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「秋色フェルマータ」第1話
高校生の木暮秋は保健室登校生の志摩文乃に恋をした。
志摩はなぜ教室に入れないのか。学校側が志摩の保健室登校を黙認している理由は何なのか。秋は疑問を抱きながらも、ツンデレ幼なじみの葵や完璧生徒会長の聡に見守られ、志摩と少しずつ仲良くなる。
一方、教室に苦い記憶のある志摩は、保健室教諭の九条や秋との関わりを通して少しずつ変化してゆく。
しかし、志摩の保健室登校は無期限のものではなかった。時が来たとき、志摩は秋に保健室登校の理由を語る。その理由を聞いた秋は、志摩に想いを伝えることを決意する。
何かが変わるのはいつもギリギリのタイミングだ。それは夏休み最後の日の出来事だった。
その日、俺の前にはろくに手をつけていない夏休みの課題が積み重なっていた。
ここで焦るのは二流だ。焦るにはまだ早い。まだ間に合う。
俺は最終手段に出た。携帯を取り、葛城葵(かつらぎあおい)の番号に連絡した。
長いコール音のあと、ようやく聞こえてきた声はおそろしく機嫌が悪かった。
「今、何時だと思ってんの」
「……朝の九時」
けっこう常識的な時間だと思う。
「今日で夏休み終わるのよ。好きなだけ寝かせなさいよ……」
「じゃあ聞くけど、お前は何時まで寝るつもりなんだよ」
「夜の九時」
「今すぐ起きろ」
夜行性にもほどがある。
「葵、ちょっと頼みてえんだけど」
「嫌よ。どうせ宿題見せてほしいんでしょ」
さすがにお見通しだ。
「……そこをなんとか」
「どうしてもというなら、それなりの対価が必要ね」
この反応はもちろん想定内だ。俺は葵の好物を挙げた。
「駅前のドーナツ三個」
「六個よ」
「却下だ。どんだけ食う気だよ」
「おやすみなさい」
「わかったよ、六個な!」
本格的に布団に潜る気配がしたので、慌てて条件を飲んだ。
「六個でも安いくらいだわ。一時間後に行くから、用意して待ってなさい」
電話を切られた。持つべきものは出来のいい幼なじみだ。思ったより高くついたが、背に腹は代えられない。
窓の向こうは抜けるような青空が広がっている。家にいるのがもったいないほどいい天気だ。
俺は駅前のドーナツ屋まで自転車を飛ばした。
一時間後、葵がやってきた。
「お前さ、一時間も何してんの?」
葵の家はすぐ隣だ。移動には三十秒もかからない。
「女の子の支度には時間がかかるの」
そう答える葵は涼しげだ。背中に届くほどの長い黒髪を下ろし、水色のワンピースを着ている。
しゃれたデザインのサンダルを脱ぎ、持っていたトートバッグを俺に押しつけた。
バッグはずっしりと重く、数冊のノートと分厚いクリアケースが入っている。
「感謝してね。朝ご飯も食べずに飛んできたんだから」
飛んではきてないと思うが、ありがたい。
「ほら、早くドーナツ出して。熱いコーヒーも。私の目の前で宿題やりなさい」
「お前、細いのによく食うよな」
「ドーナツは別腹よ」
どこに入ってんだよ。
「ほんとに秋(しゅう)はしょうがないんだから」
葵は溜息をつき、うさぎの形のスリッパを履いた。うちに置きっぱなしの葵の私物だ。
葵とは子どもの頃から家族ぐるみの付き合いで、高校生になってからも家に遊びにくる。
「あぁ、そうそう」
リビングの扉を開ける前に、葵はくるりと振り返った。
「聡(さとし)くんにも連絡しといたわ。午後から来てくれるって」
「はぁ!? なんで」
「私より教えるの上手だもの」
「俺は宿題写させてくれるだけでいいんだよ!」
「なあに、秋? 写させてもらう分際で偉そうね。聡くんに知られると怒られるから、私にこっそり頼んだんでしょ」
「お前、分かってるくせに……」
こりない俺が悪いのだが、聡は宿題を教えてくれる代わりに、勉強中ずっと小言を浴びせてくる。できれば知られずに新学期を迎えたかった。
「だって割に合わないもの。せっかく夏休み最後の日なのに、私だけ秋のお守なんて」
葵の首元で銀のネックレスが光る。俺はそこでピンときた。
「あーっ、どうりで」
「は?」
葵が虚を突かれた顔になった。俺は逆襲を試みた。
「おかしいと思ったんだよなぁ、うちに来るのにそんなめかしこむなんて。そっかそっか、聡が来るなら気合入れて化粧するのも無理ない――」
次の瞬間、ふとももに激痛が走った。がくりと廊下にへたりこむ。
葵が赤い顔で見下ろしていた。
「うるさいわよ」
照れ隠しにローキックとか本当にやめてほしい。
「聡に嫌われるぞ、暴力女……」
「秋にしかこんなことしないわ」
「お前の足癖の悪さはバレてるからな」
「蹴られる方が悪いのよ」
葵はノースリーブの肩にかかる髪を払った。大人しそうなのは見かけだけ。中身は凶暴だ。
きょうだいみたいな間柄のせいか、俺にはまるで容赦がない。
「ほら、早く始めるわよ」
さっさとリビングに入ってゆく葵。俺はふとももをさすりつつ、あとに続いた。
俺がせっせと課題を書き写す前で、葵もせっせとドーナツを食べていた。
俺はドーナツも昼飯もパスだ。ひたすら課題の山を崩すことにつとめた。
葵と母さんが大量のそうめんを平らげたタイミングで、インターホンが鳴った。
「やっぱり今年もやってなかったんだ」
聡は来たときから冷たい目をしていた。
母さんには品のいい笑みを浮かべ、「おばさま、お久しぶりです。これよかったら」と駅前のケーキ屋の箱を渡す。
「まぁまぁまぁ! そんな悪いわ。いつでも手ぶらで来て!」と言いながら、母さんは箱を受け取った。
「いつもごめんなさいねぇ。ほんとに学習能力のない息子で恥ずかしいわ。どうして聡くんや葵ちゃんみたいにきちんとできないのかしら。
ちょっと秋、聞いてるの?」
俺はそっぽを向いて返事をしなかった。さすがに肩身が狭い。
課題をやらなかったのは全面的に俺が悪い。それは認める。
だが、聡と俺とではまるきり出来が違うのだ。学年一位の優等生と比べないでほしい。
母さんがいなくなるとすぐ、聡は厳しい声を飛ばした。
「ほら、ちゃっちゃと手を動かす! わかんないとこはうやむやにしないで僕か葵ちゃんにすぐ聞くこと!
まったくなんで毎年ギリギリまで手をつけないかなぁ、ありえないよ。信じられない。何のための夏休みなの? 秋、だいたい君は昔から――」
「あぁもうわかった! 俺が悪かったからあんまやいやい言うな!」
だからこいつに来てほしくなかったんだよ!
葵はソファに寝そべって俺のゲームで遊んでいる。時折こっちを見て、くすくす笑う。
葵は来たときにいくつか嫌みを言うだけであとは放置だ。ドーナツさえ出しておけば好きに写させてくれる。
「葵ちゃんも葵ちゃんだよ。毎年秋を甘やかさないで」
聡の小言が葵にも及んだ。
「だって泣きそうな声で電話かけてくるんだもの」
「泣いてねえよ」
「秋は口閉じて。手動かして」
スパルタモードの聡には逆らえない。
「それにドーナツくれるって言うし」
「すぐドーナツにつられない!」
聡は苦笑した。
「ドーナツぐらいなら僕が買ってあげるよ。夏休み、あまり会えなかったね」
「聡くん、忙しそうだったじゃない」
「たしかに塾や生徒会の仕事はあったけど、葵ちゃんに会えるならどうとでもしたよ。気軽に連絡してくれてよかったのに」
「できないわ。邪魔したくないもの」
「僕から連絡すればよかったね」
聞いているだけで胸焼けする会話だ。これで付き合ってないんだからびっくりする。
「……俺を間に挟んでいちゃつくな」
ぼそりと呟いたら、聡に殺気をまとった目で睨まれた。
「手を動かせって言っただろ?」
俺は目の前の課題に集中した。
その後も聡と葵はぽつぽつと話をしていた。たとえば、夏休み明けの学園祭について。
「なんでメイド喫茶なのよ。死ぬほど嫌だわ」
「僕も風紀を乱すと思って止めたんだけど、賛成派が抑えられなくてね」
これは嘘だ。始めのうちは真面目に反対していたが、クラスのお調子者に「我らが高嶺の花の葵さんのメイド服だぞ。お前は見たくないのか」と煽られ、あっさり掌を返したことを俺は知っている。
生徒会長の立場と信頼をもって先生たちを説き伏せ、学園祭実行委員にクラス案を押し通したのは聡だ。この働きにより、男子からの支持率が急上昇した。
それはそれとして。課題を進めるうち、二人の会話も耳に入らなくなった。
今までで一番ギリギリだ。こんな綱渡りはもうたくさんだと悔やむのに、次の年には同じことを繰り返している。
冷めた目で監視している聡の手前、今日中に終わらなかったらどんなひどい目にあうかわからない。俺はがむしゃらに課題を写した。
「土壇場の集中力だけは見事よね」
数時間後、葵が呆れた顔で言った。朝の十時に始めた課題は、夕方の六時には終わりを迎えた。
半日ぶっ続けで机に向かっていた俺は、疲れと達成感から動けなくなっていた。
「でも、勉強は一夜漬けじゃ身につかないからね。来年は受験生なんだよ。わかってる? 夏休みの課題でぜえぜえ言ってる場合じゃないんだ」
「わかってるよ……」
力なく答えるしかない。聡はプリントの見直しをしている。葵はソファから立ち上がり、俺の前まで歩いてきて、にっこり笑った。
「さ、なんとか無事に終わったし、あとはバイト料だけね」
「は?」
「秋、コンビニまでひとっ走りしてアイス買ってきて。バニラがいいわ」
「お前ドーナツ六個も食っただろ!?」
「ドーナツは別腹よ」
だからどこに入ってんだよ!
「聡の持ってきたケーキも食ったじゃん……」
「頭使うと甘いものがほしくなるの」
俺の知る限り、今日の葵がやったことといえば新作RPGの攻略だけだ。
「当然の報酬だ。僕、キャラメル」
聡に片手で追い払われた。課題を見せてもらった弱みだ。俺はボロボロの体を起こし、財布だけ持って外に出た。
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