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節目に区切りをつけ、人生を物語にすることの功罪

半年ほど前に、自己紹介noteを書きました。

自己紹介というまとまった形に限らず、noteで人生の一部を物語(ストーリー)として表現している人は多いかと思います。物語にすることで、自分のことをわかりやすく伝えることができます。

ただ一方で、「人生を物語として表現することで、失っているものがある」という感覚がありました。人生を何でもかんでも物語として表現していいものか、と。

人生と物語を2つの「線」として比較することによって、物語にすることで失われるのは、人生という動きのある線には存在した寄り道や揺らぎなのではないかと、だからこそ2つの「線」を行き来し続けることが大事なのではないかと気づきました。

人生は、動的な線である

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチに”connecting the dots”というものがあります。

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。
「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳 |日本経済新聞より

このスピーチでは「点を繋げて線にする」と語られていますが、人生はそもそも線的なものなのではないでしょうか。

人生には明確なゴールがあるわけではありませんし、次の瞬間が予想できない不確実性と自由に溢れています。

だから、その線はまっすぐで綺麗な線ではなく、うねったり曲がったり、行った来たりしている、動的な線です。

図で表すとこんな感じかもしれません。(この図では二次元ですが、三次元で表す方が正確な気がします。ねじれの位置とかある方が、人生っぽい感じがする。)

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区切りをつけることで、線は点になる

区切りをつけるということは、そんなランダムで動きのある線に、始めと終わりを作ることです。

ここでいう区切りは、いろいろな時間幅のものを指します。例えば、学校の卒業式もそうですし、1日の終わりに書く日記もそうです。

始めと終わりがあると、直線は線分になります。図で表現すると、こんな感じです。

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この線分は静的なものであり、線分の中での時間の動きは意識されにくいという意味で、点的なものに近くなります

例えば日記を書くという区切りをつけることで、「昨日の出来事」という本来は時間幅を含んだものが、過去のある一点であるかのように表現されることは多いのではないでしょうか。

図で表現すると、線分がぐるぐるっと丸まって点になるようなイメージです。

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点をつないで直線にすることが物語にすること

このようにして区切られた一つ一つの点をつなぎ、線にすること。それが、スティーブ・ジョブスの言うconnecting the dotsなのだと思います。

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こんな風に点をつなぎ線にする際は、わかりやすい始めと終わりと因果関係があります。

〇〇という出来事が原因で、△△と思い、□□という行動をした

これは人生を語ることのでる「物語」にすることと同様だと考えることができます。

物語はすでに起承転結がある定まったものであり、静的な直線のようなイメージです。

ここまでの論理をまとめると、こんな感じです。

・人生は動きのある線である
・節目に区切りをつけることで、点が生まれる
・点と点をつなぐことで、静的な直線になる
・そうして生まれた直線が、物語にすることである

動きのあるランダムな線と、静的な直線の違い

さて、ここでポイントなのは、元々の動的な線(=人生)と区切りをつけ、点をつなぐことで生まれた静的な線(=物語)は、描かれているラインが違うだけでなく、その質も違うことです。

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この違いを理解するためには、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』の議論が参考になります。インゴルドは前者を身ぶりの軌跡(trace of gesture)、点と点をつなぐ連結器(point-to-point connectors)と呼んでいます。以下、それぞれの線の説明を引用します。

空中であれ紙上であれ、指揮杖の先によるものであれペンによるものであれ、そのラインは一つの点の運動から生み出されたものであり、その点は(略)運動が向かおうとするどんな方向にも自由に動いていくことができる。(略)自分のペースで自由に進行するラインは「散歩にでかける」。
このラインの外観は「散歩というより会合の約束の連鎖のよう」だ、とクレーは言う。それは点から点へと連続的にできるだけ素早く進むものであり、原理的には瞬間的な移動である。(略)

その上で、このように両者を比較します。

歩行する活動的なラインは力動的であるが、一連の隣接する点を連結するラインは、クレーによれば「静態的なるものの典型」である。もし前者が明瞭な始点と終点のない旅へ私たちを連れ出すとしたら、後者は路線地図のように一目で全体が把握できる相互に連結された行先の一覧表を提示する。

すなわち、人生は始点と終点のない自由な旅のようなものですが、物語は一眼で全体が把握できる、視点と終点がある連結なのです。

人生を物語にすることの功罪

このような二種類の線の違いから、人生を物語にする際に得られることと失われることがあると思っています。

ぼくが自己紹介noteを書いた時のことを例にしてみます。

得られることは、明確に原因と結果があり動きがないものなので、人にわかりやすく伝えられることです。

自己紹介noteでも、起承転結的なフォーマットを意識しながら、最後の結論に至る流れを考えた結果、たぶんそれなりにわかりやすいnoteになったような気がしています。(少なくともぼくの人生を丸ごと語るよりはわかりやすいはず。)

一方で失われることもあります。元々の線にあった揺らぎが失われてしまうこと、そしてその時点では直線にうまく回収できない経験を捨ててしまうことです。

一つは、いろんなことがあったぼくの24年間を一つの物語として描こうとすると、どうしても切り捨てられてしまう部分があること。

自己紹介noteでも「書いて思ったこと」として上のように述べていますが、人生を物語にするとどうしても捨てざるをえない部分が出てきます。

また、静的な物語として自分の人生を解釈してしまう結果、他の解釈が生まれにくいこともあるでしょう。

2つの線を行ったり来たりしたい

結局大切なのは動きのある線としての人生と、人生を区切った点を結んで生まれた、静的な線としての物語を、行ったり来たりすることだと思います。

それぞれの良さと、それぞれが失っているものを理解し、双方の間を揺らいでいくこと。それが人生の豊かさにつながっていくのだと思います。

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写真はパリのある道路。真っ直ぐな道と、寄り道したくなるバーと。

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