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Day20l10年越しの真実

こんばんは、思い出したように「書く習慣」20日目。
今日のテーマは「いままでで一番の後悔」。

後悔なんてたくさんしてる。
「やっぱりコー匕ーゼリーじゃなくてプリンにしておけばよかった」
って軽い後悔から、定番の「あのときああしておけば」までそれはもう。

過去の自分の選択で「間違ってなかった」って胸を張っていえる選択がいくつあっただろう。
どちらを選んでも、選ばなかった後悔はついてまわる。だからこそ、映画でも本でもタイムループものは人気があるし、みんな選ばなかった「もしも」を知りたがる。

どちらにしろ後悔するのなら「今」が最高だって思いたい。

それでもあえてひとつだけ後悔をあげるなら、52歳で亡くなった母親にまったく親孝行ができなかったこと。ありきたりな後悔だと思うけれど。
私はそのころ、親なんていつまでも生きているものと思い込んでるクソ生意気な若者で、自分のことしか見えていなかった。

今どきのような仲良し親子でもない。
顔を合わせれば説教ばかりしてくる母親には反発してばかり。
私には母に面と向かって褒められた記憶がなかった。
今思えば、私に甘かった祖父母の分まで厳しくしていたんだと思う。
「勉強しなさい」と口うるさく言われたこともないが「よくがんばったね」と手放しで褒められたことも一度もない。

その上性格もドライ。
私がはじめて実家を出て県外で暮らすことになっても、ただの一度も「ヤタがいなくてさみしい」と言われなかった。
当時からずっと母は私のことなど、少しもかわいくないんだろうなとぼんやりと思っていた。


先日、久しぶりに正月を実家で過ごしたときのこと。
もう誰も住んでいないわが家。いつまで家があるかわからないからと、無理を言っての帰省中。

なかなか減らない実家の荷物を少しでも減らしておこうと、妹たちと母が使っていた部屋の片付けをしていたときのこと。
母が書きものをするのに使っていた机の引き出しを整理しようと、入っていた書類を取り出したとき隙間からA5サイズの古びた冊子が抜け落ちた。
ひろって驚いた。

―――平成◯年度 ◯◯市青年の主張大会

私が小学生のときにはじめて出場した弁論大会の原稿をまとめた冊子。
さらに、中には中学の最後に出場した県大会のプログラムが挟んであった。ご丁寧に鉛筆でメモ書きまでしてある。

小さな島だったので、こういうイベントに一度出場するといつの間にか「あの役目はあなた」と決められてしまう。私は小学6年から中学を卒業するまで、不本意ながら毎年この大会に出場するハメになったことを当時、とても後悔していた。

そのときの資料を母がまだ持っていたことに、私はとても動揺した。
「さみしい」とも「たまには連絡して」とも一言も言わなかったあの母が?

その日の夜、アルバムの整理をしていると近所に住む叔父が刺し身をもってきてくれた。一緒に写真を見ながらひとしきりみんなで思い出話に花を咲かせていると、妹が思い出したように母の引き出しからでてきた冊子を叔父に見せた。

「あ~! こりゃなつかしかねぇ~!! そういえばこんときな……」

上機嫌な叔父の口から語られる母の姿は、私の知るものとはまったく違っていた。
通りかかった叔父をわざわざ呼び止めて、私が賞をもらったこと、県大会に出場することを、それはもう嬉しそうに話したというのである。

「俺のとこに駆け寄ってきて、ニコニコして話よったぞ~」

母が亡くなって10年以上たって、はじめて知った事実。
今まで私のこと全然褒めたことなかったのに。
子供の自慢など絶対に外でしない人だった。
亡くなる前ですら、しょっちゅう小言を言われてケンカをしていた。

なんなんだよ。
不器用なんだよ。
胸の奥がきゅっとなった。

いい歳した大人になって、ようやく母の知らない姿を垣間見た気がする。
ものすごくわかりにくい愛情表現で、それがまた「親子だよなぁ」って痛感する。

ありきたりだけど、もうちょっと長生きしてくれたら少しは親孝行もできたのに。

自分で選んだ人生だから、今に後悔はない。
それでもひとつだけ「一番の後悔」をあげるとしたら、母のことが思い浮かぶ。
とはいえ、めそめそ泣いて偲ばれるなど、まっぴらごめんな人だろう。
だからこっちのことは心配しないで、そっちの世界で楽しく暮らしてと伝えたい。


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