たったひとつの、命の記録
医療の現場で働いていた時の話だ。そして、私が医療業界から去るきっかけとなった話でもある。
医療に足を踏み入れ、歳月がたったある日のこと。
いつものように、オペに入ったり医療機器をオペレーションしながら1日が過ぎようとしている時、1本の救急電話が鳴った。
「24才薬学部の女性、致死量のテオフィリンを服用し発見時にはピーク状態、至急受け入れお願いします」
ピークとは、今はどう言うかわからないが、薬が内臓に浸透しきった状態であり、テオフィリンと言うのは主に喘息の薬だ。薬学部の学生であれば、薬の飲み方(いわゆる致死に至る飲み方)も知っているだろう。そういったことも含めて、気が気でならなかった。
救急車のサイレンが近づき、鳴り止んだと同時に担架で処置室に運ばれてきた。
大至急で血液センターにFFP(新鮮凍結血漿)をオーダーし、急いで血漿交換の準備。プライミングを超特急で行い、フェモラル(大腿静脈:平たく言うと股間すぐ脇のあたり)にダブルルーメンのカテーテルを挿入。採血を行いながら即座に血圧等から体外循環可能な血液の量を算出し、ポンプで脱血。フィルターで血球と血漿に分離し、血中内の血漿とFFPを交換。念のためにCHF(持続的血液濾過または、持続緩徐式血液濾過術)の準備も行う。
治療を続けながら、横浜にいる家族へ連絡。その間、継続して血漿交換を行いながら経口でカーボンを流し込み、全身から薬を抜く作業をスタッフ総出で行う。カーボンを経口で流すと、勿論患者は苦しい。患者の女性は流し込んだカーボンを含めて嘔吐をするが、ピークに達している状態では、思うように薬を取り除けない。
「頼む!!どうか戻ってこい!!」と声をかけながら治療を続ける。
終わりの見えない治療が続く。
患者の状態が落ち着いたと思われた頃、カーテンから朝日が見えはじめていた。その時、激しく痙攣し始め、声にならない声が聞こえ、体が硬直し始めた。
「頑張れ!!頑張れ!!戻ってこい!!!」
「頑張って!!」
「戻ってこい!!頼む!!」
体の動きが止まった。
その時、彼女の右脇にいた私の方を向き、
「ごめんなさい」
「…ありがとう」
とめどない涙を流し、少しずつ、ゆっくりと、目を閉じた。
彼女の目は、二度と開くことがなかった。
真っ赤に染まった血漿交換装置を片付けた。その時、ドクターに一つだけお願いをした。
「彼女の血液を体内に戻してあげたいんですか、許可いただけませんでしょうか?」
ドクターはひとこと「わかった」と。
心臓はもう動かない。そんな中で血液を戻すこと容易ではない。でも、ゆっくり送血ポンプを回し、彼女の体内にできるだけ戻した。
「もういいだろう」
ドクターは言った。
血液チューブをカテから外し、回収した。
彼女の顔は、白い布で覆われた。
誰もいないトイレに入り、声を出して泣いた。情けないくらい大声で泣いた。恥ずかしいくらい、声にならない声を出して泣いた。
助けたかった。
たとえ生還が難しい状態であったとしても、万に一つでも助けられることを強く祈って全身全霊でオペレーションした。でも、力及ばずだった。
なぜ自ら命を絶ったのか、その理由はわからない。きっと彼女を死に至らしめる辛いことがあったんだろうと思う。もしかすると別の理由なのかもしれない。でも、どんな理由であろうが助けたかったし、絶対に諦めたくなかった。
本当に多くの命を見てきた。生存率が極めて低い状態であっても、生還して日常生活に元気よく戻った人もいた。そして、小さな命、若い命、家族にとても愛された人の命を見送ったことも、勿論多く見てきた。どんな命でも、助かるべきだと思う。当然、それが難しい状態の患者もいることはわかっている。でも、助けたかった。
気づいたら、自分自身の心は折れていた。
医療を去ってから、かなりの年月が経った。
しかし、それまでに関わった命を含めて、あの時の顔、「ごめんなさい」と言った声、絶対に忘れない。
ずっと忘れずにいよう。
あなたに関わったことを。あなたを、救えなかったことを。
人がもし、生まれ変わることができるのなら、願わくば、次は誰よりも幸せであって欲しい。
そんな、一つの命の、記録。
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