歩いていると「死」があったから立ち止まった。

2メートルさきに「死」がある。「死」があると言っても、人の亡骸があるわけじゃない。あるのは河口付近をゆらゆら揺れながらながれる海水だ。

海水は夕日を反射して、後ろに見える街や山の風景といい調和をうみだしている。文字通り絵に描いたような景色がひろがっている。

ぼくはこうしたきれいな、そして確かな自然を目のまえにして、自分が世界に溶けこんでいるような感覚に陥った。イメージを与えるなら、まるでグラデーションの一部分になった気分だと言ったらいいだろうか。夢の中にいるみたいで心地がいい。

「どうだいどうだい、ここには「死」はなく、「生」を体感できるものばかりだよ。心の中の黒い色をしたものよ、一旦おさらば。」

淀んだ心を浄化するかのごとく、思う存分自然と対話した。

ふと目のまえにある海水に目をやってみた。まったく中が見えない。どこまでも深淵が続くのではないかと錯覚を起こすほど、夕日を鮮やかに反射した海水面はきれいだった。

そのとき、ぼくは「生」を感じながらも「死」を感じていた。

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ぼくは座っていた。

ほかに行くあてもなく長崎の街をさまよいながらたどり着いた。ここ1ヶ月くらい続くセンチメンタルな気分を癒すように、自ずとこの見晴らしの良い場所にやってきたようだった。

最近のぼくはどうしようもない。寝るくらいのパワーしかでず、生きる活力を失っている。
そんな理由もあってかわからないが、自然を享受できる場所にきてみて心がすこし軽くなった。

思えば、ずっと時間が早かった。たくさんの情報、たくさんのエンタメ、たくさんの自分。次から次へと何かを求めて、じっくりと1つのことを見る力がなくなっていたんだと思う。

だからこうしてゆっくりとした時間のなかで自然を見ていると、だんだんと豊かさが戻ってくるのが分かる。それに自然は「生死」を思い出させてくれる。
秩序だの、概念だの、言葉だの、そういった記号で作られた現代社会は、いち動物のぼくにとっては大変だ。

現代を生きるより、目のまえの海水に落っこちたら「死」があるという事実のほうが、ぼくが生きていることを温度をもって実感することができる。

死を感じながら、生を感じた日であった。

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