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「月のカッコウの伝記」

モンゴルで入手した古本

 私の手元に、「月のカッコウの伝記」というタイトルの古びた本がある。入手してから20年以上経過しており、更に出版されてからは今年でちょうど60年となる。

「月のカッコウの伝記」の表紙

ウランバートル市レーニン通り5
モンゴル科学アカデミー出版局
1962年10月 3,000部印刷
価格10トゥグルグ40ムング
以上の情報が読み取れる。

「月のカッコウの伝記」の扉

 激しいインフレで使われなくなった「ムング」というトゥグルグより下位の通貨単位が、まだ普通に通用していた時代のものである。

 ちなみに、現在では10トゥグルグ程度で買えるものは殆どないし、市内バスにも乗れない。ウランバートルの市内バスは500トゥグルグ、トロリーバスは300トゥグルグで、20年以上前、私がウランバートルに赴任した当時はバス、トロリーバスともに100トゥグルグで、滞在中に200トゥグルグに値上げされた。バスの中で車掌の女性に「切符買いなさいよ」と小突かれながらも料金を払わずに乗っている人も多くみかけたものだ。言うまでもない事だが念のために述べておくと、私は一度も無賃乗車したことはない。

「月のカッコウの伝記」とは

「月のカッコウの伝記」は第5世ノヨン·ホトクトが創作した歌劇のタイトルであり、この本にはその歌劇の台本が全て収録されている。

 まず「ノヨン·ホトクト」に関して説明しよう。ホトクトとは、モンゴル語で転生活仏という意味がある。同じような言葉に「ホビルガン」という言葉があるが、こちらに関しては一般名詞として使われる言葉で、「ホトクト」は称号としても使われる。「ノヨン」は一般名詞で領主、貴族などの意味がある。

 ノヨン·ホトクトはモンゴルのドルノゴビ地方を本拠とする転生活仏であり、5番目の転生者に認定されたのが、俗名をダンザンラブジャーという人物である。モンゴル国内では、ラブジャーと縮めて呼ばれることも多い。

 転生活仏で一般的に最も有名なのがダライ·ラマであろう。現在のダライ·ラマは第14世である。観音菩薩が衆生救済のために人間の姿でこの世に生まれてきているいわゆる「化身」であり、その死後も改めて別の人間の姿を借りて転生するという考え方がチベット仏教にある。ダライ·ラマ以外にも、パンチェン·ラマは阿弥陀如来の化身であるとされるように、チベット仏教では高僧は菩薩や如来などの化身であり、衆生救済のために転生するという信仰に基づいて、輪廻転生そのものをシステム化したと考えられる。Twitterの企業公式アカウントなどで担当者を「中の人」などと呼んだりするが、転生活仏は中身が輪廻転生するため連続性があり、「外の人」が代わるという言い方もできるだろう。

 なお「転生活仏」という中国語に翻訳された言葉由来の言葉の字面から「生き仏」と誤解される可能性があることが指摘されており、「化身ラマ」や「転生ラマ」などの用語が使われるようになっている。しかし、「化身ラマ」や「転生ラマ」のどちらも「化身」と「転生」という両方の性質を持っている転生活仏に対して適切かどうか疑問があること、また日本で馴染みがある言葉ではない仏教用語の定義の話になってしまうことから、本稿では伝統的に使われてきた「転生活仏」という言葉を用いることとする。だからと言って、「転生活仏」が用語として正しいということを主張するものではない。

第5世ノヨン・ホトクト=ダンザンラブジャーについて

 ダンザンラブジャーは19世紀にノヨン·ホトクトの5代目の転生者として認定された人物であり、ダンザンラブジャーが本名である。

 ダンザンラブジャーはチベットに伝わる「月のカッコウの物語」という仏教説話を元にして、「月のカッコウの伝記」という歌劇を創作し、ゴビ地域を中心として上演していた。台本、作曲、舞台演出など、全てをダンザンラブジャーが行ったと言われているが、実際には助手なども含めたグループで行っていたのではないだろうか。

 モンゴル科学アカデミーが出版したこの本は、基本的にはダンザンラブジャーが残した「月のカッコウの伝記」の台本をそのまま書籍にして後世に残すことを目的として出版された。

 その経緯について述べよう。1959年、モンゴル科学アカデミーの一員がたまたまモンゴル国立図書館で「月のカッコウの伝記」と第された古い本が保管されているのを見つけた。確認したところ不足部分が判明した。その後、その不足部分を補うために調査を行い、結果的には全体を復元するために必要な資料を全て集めることができた。この書籍の冒頭に、「月のカッコウの伝記」を見つけてから不足部分を探すフィールドワークをドルノゴビなどを中心に行なった時の記録とともに、ダンザンラブジャーの簡単な経歴などが記されている。つまり、台本を見つけた経緯、不足分を探しにフィールドワークを行った記録、ダンザンラブジャーの簡単な経歴などを解説として追加して書籍化したものであると言える。

 伝統的に経典などは木版で紙に印刷し、製本しない状態で使用するか、あるいは手書き写本が使用されていた。 「月のカッコウの伝記」の原本がどのような状態だったのかに関する知見はないが、ネット上で木版印刷の製本されたものの画像を見かけたことがある。それが原本であるかどうか、さらには本当に「月のカッコウの伝記」なのか、確認はできなかった。

 本文は伝統的な縦書きのモンゴル文字とチベット文字で書かれている。モンゴルではチベット語の経典が使われ、仏教用語もチベット語が多く、サンスクリット語の語彙もチベット語経由で入っている。そのため、伝統的にモンゴルでは僧侶はチベット語での読み書きは必須であったが、モンゴル文字の読み書きに関しては必須ではなかった。モンゴル文字の読み書きは、官僚などにとっては必須であった。

 ダンザンラブジャーは上流階級の生まれではない。生まれた直後に母親を亡くし、他に兄弟はおらず、唯一の財産である馬に乗って、父親と二人きりで物乞いをしながらゴビ地方を放浪していた、と略歴に記されている。物乞いをしながらの放浪生活とは、具体的にどのよなものだったのかは、残されているダンザンラブジャーの略歴には記されていないようだ。日中でもマイナス20℃を下回ることもあるゴビ地方の厳しい冬を越えるには、野宿など到底考えられず、何らかの形で宿を確保していたはずである。その点が気になり、モンゴル滞在時に師事していた仏教学の先生に訊いてみたのだが、具体的なことは記録がないのでわからない、とのことだった。ただ、あくまで想像であるが、宿と食事を提供してもらう代わりに、身の回りの木製品や革製品の補修などをしていたのではないか、とのことであった。夏場は野宿も可能であるが、気温が下がれば野宿は死に直結する。なので、冬場は次に行く家が確定している状態で移動したのであろう。

 その後、ダンザンラブジャーは父親の元を離れて寺院に入り幼くして沙弥となった。恐らくは父親一人で息子を養い続けることができず、また教育を受けられる環境もあることを考慮して寺院に預けることになったと思われる。これがある意味、ダンザンラブジャーにとっては転機になった。モンゴル語やチベット語で詩を作るようになり、それが基本的な仏教の教えを説く非常に素晴らしい内容のものばかりだった。それが地域の人達に知れ渡り、ドルノゴビ地方を中心として篤い信仰を集めていたヨン·ホトクトの転生者であると信じられるようになった。ドルノゴビ地方の寺院にとっても、ノヨン·ホトクトは非常に重要な存在だったようで、何らかの手順を踏んで、ダンザンラブジャーがノヨン·ホトクトの転生者であると認定した。

 しかし、一つ重大な問題があった。第4世ノヨン·ホトクトは清王朝と対立しており、死後は転生者認定を禁じられていたのである。そこで寺院側は、清王朝に対しては別の僧侶の転生者であると偽って転生者認定の手続きをし、実際にはダンザンラブジャーを第5世ノヨン·ホトクトであると正式に認定してしまったのである。転生者探しから認定までのやり方が、本来からすると異例の流れであり、ダンザンラブジャーのずば抜けた能力が周囲を動かしてしまったのだろう。

 第5世ノヨン·ホトクトとして認定されたダンザンラブジャーは、本拠地であるハマリン寺に入り本格的に活動を開始した。日常的な仏事に加えて、新たに学校を設立して僧侶の育成に力を入れた。それは幼少期の辛い経験から、教育の重要性に対する意識が非常に高かったからだと言われている。

 当時、モンゴルでは僧侶の数が増えすぎていることの弊害も多かったと言われている。いわゆる破戒僧が多かったり、寺院から脱走するものがいたり、僧侶の立場を利用して悪事を働くものがいたりと、どこでもいつでもよくある話ではある。しかし、当然ながら物事は一面だけで判断するべきではない。ダンザンラブジャーの時代より下って、辛亥革命からモンゴルの社会主義革命、そしてモンゴル人民共和国の成立の頃まで、いわゆる革命の中心にいた「最初の7人」や革命に関わった多くの人物は、一度寺院に入ったものの還俗したなど、寺院で教育を受けた人ばかりで、貴族や官僚などを除くと一般的な遊牧民の子息が教育を受けることは殆どなかった時代において、一般庶民が教育を受けられる場があるのは、寺院のみだったのだ。つまり、仏教はモンゴルが独立を目指した革命運動において必要な知識階級を生み出す重要な働きをしていたのである。

 ダンザンラブジャーは、寺院に学校を併設して教育に力を入れるだけではなく、教育を受けられない一般庶民に対しても、仏教の教えを伝えたいと考えて、チベットの仏教説話を元に「月のカッコウの伝記」という歌劇を創作し、劇場を作り上演していた。舞台に立っていたのは一般庶民で、また当時としては異例の女性を舞台に上げることまでしていたと言われている。これで地域の人たちの信仰を集めないわけがない、ということはご理解いただけるだろう。

 ところが、ダンザンラブジャーには「酔っ払い」とか「荒くれ」とかの言葉をつけて呼ばれることが多い。ダンザンラブジャーは酒好き、女好きとしても知られており、正式の后の他に愛人も多数いたと言われている。ちなみに、ノヨンホトクトが属していたのは、俗に紅帽派と呼ばれる妻帯可能な宗派であった。そうであったとしても、愛人が何人もいるのはどうなの? という疑問も残るだろう。この点は他宗派の寺院との軋轢に繋がったりした面もあるようだが、この手の逸話が多く残っていることと、ダンザンラブジャーの評伝そのものは本稿の目的ではないので、別の機会に譲ることにする。

社会主義時代の文字改革と仏教弾圧

 現在、モンゴル国では伝統的な縦書きのモンゴル文字の復活を目指して様々な取り組みが行われているが、公文書でも日常生活でも一般的に使われているのはキリル文字である。ロシア語で使われている文字に、不足している母音字を2文字を追加してモンゴル語を記述している。

 モンゴル国は1924年から1992年までは「モンゴル人民共和国」であり、世界で2番めの社会主義国だった。人民共和国成立当時に使われていたのは、伝統的な縦書きのモンゴル文字である。このモンゴル文字は13世紀に作られて文語して使わるようになってから600年以上経過しており、発音と表記にズレがあることが習得において障壁になるとされ、識字率を上げるためのいわゆる文字改革が必要であることは、革命当初から認識されていた。そして、その後の科学アカデミーにつながる「文書館」において、ラテン文字を使ったモンゴル語の正書法制定のための研究が行われ、実際にラテン文字表記が試験的に使われていたのだが、突然キリル文字導入が決定して、キリル文字によるモンゴル語の正書法が制定された上で、一般に導入された。概ね想像がつくとおり、ロシア人がわかりやすいようにしたのであろう。正式決定に至る経緯は詳細不明とされるが、文字改革に携わった人物の発言が残されている。なお、実際にキリル文字が使われるようになったのは、1941年のことである。

 キリル文字導入から20年余り経過した1962年に科学アカデミーから出版されたこの本は、表紙や背表紙、扉など一部にキリル文字によるモンゴル語とラテン語の表記が活字で印刷されている以外、本文や目次など本編はほぼモンゴル文字と一部チベット文字を手書きで記述して、それを原稿としてそのまま写す形で印刷されている。そのため、本文などは数人で手分けして手書きしており、手書き原稿の作成に関わった人物の名前も表記されている。また筆跡の違いや、表記のブレなどもあり、複数人の手に作られたことが見て取れる。

モンゴル文字とチベット語で記述された本文

 つまり、当時のモンゴル科学アカデミーの構成員に、仏教に関する高度な知識があり、モンゴル文字は当然ながら、チベット語の読み書きもできる人物が複数いたことが想定される。

「月のカッコウの伝記」の歌劇の台本に当たる本編は、当然ながらもともとモンゴル文字とチベット文字で書かれているので、それをそのまま踏襲して書籍化したことは理解できる。しかし、出版にあたっての経緯や、フィールドワークの記録などまで、あえて手書きのモンゴル文字にしたのはなぜだろうか? という疑問が残る。少なくとも、私はそれを疑問に思ったのである。

 キリル文字導入および普及の中心的組織であった科学アカデミーからの正式な出版物であれば、なおさらダンザンラブジャーが創作した歌劇の台本の本編以外の部分は、活字組みできるキリル文字で表記することも可能だったはずで、本編が手書きのモンゴル文字によるものであるため、それに合わせたと考えることもできるが、もう一つ考えるべき要素があると私は考えている。

 1930年代後半、チョイバルサン主導による大粛清がピークに達した。これにより仏教寺院が破壊し尽くされ、多数の仏教僧(ラマ)が「日本のスパイ」であるという名目などで処刑された。チョイバルサンが「モンゴルのスターリン」とも言われる所以である。

 しかし、チョイバルサンもスターリンに操られていた、あるいはチョイバルサン自身もスターリンから粛清の対象にされることを恐れていたという面を無視して、彼をスターリン呼ばわりする訳にはいかない。チョイバルサンはモンゴル革命の「最初の7人」と呼ばれているのうちの一人である。最初の7人のうち、チョイバルサン以外の6人は遅くとも1941年までに名目上は不審死とされる場合も含めて粛清されている。スターリンはまさに「恐怖政治」でモンゴル人民共和国をソ連の傀儡国家としていったのだ。その中でも、スターリンは仏教寺院とその構成員である仏教僧を心底憎んでおり、根絶やしにしても気がすまないくらいだったようだ。チョイバルサン以前のモンゴル指導者は「仏教弾圧はモンゴルの伝統的な文化の破壊であり、これでは却ってモンゴルでの革命遂行にマイナスである」と考え、あるいは実際にそれをスターリンに進言して、結果的に失脚して処刑されており、チョイバルサンはそれをずっと横目で見みていたわけである。チョイバルサンの大粛清により僧侶を含め多くの人命が失われた訳であり、そのことを忘れてはいけないのは当然であるが、「自分が反対したところで、自分が殺されて代わりの人間が粛清を断行することになるだけだ」とチョイバルサンが考えいていた可能性は否定できない。

 この大粛清によりモンゴル仏教の中心であったウランバートルのガンダン寺も結果的には破壊されたが、数年後から社会主義政権による厳重な監視下、限定的に復興が始まった。10万人以上いたと言われる僧侶が次々と処刑されて、残ったのは1000人あまりしかいなかったと言われている。また還俗して研究者などになった人もいた可能性がある。そうやって生き残った人たちがいなければ、モンゴル人民共和国内での仏教復興は不可能で、行われたとしてもほとんど表面的で中身を伴わないものになったであろう。

 ただ、仏教の復興が行われていたとは言っても「月のカッコウの伝記」の調査や出版が行われた当時は極めて限定的なもので、科学アカデミーが表立って仏教に関わるテーマを研究対象にできる状況ではなかったはずだ。

 出版に至った経緯にも書かれているのだが、モンゴル伝統文化の調査研究対象として「月のカッコウの伝記」を選定し、その結果としての報告書的な意味合いで本が出版された。伝統文化、特に文学に関するものなので、本来使われていたモンゴル文字で出版した、それがこの書籍の出版にあたって、本編をすべてモンゴル文字にした第一の理由であろう。

 もう一つの理由としては、伝統文化の研究名目と言っても、転生活仏が残した仏教説話色の強い作品を出版するに当たって、極力ロシア人の目に触れさせたくない、という思いも働いたのではないか。もちろん、モンゴル語ができるロシア人も多数いたはずだが、モンゴル文字を不自由なく読めるとなるとかなり数が限られる。ロシア人の監視の目を逃れつつ出版まで持ち込むための方便というか、言ってみれば目くらましとしてキリル文字を極力排除したのではないか。私はそう考えている。

 つまり、当時の社会状況を考えると「月のカッコウの伝記」の不足部分の探索をしたり、調査したりすることは、それなりに政治的な危険を伴う仕事だったことが想像される。それでも、調査研究の成果として3,000部印刷されて出版に漕ぎ着け、さらには発禁や焚書の対象にもならずに後世に残された。それは、幸運にも御仏のご加護があったことも含め、何らかの対策が功を奏した結果なのだろう。

現代に蘇る「月のカッコウの伝記」

  そして、更に幸運に恵まれて、貴重な1冊が私の手元にあるということになる。私のような怠惰で浅学非才な者の手元にあっても自己満足以上の成果は望めないが、モンゴル国に残された物はしっかりと活かされている。現代のモンゴル人が読みやすいようにキリル文字で記され、チベット語部分をローマ字転写で記載した上で、全て活字化された本が2016年、ウランバートルで出版された。

2016年版「月のカッコウの伝記」

 この本は、冒頭にダンザンラブジャーの創作による「月のカッコウの伝記」歌劇の台本を、後半に「月のカッコウの伝記」やダンザンラブジャーに関する論文を納めている。このようにして、モンゴルでは「月のカッコウの伝記」が、社会主義政権による仏教弾圧という暗黒時代を生き残り、次の世代へと引き継がれていくのである。
 なお余談ではあるが、この2016年に出版された本の価格は30,000トゥグルグだった。

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