。一九三〇年代を待たずに、こうした日本の興亜陣営とムスリムの交流は活発になっていたのである。
 亜細亜義会に結実するムスリムと興亜陣営の交流は、第一節で述べたトルコ系のタタール人、アブデュルレシト・イブラヒムの来日によって促された。イブラヒムは、一八五七年にロシア支配下にあったトボルスクという町の近郊タラで生まれた。わずか七歳で地元の神学校に入学、二二歳までヴォルガ・ウラル地方のいくつかの神学校を転々としながら、アラビア語とイスラーム諸学を勉強した。一八七八年にはアラビア半島のメディナに留学し、一八八四年まで滞在した。一八九三年にはイスタンブルに滞在し、アフガーニーとアブデュルハミト二世のパン・イスラーム主義に出会った。彼は、アフガーニーの大同団結の精神とオスマン帝国スルタンのカリフとしてのシンボル性を結びつけながら、イスラーム世界の生き残りと自立を模索した(『イスラーム巡礼』)。
 ロシアでは、日露戦争と一九〇五年の第一次革命によって帝政が動揺、ムスリムの民族運動が高揚していた。ペテルブルク、カザン、バクー、タシュケントなどでは、ムスリムの新聞、雑誌が相次いで創刊された。ムスリムの改革派知識人たちは、ムスリムの連帯と権利の拡大を目的とした初めての政党「ムスリム連合」が組織された。これらのムスリムの運動の指導的立場にあったのがイブラヒムである(『ジャポンヤ』)。
 しかし、一九〇七年に帝政の反動が始まると、ムスリムの民族運動も退潮を余儀なくされ、ロシア国内での政治活動を断念した活動家たちは、イスタンブルへ逃れた。イブラヒムは、一九〇八年九月にヴォルガ川中流域の都市カザンを出発、シベリア鉄道で東に向かい、シベリア、モンゴルを経て、同年末に満州西北部の満州里に着いた。ここから、東清鉄道を乗り継ぎ、一九〇九年一月にウラジオストックに到着した。ここで、イブラヒムは黒龍会の関係者と接触したとされている(『近代日本とトルコ世界』)。
 一九〇九年二月一〇日、イブラヒムは敦賀港を経て東京に到着した。彼の日本での体験は、旅行記『イスラーム世界』に詳しく書かれている。同書の日本関係部分の翻訳は、小松香織、小松久男両氏によって一九九一年に『ジャポンヤ』として刊行されている。
 イブラヒムは、まず徳富蘇峰のもとを訪れ、次いで大隈重信、さらに伊藤博文、旧肥前平戸城主松浦氏の後裔・松浦厚伯爵、大倉組創設者の大倉喜八郎、宮内大臣を務めた土方久元、法制局参事官を務めた林田亀太郎などと対面した。また、成女学校校長の宮田修、漢学者の三島中洲、国際法学者の有賀長雄、中国学者の服部宇之吉、アジア統一を主張していたモンゴル学者の佐々木安五郎などとも会っている。
 イブラヒムにとっては日本の有力者との交流以上に玄洋社、黒龍会などの興亜陣営との関係強化が重要だったのではなかろうか。それは、彼が西洋の模倣ではなく、日本、アジアの伝統思想の復興に関心を持っていたからである。

アフマド・ファドリーとバラカトゥッラー

 イブラヒムと並ぶ、興亜陣営とムスリムの連帯の立役者の一人が、エジプト人将校のアフマド・ファドリーである。彼は、一九〇四年に来日し、日本人女性と結婚した。ファドリーはいったん妻と姑とをエジプトに連れて行き、ムスリムに改宗させ、アラビア語を身につけさせて、日本に戻った(『ジャポンヤ』)。ファドリーは、言論活動を通じて目覚しい活躍をした。彼は桜井忠温の日露戦争従軍記『肉弾』(一九〇六年)をアラビア語に翻訳し、『日本精神』として出版している(「アフマド・ファドリー伝」)。
 ファドリーは、一九〇九年三月二二日には、早稲田大学の高等部に属する二〇〇〇人の学生を前に、イスラームの美徳について英語で演説している。この講演は三時間にも及んだが、終わった後、拍手が鳴り止まなかったという。学生たちは、ファドリーの講演に大変満足したのである(『ジャポンヤ』)。一九一〇年四月には、ムスリムの連帯を目指して発刊して、英語月刊誌『イスラーム同胞愛』(Islamic Fraternity)を刊行している。
 『イスラーム同胞愛』を反英宣伝紙として発展させたのが、インドのボパール出身のムスリム、バラカトゥッラーである。やがて、同誌は日本、トルコ、アフガニスタン、東トルキスタン、インドなどで販売されるようになった。
 バラカトゥッラーは、筋金入りの革命家で、インド独立を目指すガダル党のメンバーだった。ガダル党とは、アメリカ西海岸に留学したインド人や亡命インド人が中心になって二〇世紀の初頭に結成した、インド独立運動を支持する団体で、本部はサンフランシスコに置かれていた。
 バラカトゥッラーは、一九一一年にいったん日本を離れ、カイロ、コンスタンティノープル、ペテルスブルグを訪れ、反英の立場を一層強めて、日本に戻り(Enily C. Brown,Har Dayal)、東京外国語学校のウルドゥー語科の講師として教鞭をとっていた。この時期、彼は大川周明とも接触していたと推測される。大川が参加していた道会の機関誌『道』の一九一三年一一月号にはバラカトゥッラーの「予が祖国」が掲載されているからである(大塚『大川周明』)。
 イギリス政府は日本に圧力をかけて、反英的主張を展開する『イスラーム同胞愛』の発行を停止させた。その後もバラカトゥッラーは、ウルドゥー語のパンフレットなどで反英宣伝活動を展開したが、イギリスの圧力で東京外国語学校を免職になり、日本を離れざるをえなかった。

興亜陣営とムスリムの連帯組織「亜細亜義会」

 『ジャポンヤ』には、大原武慶と中野常太郎(天心)がイブラヒムに、頭山満、河野廣中、犬養毅の三人を紹介する場面が描かれている。この場こそ、「亜細亜義会」設立に直結する会合であった。
 小松久男氏が、イブラヒムとの関係上、最重要人物としている大原(『イスラーム巡礼』)は、慶応元年(一八六五)年六月に備後福山に生まれた。一八八六年には陸軍歩兵少尉に任ぜられている。北海道勤務時代に、払い下げ問題に関する当局の不正に憤慨し、自決を試みたが人に救われて目的を遂げられなかったという。この事件で一旦求職となり、三浦梧楼の門に出入りするようになった。日清戦争の頃、軍職に復帰、日露戦争には少佐として出征した。戦後は満州の安東、昌図に設けられた軍政署の長官を務め、帰国後は東亜同文会に転じた。
 一方、黒龍会の活動家、中野常太郎(「日露戦争と日土関係」)は、慶応二(一八六六)年一〇月二三日、加賀金沢で生まれた。少壮のときから、東亜経綸に志し、興亜論の先駆者・荒尾精、根津一の門に出入りした。
 頭山らとの面会について、イブラヒムは「すばらしい会合であった」と振り返り、大原が「われら五名は先生のお考えに賛同し、日本におけるイスラーム弘布のために、物心の両面にわたって力の及ぶかぎり努力することを誓います」と述べたと書いている。そして、イブラヒムは「ひとつ我々で結社を作り、兄弟の契りを結んではどうでしょうか」と呼びかけている。亜細亜義会は、この会合を受けて設立されたと考えられる。一九〇九年六月七日に結成された亜細亜義会の発起人七名のうち、五名が会合に参加していた犬養毅、頭山満、大原武慶、河野廣中、中野常太郎だからである。
 他二名は、山田喜之助と青柳勝敏である。安政六(一八五九)年六月に大坂で生まれた山田は東京帝国大学で法律を修め、司法省書記官、大審院検事などを務めた。官職を去ってからは弁護士、衆議院議員として活躍、日露戦争講和では強硬論を主導した。一方、一八七九年五月一〇日、秋田県で生まれた青柳は、陸軍士官学校を卒業、一九〇一年に陸軍少尉に任ぜられた。日露戦争には、騎兵第一八連隊に属して出征し、その功績により勲五等旭日章を授与された。戦後引き続き満州守備の任にあたり、一九〇九年には騎兵第八連隊中隊長に就いた。その頃から興亜論を唱え、亜細亜義会に関与することとなった。イブラヒムは次のように振り返る。
 「日本にイスラームを弘布するための結社を東京に設立することになった。しかしいきなりイスラームの弘布という看板を掲げたのでは、さまざまな攻撃にさらされるかもしれない。そこで、少なくともしばらくの間は趣旨を曖昧にしておいたほうがよかろうと判断し、また悪魔を恐がる[ヨーロッパの]人間にはより大きく見えるチューチュラ[ロシア語で案山子]のほうが不気味に感じられるであろうということから、結社の名称は「アジア防衛体」を意味する『亜細亜義会』と決まった」
 このイブラヒムの発言を裏付けるように、亜細亜義会の設立主意には「イスラーム弘布」云々の文字は見当たらない。主意は次のように謳っている。
 「我亜細亜は天地秀霊の気の鍾る所、其地位たる坤与の中枢に当り、疆域の大、山河の雄、人ロの衆、物産の富、蓋し他州の能く及ぶ所にあらず。是を以て上世文明の隆昌、大聖人の崛起、皆其端を我に発せざるはなし。然り而して近世に到り、亜人恬煕愉安或は嫉妬排擠、同種相疑ひ相屠り、西力の東漸に一任す、今に及んで之を救はずんば、亜洲の前途実に憂惧に堪へざるものあらん。我亜細亜は我人に共通せる良風美俗精神性格の存するあり、而して亜州の改善向上は亜人自から大に奮励せざるべからず。余輩感慨の余り自から揣らす。茲に亜細亜義会を設立し、広く全亜州同志同感の士の協力戦力を請はんとす」(原文に、句読点を補った)
 「大聖人の崛起、皆其端を我に発せざるはなし」の表現は、岡倉天心が一九〇三年にロンドンで刊行した『東洋の理想』の冒頭にある「この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遣伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ」を想起させる。

機関誌『大東』の題字が示すネットワーク

 亜細亜義会発起人たちとムスリムとの間には、誓約書も交わされていた。それは、後に満州でも発見されている。
 満州国建国後、東京朝日新聞は「安東県の鎮江山と呼ぶ寺院で、蒙古語か何か判らぬ不思議な文字の書かれたものに頭山満、河野廣中其他名士の連署した一札が蔵されてゐるのが発見された」と報じた。黒龍会がその写真を取り寄せて調べたところ、前文はアラビア語で「人類よ一致せよ」という意味の語を掲げ、続いて中野常太郎の筆跡で「我らに一点の異心あるに於いては天地神明の御罰を受くべきものなり」と書かれていた。まさにこれが、亜細亜義会の誓約書だったのである。
 亜細亜義会は、中野常太郎を発行人・編集人として機関誌『大東』を刊行した。表紙の日本語題字「大東」を囲むように、ペルシャ語、ヒンズー語、アラビヤ語、アルメニア語、サンスクリット語、チベット語、モンゴル語、タイ語で「大東」と表記されており、そのネットワークの広範さを如実に示している。
 設立当初、亜細亜義会評議員には、板倉勝貞子爵、細川利文子爵、梅小路定行子爵、秋元興朝子爵、佐竹義理子爵、小川平吉、金子弥平、野田卯太郎らが名を連ね、その後、政教社の三宅雪嶺や福本日南、読売新聞社主筆を経て、東亜同文会の前身の一つ、東亜会を組織した中井喜太郎らも加わった。中井は、元治元(一八六四)年八月山口県に生まれ、鹽谷老田の塾で漢学を修め、陽明学を学び、読売新聞社の記者として活躍した。当時から興亜運動に参画、亜細亜義会に参加した中野天門(二郎)とともに日韓合邦運動に挺身し、その後東南アジアを舞台に活動した。
 中野天門は、元治元(一八六四)年会津若松で生まれた。一八八四年には、杉田定一が上海に設立した東洋学館に赴き、まもなく清国改造のために福州で挙兵しようとしていた小沢豁郎に合流、その後荒尾精の活動を支援した。日清戦争後の三国干渉に直面して中野は、対露策の研究に打ち込み、札幌でロシア語講習会を開くなど、活発な活動を展開した。中野は日露戦争が勃発すると安東県に入り、運輸事業に従事するとともに、間島方面の経営に取り組んだ。
 このように、興亜運動に挺身していた志士たちが何人も亜細亜義会に参加していたのは、決して偶然ではない。彼らはイスラームとの連帯の重要性を最も深く認識していたからである。
 亜細亜義会が、内田良平らが主導していた日韓合邦運動とも連動していたことは、李容九らとともに一進会を設立し、内田良平らと日韓合邦運動を展開した宋秉畯が、亜細亜義会評議員に名を連ねていたことにも示されている。

ムスリムとなった興亜の志士たち

 亜細亜義会参加者には、ムスリムとなった者もいる。大原武慶はムスリムとなり、イブラヒムから、初代カリフと同一名の「アブー・バクル」というムスリム名を与えられた。彼は、日本人のイスラーム理解促進のために活発に動き、一九一〇年九月にはイスタンブルのシェイヒュル・イスラームとメッカのウラマーに書簡を送り、日本へのウラマーの派遣や資金援助などを要請した。彼のイスラーム理解の成果は、『大東』に載った論文にも示されている。近年、三沢伸生氏の研究によって明らかにされた通り、大原はアブー・バクル名で一九一一年から『清国に於ける回教』 を連載すると同時に、実名で同じく「世界に於ける回々教」 を連載していた。
 また、イブラヒムの同志となった本城安太郎もムスリムとなった。玄洋社、黒龍会に属していた本城は、年少の頃から自由民権を標榜する矯志社を旗揚げし、玄洋社の源流の一つを築いた越智彦四郎に師事していた。越智は、武部小四郎とともに西南戦争に呼応して福岡城下で蜂起、政府軍によって捕まり処刑された。本城も下獄、これを機に学究に打ち込むようになった。出獄後、陸羯南の新聞『日本』記者となり、高島炭鉱事件などを追及した。日清戦争では陸軍通訳官として従軍、日露戦争では山東省竜口の築港工事のために努力した。
 イブラヒムは本城に対して、イスラームの「六信」(アラー、天使、啓典、預言者ムハンマド、来世、天命)・「五行」(信仰告白、一日五回のメッカ礼拝、ラマダーン月の断食、喜捨、メッカ巡礼)を解説して、多くの助言を与えた。改宗後、本城はイスラームの学問を学ぶためにイスタンブルに赴いたという。
 また、アフマド・ファドリーとバラカトゥッラーが発行していた『イスラーム同胞愛』の日本語版である『イスラーム』の編集を続けた波多野烏峰も、一九一一年一二月にムスリムとなった。彼の妻と男爵であった義父も入信したという(James Campbell Ker,Political Trouble in India)。
 一方、亜細亜義会では、やがて東京にモスクとイスラーム学校を建設するという構想が協議されるようになった。中野常太郎は、日本で一刻も早くイスラームを普及させることこそが東洋統一の唯一の手段だと主張し、モスク建設を急ぐべきだと説いていた。ちなみに、東京にモスクが開設されるのは、およそ三〇年後の一九三八年のことである。
 イブラヒムの視野は、決して中央アジアや中東のムスリムに留まってはいなかった。彼は、東南アジアやインドのムスリムにも、欧米植民地支配から脱するための日本の役割を伝えていたのである。イブラヒムは、一九〇九年に黒龍会の協力でイスタンブルに戻り、『Java Letters』と題する論説集で、インドネシア人ムスリムの友人に、一〇年後に日本がムスリムをオランダの首かせから解放しに来ると断言した。すでに彼は、イスタンブルに戻る前に、東洋統一の展望に関する日本軍将校たちとの討議において、イスラームを利用して中国、ジャワ、インドのムスリムたちの協力を得ることを中心とする、四一項目からなる世界中のムスリムの連携計画を提案していた(「日露戦争と日土関係」)
 こうしたイブラヒムの提案に呼応したのが、亜細亜義会評議員の中井喜太郎であった。『東亜先覚志士記伝』によると、中井は、トルコに対する英仏の勢力が拡大しトルコのムスリムがキリスト教徒になれば、世界中のムスリムが動揺すると考え、先手を打ってインドと東南アジアのムスリムの防衛を模索した。その結果、奇想天外にも、東南アジア等のムスリムを真宗に帰依させることによって、キリスト教浸透の防波堤にしようと考えたのである。そこで彼は、当時香港に滞在していた大谷光瑞に南本願寺を東南アジアに建てて、同地域のムスリムを改宗させてはどうかと勧めた。

メッカ巡礼第一号・山岡光太郎

 亜細亜義会に連なるネットワークは、日本人のメッカ巡礼へと発展した。大原武慶と緊密な関係にあったと推測される山岡光太郎が、イブラヒムの支援のもと、一九〇九年一〇月に巡礼の旅に出発したのである。
 一八八〇年に広島県福山で生まれた山岡は、東京外国語学校でロシア語を学び、日露戦争では通訳官として従軍した。一九〇六年には、昌図軍政署長官を務めていた大原とともに、同地で郷里の学生二五名を教育したという。
 まず、一九〇九年六月一五日、イブラヒムが先行して東京を発った。一方、山岡は一〇月二日に東京を出発、一一月一日にボンベイに到着、ここでイブラヒムと落ち合った。そして、一二月一一日山岡はイブラヒムとともにメッカに到着、巡礼を果たした。
 両者の巡礼の旅は、興亜思想とパン・イスラーム思想を中東世界に宣伝する場ともなった。山岡は、メッカ、メディナで興亜思想の宣伝演説をロシア語で行っている。そして、二人はイスタンブルに赴いた。イスタンブルでは、日露戦争によって高揚した日本への期待感は覚めていなかった。こうした日本への期待と巡礼を果たした山岡に対する称賛の念が重なり、熱烈な歓迎を受けた。朝食以外、ホテルで食事をとれないほどの歓迎ぶりだったという。後に、山岡は『アラビア縦断記』(一九一二年)で次のように書いている。
 「人種的偏見の犠牲に供せられ、悲憤天日を見ざる可憐なる西方亜細亜の民族は、我が民族の勃興を見て恰も自家の再興を慶祝するが如く、歓天喜地平の舞ひ足の踏むところを知らざるをや、彼等常に大声疾呼して曰く、黄白人種焉ぞ差あらんや、亜州起つの日遠きに非らず、努力せよ我徒、奮起せよ我民、亜州の文化を喰ひて起てる白人種、我れ今尓が文明を啖ひで再び起たんと、其意気今や漸く旺ならんとし、彼等の我が皇国を信頼するの念顕著なるものあるに徴するも、その真意忖度するに難しとせんや、憂国の士、須らく顧して可なり、三億の民衆我王化に靡くと否とは、其利智者を俟ちて後知るべきにあらざるなり」
 歓迎ムードの中で、山岡はイブラヒムとともに、イスタンブル各地でアジア諸民族の覚醒とムスリムの連帯を訴える演説、講演会を活発に展開したのである。

おわりに


 アメリカのプロパガンダに基づいて形成された戦後史観においては、一九三〇年代以降、日本の政府・軍は戦争遂行のためにムスリム・ネットワークを利用したと信じられてきた。しかも、亜細亜義会以来の興亜陣営とムスリムの精神的結合までも、日本の陰謀としてとらえる見方がある。まさにこれは、アメリカの宣伝によるものであった。すでに、第二次世界大戦中、CIAの前身OSS(戦略事務局)は、亜細亜義会の誓約書を「ムスリムの誓い」と名づけ、それを世界中のムスリムに潜入して西洋に反抗させようとする日本の長期的陰謀と断じていた(「日露戦争と日土関係」)。
 確かに、イブラヒム以来築かれてきた興亜陣営が主導するムスリム・ネットワークとイスラーム研究の蓄積は、国策に利用された。しかし、波多野烏峰が『日本よ何ぞ印度の独立を援けざるや』において「精神的亜細亜聯合」、「精神的連鎖」と表現した通り、興亜陣営のネットワーク、連帯は、相互の宗教に対する理解に基づいた精神的な結合を主眼とするものであった。興亜陣営とムスリムの連帯の主眼が、国策の要請するところとは別物だったことは、以下の田中の文章(「回教及回教問題」一九三三年)からも読み取れる。
 「満鉄の如き多年在満幾多の回教民に接触を持ち乍ら未だ嘗て此方面の調査も注意も怠つてゐたが、此時から注意する所ありて、現にバシキール民族代表として日本に来住してゐるクルバンガリエフ、奉天回教寺院の教長張徳純などに依嘱し、支那回教の調査と之が連絡などに就いて多少の計画する所があつたが、かゝる政策的態度は却つて『宗教即全生活』なる回教民には一種の反感を与へた形跡があるのを観て、予は満鉄当局に注意を促しておいた。……陸軍関係者中には、軍事眼を以て支那の回教徒に就き夙に相当の調査する所あり、又時に多少の交渉をも生ぜし事あるやに思はるゝも、之は日本に何等宗教上の基礎ありての事ではないから、其関係者の如きも回教徒でもなく、又其接触が回教其者の上に何等の結果を持来したとは思われぬ、殊に其々等の為せし汎回教運動を種の芝居の如きは印度又は支那の回教徒に非常の悪影響を与えてゐる」(田中逸平「回教及回教問題」)
 亜細亜義会主意に「大聖人の崛起、皆其端を我に発せざるはなし」と謳った興亜論者とムスリムの思いは、アジアの宗教、伝統思想の価値への誇りを示していた。興亜の理想は、西洋近代の力の政治を否定するところにあったはずである。
 確かに、ムスリムたちは、日露戦争における日本の勝利に、日本の「力」を見せつけられた。しかし、その「力」は単に物質的な力ではなく、観戦武官ペルテヴ・パシャが強調した勇敢や忍耐、あるいはイブラヒムが感動した東郷平八郎の質素倹約を支えている精神的な「力」でもあった。その源泉としての、宗教、伝統思想の価値にイスラーム世界は覚醒したのではなかったか。
 日露戦争後に生じた日本のある種の驕りは、「力」の源泉としての精神の力を見失ったことによって深まっていったようにも見える。

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