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普通に過ごしていれば、大丈夫だろうと思っていたが、ダメだったこと

いらっしゃいませ!
合同会社つなはぐ相模湖、代表の山口裕史です。
ヘッダー画像は相模ダムをもとにした、イラストですが、
右側の管理所は津久井湖(城山ダム)っぽいな~、
と合いの子のような絵になっています。


今日の取り組み

借りた物件の建物周辺の草刈りと剪定を行う。3分の1は終える。

それにしても、暑い。
正直、もう気候変動への対応手遅れな気がするのだが…
それでもやはり脱炭素につながる活動の在り方と実践は、
放棄しないで取り組みたいことだ。

お向かいと2軒隣と空地を挟んだご近所さんが、
外に出てきたところでご挨拶。
会社で借りること、簡単な事業内容。
電話番号と名刺ができたら、改めて挨拶回ろうと思っている。

そして、タイトルのこと、普通がぶっ壊された出来事

学校を卒業して、新卒で入社して、勤めた企業での体験です。
本社のある関西で新入社員研修、3週間。
この時は、地道に働いて、できれば長く勤めたいな、と思っていた。

研修が終わり、東京支社へ営業職で配属される。

その約2年後に退職するのですが、
とにかく当時の自分には向いていない環境でした。

内定をいただき、自分の判断で入社した会社でしたが、
端的にミスマッチでした。

イメージしていたことと異なることが、
どんどん降りかかってくる感じです。
これ絶対内定だした会社の判断誤りだろ…
と今でも言えるかもしれませんが、

半分は当時の自分の未熟さが原因のもの、
そして残り半分は環境へのミスマッチだったかと思います。

学生の頃、すこし不安感や憂鬱な感情を抱えていたことへの
対処をせずに働きに出たことも要因なのではないか、と思っています。

最初の勤めにおける人と組織へのかみ合わなさを感じる自分

何がよくなかったか→上司や先輩や同僚のことを好きになれなかった。
よくよく彼らの話を聞いていると、
「不満もあるけれど、何だかんだ会社に世話になっていて、会社に愛着があるから、続けているんだ」
とおっしゃる方が多かった。

自分もその会社が好きになれるかどうか、
色々考えましたが、あまりに好きになれずに、
退職を選ぶことにしました。

営業職の勘所は分かったし、売上を作るという結果も出した、
それでもやる気が出ない。辞めよう!という感じでした。

最初の勤めで分かった最も重要なこと

見る人が変われば、評価が変わるということ。です。
正直社内では、怒られてばかりだし、
売上は作ったけれど、
それが本当に自分の実力と認められていたかは
かなり怪しい。
(あの上司の下だから…と思われていたのではないか…)
会社内では、私への評価評判はひどい有様だったわけです。

ところが、退職後に勤めていた会社の担当得意先だった社長から、
「ウチで働かないか」と誘ってくれたのです。
しかも2社から!
うち1社は新規で得意先になってくださったお店でした。

これは結構うれしかった。
別の目標があったので、お誘いは断りました。
けれども、見る人や場が変われば、
同じ振る舞いをしていても、同じ人物でも、
価値や評価は異なるものなんだな、ということがよく分かりました。

意見や評価というのはあくまで相対的なものであること。
概念としては、いくらでもいえるけれど、体験ベースで感じたことはこの時が始めてだったように思います。

辞めるときに、普段ぼろくそに言ってくる上司から、
頑張れよ、という声かけもいただきました。
その人以外からも、頑張れよは言われました。

そんななか、よく覚えているのが配送センター(倉庫)の方から、
こっちに異動希望出しなよ、俺から言ってあげるよ、
と仰ってくれたことです。

会社として2年目の若者が辞めることは、
とても残念なことであっただろうとは思います。

体験や経験が、分厚いアウトプットを生み出す

経営することや事業を動かすことは、職人芸のような部分もあるでしょうが、自分の人生という個別の体験を持っていれば、
経営やプロダクトというスーパー文脈依存的なものに固有性を付けていくことができるのかもしれません。

10月には商品(木質ペレット燃料)を販売いたします。
販売に向けて、必要なことのインプットと準備をしております。
これからどうぞよろしくお願いします。

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