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夏日記⑦ 推しと大福


6月11日

親族に不幸があり、しばらく日記の更新ができなかった。というかなにも書く気分になれなかった。少し前まで元気で一緒にお酒を飲んだばかりだったのになぁ。五月の下旬からなんだかぼんやりしていた。
永遠に続くと思っていた「当たり前の時間」がふっと消えてしまった感じだ。永遠というのは間違いなく幻想なのだが、安定した時間を享受している間、人はそこから目を背けてしまうものである。

今、少しずつ回復してきている。幸いというかなんというか、投げたボールが各担当さんの手元にあり、私が急いで着手しなければならないものもなかったので、心の回復に全力を投じた。

葬儀が終わり、少し落ち着いてきたところで、友人のさやか氏から誘いを受けてミュージカル刀剣乱舞のすえひろがり公演、特別スクリーン版を見に行った。
家でくさくさしていてもしょうがない。
元気がないときは刀ミュに限る。これは浴びるタイプのサプリメントなのだ。

ミュージカル刀剣乱舞は現場に行けない人にも優しいコンテンツである。
すえひろがり公演は昨年のひときわ暑い時に野外で開催された。体力のない私は悩んだ末、行かない選択をとった。そのかわりに有料配信を購入し、ちまちまと楽しんでいたのだ。

スクリーン版で上映されるのは、私の持っている千秋楽公演と同じ日のものだそうだ。
内容は把握しているし、もう観なくてもいいかなと思っていたのだが、「それでも絶対観た方がいい」とさやか氏の熱は高い。
三面スクリーンのある映画館なら、配信版ではカットされてしまった場面も見られるらしい。
というか、彼女はすでにDMMの配信を二公演分買って観ているし、このスクリーン版を二回も観ているのに、同行する気満々である。
ありがたい。ありがたいがさやか氏……刀ミュ好きすぎるだろう(人のこと言えない)と思いながらも、丸の内ピカデリーまではせ参じた。

最近、Xで噂になっている「大福を食べるとお手洗いに行きたい衝動が抑えられる」のは本当か、実験しようということになった。すえひろがり公演は三時間に渡る長丁場なので、絶対に一度はもよおしたくなるはずである。
本当に大福を食べたら三時間、ロボットのように生理現象から己を切り離していられるのだろうか。

というわけで、映画館近くの大角玉屋という和菓子屋さんに寄った。いちご豆大福の有名な店だそうだ。
名物のいちご豆大福のほかにも、みたらし団子や水ようかんなど、目移りするようなラインナップである。
しかし、季節限定の杏大福も猛烈に気になる。
いちご豆大福を押し出しているのだから、それを買うべきか。

悩みながらも結局杏大福を購入し、食べてみた。
ずっしりとした大福の中は、控えめな白あんに包まれた杏。甘酸っぱさが絶妙なバランスで、重量のわりにまったくくどくない。みずみずしい杏となめらかな求肥があわさって、上品な美味しさである。

おいしすぎてふがふがと食べてしまった。
最近は甘いものに対して食が進まないことが多かったのに……。
同じものをほおばっていたさやか氏も美味しいと絶賛していた。
(ちなみに、観劇後同じ店に寄ってみたが大福はすべて売り切れていた)
たとえ実験に失敗したとしても、大福がうますぎたのでもういいだろう。

腹ごしらえもすんだところで、映画館に向かう。

実は、このすえひろがり公演より少し前から気になっている刀剣男士がいるのだが、沼に落ちないように細心の注意を払っていた。
もとより「推し」ができにくいタイプだった。ここまで特定の登場人物に意識を向けられたのもめずらしいことなのだが、そのぶんハマると抜け出しにくくなる傾向にあり、困っていたのである。

刀ミュ自体はすごく素敵なコンテンツなので、フラットに観たいと思っていたのもあるし、推しができると作品の見方も変わってきて色々とやりたくなってしまうのがオタクのサガというもので、これ以上ここで書き連ねるのはよしておく。

もちろん、好きな刀はいた。歌がうまいとか、ダンスが上手だとか、演技がすばらしいとか。元気をもらえる男士はどの公演にもひと振り(刀剣男士はこう数える)はいたのである。
しかし、舞台上に存在しているだけでじゅうぶん、供給のあるたびに視線も言葉も奪われてしまうような「推し」というものは、いなかったのだ。
いないことに安堵してもいた。
推しが出ないからってがっかりしたくない。万が一推しが出た回の脚本が自分の解釈と違うと思うこともあるかもしれない。不満を抱きたくもない。これまで楽しんできたのだし、このままいきたいところである。

そのため、推しにならなくてすむように、あえてマイナスの情報を検索していた。
推すにはためらう要素を一生懸命探していたのである。
もはや「大嫌い、大嫌い、大嫌い、大好き!」を地で行っており、大好きなくせに屈折しまくりである。
色々と見てまわったが、努力むなしくまなざしはうそをつけない。映像を見るたびにそのひと振りを追いかけてしまうのであった。

チケットの半券と入場者特典のペットスタンドを受けとるときの私は、ソワソワとしていた。
ペットスタンドは、カードのような形で、刀剣男士ひとりひとりの姿が印刷されている。そして中に誰が入っているのかわからないランダム仕様なのだ。
特典の袋を開ける――その前に、ただひとりの気になる男士の顔がちらつくわけである。

これまでの私なら、「○○か××がきたらうれしいな~ま~みんなかわいいけどね! 会場に誰かほしい人がいたらあげちゃうか?」って感じだったのに……。

彼が出てきちゃうかもな、なーんてね。これだけ人数がいるんだもん、(出演男士は34振り、つまり34種類はある)さすがに自引きはないわな。
と思いながら、封をあけたら、その刀だったのである。
いっきに体温が上昇し、手が汗ばんできて、「待って」と声をあげた。
人はこういうとき、第一声はたいてい「待って」か「無理」か「ちょ」である。

その後、自分が見た光景がまやかしでないことを慎重にたしかめ、やはりあの刀であることをみとめると、「おおおおおお」と狼狽しきった。
さやか氏も「まさか引いたのか」といった具合になり、ふたりでオロオロした。

「もう推すしかないのか……」
と観念した瞬間だった。
ペットスタンドは誰にもあげず、持ち帰ることにした。

その後、三面スクリーンの観劇はすばらしかった。
カメラワークも配信とは違うものが観られたので、気づきがたくさんあった。
自宅のテレビからでは拾えなかった音も聞けて、より舞台の印象が克明になった。
配信で観た公演だが、あっという間の三時間だった。
推しに昇格してしまった刀の活躍も観れてもはや大満足としか言いようがない。

ちなみに、実験もむなしく私は一度お手洗いに行った。観劇中ウーロン茶を飲んでいたので、そのせいかもしれない。

帰りにコーヒーを飲みながら、さやか氏とおしゃべりを楽しんで、解散。
久々に好きなことについて思いっきり話したなぁという感じ。
暗い日やモヤモヤする日が続いたが、気持ちは晴れた。
エンターテイメントは人を救うなあ。

帰りにふらふらと、行きつけのバーに寄った。
「なんでもいいからなんか作ってよ」という無茶ぶりなオーダーに、バーテンダーさんが出してくれたのがフランボーズピンクの可愛いカクテルであった。

名前は「ピュアラブ」だそうで。
バーで推しの話はなにひとつしていないのだが、もう屈折した気持ちの向け方はやめよという、天からのメッセージだろう。
推しができた日にピュアラブか。
と思った一日のしめくくりであった。


フロースコミック公式サイトより

殻にこもっている間にジャンヌ・クーロンのコミカライズが始まった。
幽霊が見える令嬢のホーンテッド・コメディである。
生きている人間より、幽霊や怪談が好き。そんなジャンヌの活躍が漫画になった。

今なら一話無料で見られるので、ぜひ読んでいっていただきたい。
というかいつまで一話の後半が無料で読めるのか私もわからないので、これを読んだら今すぐサイトに飛んで読んでもらいたい。

漫画版はらむだ先生がとりわけ原作を大事に扱ってくれているのが伝わってきた。そして先生なりの味付けも絶妙で、コミカルな表現もホラーな表現もすごいのだ。お見逃しなく!