見出し画像

離れて聴こえるシャッター音が、雑音じゃなくなった日

家族写真を撮った昨日。
心の底から写真をほしいと思えている自分に気がついて、両親へのマイナスな気持ちをゼロにすることができて本当によかったと感じた。

写真の仕上がりはどうしますか?と台紙を見せてもらった時、「普通の写真サイズでいいから、自分用に1枚ほしいな」と発言することができた。
弟たちは自分用の写真はいらないと言っていたけれど、そんな彼らを見ながら、『もらっといたほうがお母さんが喜ぶかな』とか『思い出の品ってことでとりあえずもらっとくか』なんて思わずに純粋にその写真をほしいと思えている自分がうれしくて仕方がなかった。


今年は気軽に写真が撮りたい。
スマホでいいから、たくさん自分とだれかの写真を撮りたい。
自撮りが嫌い、恥ずかしい、などと言っている場合ではない。恥ずかしいなら激盛れしてかわいくなれるアプリを使えばいい。
今日弟たちと一緒にフィルターを変えて遊んだのはとても楽しかった。

この遊びも、行為は『写真を撮る』ことだけれども、「アプリのフィルターがどんな感じか試してるだけだし」って言い訳を心のど真ん中に置くと、弟たちに「それはやばい!!うさぎやばい!!ビッチだわ!!」「自撮りなんてほぼ嘘じゃん!マジか!!」「みて!!!お姉ちゃん今吉岡里帆ちゃんみたいだよ!!」なんて言いながらバシャバシャ撮ることができた。
マジで吉岡里帆ちゃんになれるフィルターがあったの。ビビる。


写真屋さんでプロのカメラマンに撮ってもらった時は、言い訳じゃなくて「プロの人はどうしたらそれぞれの人物がベストな状態で写真を取れるかを知っているし、知っている上で指示をくれるから、それに従っておけばいい」みたいな安心感があった。
安心感から「嫌な顔の写真になることはない」と思えていたからか、あっという間に終わったし、とても楽しかった。
写真館で誰かと写真を撮って思い出にするというのは、とてもいい思い出の作り方・残し方に違いない。それでしかない。恋人氏ともいつか写真屋さんで撮りたい。

さらに、母方の祖母は写真が趣味なのだけれども、昨日写真館の後に祖父母の家に寄ったら、祖父母を含めた集合写真を祖母が撮ってくれた。
セルフタイマーを祖母が発動させ、「おばあちゃんもうカウント始まってるよ」「え!うそ!?!?」なんてやり取りをしながら祖母が弟たちの隣に立った。写真屋とも自撮りともまた違って、グダグダわちゃわちゃした時間を経た先に出来上がった写真は、すごく手作り感があってあたたかい気持ちになった。
ちゃんと印刷してもらったので、東京に持ち帰って大事にする。


これまで「写真なんて取らなくても大事なことは覚えている」と言い放ち、写真にうつることも人をうつすこともあまりしてこなかった。
けれど、いつか自分がこの家族より強い縁を結ぶ人がいて、これからは長い時間を共に過ごせなくなっていくんだろうと思うと、これまでにもこうして目に見える形で、残るものを作ってきていればよかったなと後悔した。
もちろんこれは家族とだけではなく、恋人氏とも。

だってさ、あの日の大事だったはずのこと、ほとんど全部が頭のどこか隅の方に追いやられてしまっていて、今やそのほとんどを思い出さないもの。


さみしいんだ、単純に。

私がいつか両親たちを2番目以降に置くであろうことも、両親や祖父母がそれをわかっていることも、いつかの日のために彼らが心の準備を始めていることも。

私は親を恨んでいる時期が長かったから、安定した気持ちでいられたり帰省を楽しめたりするのは、ここ2年程度の話だ。
社会に出てから丸4年だから、その半分を清々しい心で過ごさなかったことは本当に後悔している。ちゃんと後悔。


この2年、大学4年間の帰省に比べると死ぬほど楽しい。
その昔よりも家族に対して「私より先に死なないで!!!」なんて気持ちが私の頭の中を占拠している。
…ここまで書いて思ったのだけれど、ただ単に甘えたスイッチが入るだけなのかも。だとしたらちょっと情けないね。


大事なことだってどんなに覚えていようと思ってもすぐ忘れてしまうのだから、これからはたくさんのシャッター音を聴いて、全部何かを取り出せる思い出として大事に留めていこう。



たのしく生きます