芸術から人を考える

その前に、これはとてもつまらない駄文であることをお詫びしたい。

今日は久しぶりに美術に触れる1日だった。自分をリセットできる場所が六本木で、夜の華やかな顔を持ちつつも、デザインと美術がある街でもある。DESIGN HUB、21_21 design sight、サントリー美術館、FUJI FILM SQUARE、新国立美術館。

このように、とても魅力的な施設がある。

これらをまわり、写真の歴史ショーケースや、ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道など、多くの展示物を見ることができた。

そこには「人」があり、人の歴史があり、思想や誕生、発展、繁栄、そして、人の繋がり、闘争、悲哀、愛、裏切り、友情の果ての自死、残された者の悲しみなど、想像を遥かに超える多くの要素があり、正直全部を受け止めることができなかった。美術や芸術に触れて、生まれて初めてのことだ。もっと言うと、倒れそうになるくらいだった。

この絵は、リヒャルト・ゲルストルという画家が描いた、作曲家アルノルト・シェーンベルクの肖像画だ。誰が見ても、ごく普通のありふれた肖像画に見えるかと思う。しかし、この絵を見て、何とも表現のしようがない、とてつもない悲壮感を覚えた。

彼らは親友だった。

しかし、ゲルストルがシェーンベルクの妻と恋に落ちたために(いわゆる不倫)、ゲルストルは自ら命を断った。親友同士において起きてはならない、本当に悲しい結末だ。悲壮感を感じた絵の裏側にこんなにも悲しい出来事があるとは、誰が想像できるだろうか。涙が出そうになった。いや、それ以上に、怒りにも似た、何とも遣る瀬無い気持ちに支配された。

私も、今まで生きてきた中で多くの裏切りを経験した。それは、同性異性関わらずだ。しかし、人の業というものは、時に残酷であり、人が人である以上それはあり、昔も今も変わらないのだということを、この絵から感じた1日だった。

人は「人」であって、聖人君主ではないのだろう、と、改めて思う。だからこそ、受け手側の人間は辛かろうが、人と関わる以上ありうることで、それを理解しているからこそ受け入れざるを得ない。勿論、裏切りというのはとてつもなく辛い。

人が人でなくなった時に、そういった苦しみから解放されたら幸せなのかもしれないが、この世は一切皆苦だという仏教の言葉通り、苦しみしかないのかもしれない。でも、この言葉の本質通り、どんなことも「受け入れていくしかない」のではないか、とも思う。反面、「苦」はできるだけ避けたいというのも、人である。心の傷にもなると、自分が自分でいられなくのも人間だ。それがどれだけのものかを少なからず経験し、わかっているからこそ、できるだけ避けている自分を、今もこうして生きている。

どんな生き方が正しいのかなんて、人が人に対して決めることではない。そして、正解なんてないのだろう。多くの苦を受け入れることで、人が聖人君主になれるのならば話は別だろうが、そんなことが今までにあっただろうか。

多くの芸術に触れ、充実した1日だったが、

"人とは一体何なんだろうか"

ということを深く考えた1日でもあった。

本当に、今まで経験したことない位、疲れた。

先のことは考えたくないが、明日からまた、長い長いマラソンがはじまる。仕事をしている時も時間の経過を早く感じるが、仕事のないこのGWも、なんと時間の経過が早いことか。

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