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感想文『歴史とは何か』岡田英弘

📕『歴史とは何か』岡田英弘
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ここ数ヶ月、忙しい日が続いていました。月一度の課題図書の感想文を書く時間が取れないのでは?…と恐れていましたが、「忙しい時こそ読書して思考を深めたい」と思い直しました。というのは、私の場合、良い読書をしないと良い仕事ができないと分かっているからです。この本はいろんな考えるきっかけをくれました。

(感想文)
「歴史は科学ではない。文学である。」-著者、岡田英弘氏のこの言葉は、このたった一言で歴史を鮮やかに定義し、私の目を開かせてくれた。本書からの学びを三点に絞って書きたいと思う。

1.歴史を重視しない文明

私が個人的に考える「歴史を学ぶ理由」は
(1)自分の生まれ故郷(祖国)の文化へのアイデンティティと誇りを築く 
(2)過去の過ちから学び、より良い生き方をする 
の二点である。

だが上記の考え方は、日本やヨーロッパのような「歴史ある文明」で一般的なだけであり、世界には「歴史のない文明」が存在すると著者は大胆に主張する。それについての考察を記述する。

1.歴史なき三大文明

(1)インド
インドは、四大文明の一つ「インダス文明」という高度な古代文明を築いてきたにもかかわらず、イギリスに植民支配されるまで歴史を意識しなかったという。著者はそれを、「インド文明は転生の思想を基盤とするため」とし、「仮に歴史家がインドの歴史を執筆しようとしても、来世や輪廻を含めた包括的な人間界の歴史を書くことは不可能だった」と説明する。

3月の課題図書『絶対貧困の光景』で、インドの最下層の女性達が描かれていたが、彼女達が「今、この瞬間」を生き抜くことに必死なのは「これが原因か」と思った。『絶対貧困の光景』の最終章で、著者が「(インド女性達の貧困の状況が)10年前から何も変わっていない」と絶望を吐露していたが、「歴史から学び、過去の過ちを是正する」という視点がなければ、国家の発展など不可能だろうと納得せざるを得ない。

(2)イスラム文明
イスラム教は、人生で起こる全てを「神の思し召し」と捉え、人間の歴史をそれほど重視しない。一方、他の文明との衝突・戦争などの軋轢の中で、自己正当化の武器として次第に歴史を持つようになった、その二面性を本書は指摘する。
これを読んで思い起こしたことがある。イスラム教のモスクで祈りを捧げる人達の映像を見ると、彼らの信仰の姿は数世紀前(下手したらイスラム教が始まった頃)から、全く変わっていないように見える。彼らにとって、7世紀に書かれたコーランの教えを誠実に守り、祈りや断食の習慣を続けることは、「人類の歴史から学ぶ」ことより大切なのだと納得がいく。

例えば「豚は不浄なので食べてはならない」のようなコーランの教えは、7世紀には信徒の健康を守るため適切だったのだろうが、現代はそんな教え、守らなくても良いのでは?という議論もあるようだ。しかし依然として、イスラム教徒達は豚肉を食べない生活を続けている。「時代の変化」よりも「神の思し召し」を優先する生き方が、彼らの根本的な基礎となっていることを学んだ。

(3)アメリカ文明
「現在と未来にしか関心がない」-この定義付けから、アメリカ人の底抜けの明るさの裏の姿が見えてきた。彼らは成功だけにスポットライトをあて、マイナス面(ネイティブアメリカンや日系人などを迫害し、黒人を奴隷にしていた歴史など)を見て見ぬふりをする。だがどんな人間(国家)も、強さと弱さ、光と陰の両面を持つ。陰を無視し続ければ、マイナス面の克服もさらなる成長もできない。過去の伝統にとらわれぬ自由さは発展を促進するが、歴史から学ばないことは危うさと脆さを伴うことを、心に留めておきたい。

2.神話と歴史の境界線は曖昧
著者は「古事記は日本書紀の後(平安初期)に書かれた」と主張するが、これは納得できる指摘だった。というのは、キリスト教の旧約聖書にも「歴史書的な部分が先に執筆され、神話は後で書かれたのでは?」という議論があり、それと似ているからだ。旧約聖書の冒頭の創世記は、前半が神話(天地創造、アダムとイブ、ノアの箱舟、バベルの塔ほか)、後半が歴史(アブラハム以降の人物史)の構成をとる。作家の阿刀田高さんは「神話が歴史に入り込むのは、王国が隆盛を極めた時ではないか」と述べている。

手元の中学生の歴史の教科書では「古事記は712年、日本書紀は720年に成立」と明記され、私の塾の中学生達もそのまま素直に覚えている。私もそれを子供の頃から信じていたし、古事記に書かれた日本の神話は「中国文明の影響は薄く、日本で生まれた日本古来のお話」というノスタルジックな印象を持っていた。

だが岡田英弘氏が指摘するように、当時ひらがなはまだ発明されておらず、古事記は漢文で書かれているという。現代の私達が持つ古事記のイメージは、「江戸時代に本居宣長が書いた(若干美化の入った)古事記伝に形成された」という説明も納得が行く。明治維新で列強諸国に対抗するため、日本人としてのアイデンティティを国民に持たせるため、本居宣長の古事記伝が大々的にフィーチャーされた時代背景もあるだろう。

神話と歴史書は一見全く違うように見えて、どちらも「読者を魅了し、感銘を与える」という点で高い文学性を持つ。神話は神が主人公の物語だが、書いたのは人間だし、歴史書は客観的に書かれているように見えるが、間違いなく歴史家の主観が入っている。今後、歴史書はもちろん、神話を読む際にも「著者がどんな意図を持ち、どんな時代背景で書いたか?」を深読みする視点を持ちたい。

3.地中海文明と中国文明の歴史観の違い

本書で最も衝撃的だったのが
●地中海文明…「世界は変化する。その変化を語るのが歴史」
●中国文明…「天下に変化はありえず、世界の変化を認めない」
という、真逆の歴史観を持つという指摘だ。

私達日本人は「矛盾」「圧巻」などの熟語や、「漁夫の利」「呉越同舟」などの故事から来る慣用句を日常的に使っている。これらは中国の歴史書が原典だと当然のように考えていたが、その中国の歴史書は、皇帝の正当性を主張することを最大の目的として書かれたので、往々にして真実が捻じ曲げられ切り捨てられているという、少し考えれば当たり前の事実を突きつけられた。

中国には古代から「易経」の教えが存在し、知識人達が「万物は常に変化する」という真理を認識していなかったはずがない。にもかかわらず「変化しない歴史」を執筆しなければならなかった歴史家達の葛藤とは、どんなものだったのだろう。

最後に、個人的な話だが、今年、本を出版することになった。第1章を執筆したら、自伝のような内容になった。自分の人生のエピソードを厳選し、シンプルさを心がけ、最も伝えたい主題は具体的に描写し、要らない情報は切り捨てるという編集作業を行った。自分一人の短い人生でさえ、これだけ気を使うのだから、一国の歴史を綴るとなれば、想像を絶する多大な編集作業が必要だったであろう。本を読む際に、行間(書かれなかった部分)に思いを馳せることもまた、必要なことだと実感している。

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