「秋色フェルマータ」第13話
「キリュウさん? えーっと、いらっしゃったかしら……うちの生徒さん、たいてい名前でお呼びしてるんですよね。下のお名前はわかります?」
「あっ、ごめん、わかんねえ。聡の母さんなんだよ。ここの教室に通ってるらしくて」
「霧生くんのお母さまが? えっ、どなたでしょう?」
「参考になるかわかんねえけど、聡はさーくんって呼ばれてる」
「あぁっ、さーくん! 早苗さんちのさーくんですか!?」
「それ」
すげえ、通じた。俺が家に行くと、「さーくん、秋くん来てくれたわよー」「秋の前でその呼び方やめてよ、母さん!」というやりとりを毎回やっている。
俺はもう聞き慣れているが、志摩もさーくんを知っているのか。笑える。
「さーくんが霧生くんなんですか!? あの、中一までお気に入りのテディベアがないと眠れなくて『勝手に洗濯しないでよ、母さん!』と泣いてたさーくんが!?」
「うわ、それ俺も知らねえ。最高だな」
どこかで本人に言ってやろう。
それにしても、俺が九条先生の登場に驚いたとき以上に志摩は驚いていた。驚きながらも手は止まらず、あっというまに傷の手当てを済ませた。九条先生並みの速さだ。
「そうですか、早苗さんの息子さんでしたか……九条先生もそうですけど、うちの生徒さんってみなさん、教室の外でのことはあまり話されないんですよね」
「そうなの?」
「ええ、ここにいる時間を大切に楽しんでくれているみたいで。だから居心地がいいんです。教室には一向に入れない私でも、毎週のお稽古は欠かさず出ています」
「そっか。いい教室なんだな」
「はい。大好きな場所です」
会話が途切れ、沈黙が下りた。でも、嫌な沈黙じゃない。猫がゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえる。まったりとした心地いい沈黙だ。
「……うちに秋くんがいるなんて不思議ですね。しかも今日なんて」
「今日、何かあんの? あっ、教室?」
「教室もありますけど、別のことです。私にとっては特別な日で」
志摩は立ち上がり、そのまま茶の間を横切ると、入口とは別のふすまを開けた。線香の香りが強く漂ってくる。そこには仏壇があった。
鴨居の上に一枚の写真がかかっている。若い女性の写真だ。志摩によく似ていた。
「母の命日なんです。秋くんに会いたかったのかもしれませんね」
電気をつけても仏間はほの暗かった。線香の煙が濃くたなびいている。俺は志摩の母親に手を合わせた。
「……お母さん、若いな」
「ええ、二十代でした。私ともう十歳くらいしか変わらないんですね。本当に早かったです」
「えっと……病気?」
「そうです。持病の悪化で」
鴨居の遺影を見上げた。志摩がそのまま大人になったようなその人は、柔らかな眼差しでこちらを見ていた。
綺麗な人だ。でも、どことなく寂しげに見えるのは、もう亡くなった人だと聞いているからだろうか。
静かに手を合わせた。目を閉じると、誰かの息遣いが聞こえるような気がした。目を開けたら、その気配は消えてしまった。永遠に若い志摩の母をしばらく見つめた。
――また来ます。
声には出さず、志摩の母に話しかけた。
――次はただのクラスメイトじゃなく、もっと近い仲になって。
そんな風に思ったのは、俺と志摩の母さんだけの秘密だ。
眠ってしまった猫を茶の間に残し、俺と志摩は玄関に向かった。
「そういや志摩、なんで制服なの?」
「お茶のお稽古だったので。着物を着ることもあるんですが、たいてい制服ですね」
「着物の日もあんの!?」
「え、ええ。時々」
見たかった。めちゃくちゃ似合いそうだ。玄関まで戻ると、着物の九条先生がいた。うん、この人も似合うな。
「あら、早かったわね、お二人さん。秋くん、家まで送るわよ」
「えっ、いいよ。すぐそこだし」
「だめよ。こんな暗い夜道を生徒一人で帰せないわ」
「……じゃあ、ありがとうございます」
志摩とは玄関で別れ、俺と九条先生だけ外に出た。駐車場は椿屋敷の裏にあった。
「この子があたしの愛車よ」と言って、先生は赤いスポーツカーを示した。いや、派手だな。
「あまりの麗しさに声も出ないかしら? 名前は紅葉二号」
「もみじにごう……」
「一号は先代なの。赤くないとテンション上がらないのよね」
自分の車に名前をつけている大人を初めて見た。しかも独特な名前だ。
「ところで秋くん? あたしが文ちゃんの保健室登校を認めているの、恩師のお孫さんだからって勘違いしてないかしら?」
どきりとした。正直、ちょっと思ったからだ。
「まぁ、思っちゃうわよね。でも、誤解しないでちょうだい。そんな個人的な理由で文ちゃんの保健室登校を認めてるわけじゃないのよ? 今、あの子は戦っている最中だから」
「戦っている?」
「そうねぇ、わかりやすく言うとフェルマータかしら」
全然わかりやすくない。
「フェルマータって知らない? 音楽記号よ。『ほどよく伸ばす、ほどよく休む』って意味の記号。音楽の授業で習ったでしょ?」
「あー、言われてみれば習ったけど……それが志摩とどう関係あるんだよ?」
「これから話すわよ。あたし、あれ可愛くて好きなのよねぇ、フェルマータ。一人でかまくらの中にいるみたいな形してんの」
「は? そんな形だった?」
「そんな形よ。調べてごらんなさーい」
スマホでフェルマータを検索した。『𝄐』本当だ。一人でかまくらに入っている。
「これをかまくらって言うの、すげえ日本人の発想だな」
「あたしの大和撫子な感性が出ちゃったわね」
「大和撫子……?」
街灯の少ない住宅地を車は滑るように走り出す。深いエンジン音と振動が心地いい。九条先生はゆったりと落ち着いた声で話した。
「体は頭より賢いの。ほどよく伸ばすのもほどよく休むのも、奥底ではちゃあんとわかってるのよ。誰だって、本当はね。
あとから振り返れば自分色のフェルマータなの。そう思って、文ちゃんのタイミングを信じてるわ。これは文ちゃんがあたしの生徒だから。高堂先生のお孫さんだからっていうのは関係ない。
もし秋くんが保健室登校したとしても、あたしは同じ選択をするわよ。二人ともあたしの大事な生徒ですもの」
安心しすぎて眠たくなるような声だ。だが、眠る間もなく我が家に到着した。
先生はインターホンを鳴らし、「夜分遅くに申し訳ありません。萩塚高校の九条と申します」と母さんに挨拶した。
「あらあらあら! いえいえいえ!」と母さんは真っ赤になり、先生が帰ってからも「あんたの学校にあんなイケメン先生いた!?」と大興奮だった。イケメン先生が大和撫子なことは黙っておいた。
自分の部屋に戻り、パーカーを脱いでハンガーにかけた。すると、ポケットのふくらみに気づいた。志摩に借りたハンカチだ。白いハンカチに血のしみが広がっている。
ハンカチには、椿の花とA・Sのイニシャルが赤い糸で刺繍されていた。
第14話↓
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