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二十一話「こしょこしょビル」

「怖いというより、『変な場所だなー』って感じの話なんですが・・・」

 戸惑った様子で話してくれた、主婦であるIさんの体験。


 Iさんの住まいの近所には、昔から空き家となっているビルがある。
 小さな三階建てのビルで、正面にはいくつかの小さな窓と締め切られた鉄扉、そして、一階より上のフロアの入り口に繋がる階段がある。ビルの側面、その二階の部分には、なにも書かれておらず、端っこの金属部分が錆び付いた袖看板がひとつ。
 最後に、一階の鉄扉と、二階のガラス窓一枚ずつに『テナント募集中』の張り紙がしてある。

 住宅地のなかでも人通りの少ない道沿い。そこにちょっとした企業の支部や事務所らが入った小さなビル群があるのだが、それら、同じような高さのビル群にひっそりと紛れるかたちで、件のビルは建っていた。
 「木の葉を隠すには森のなか」というが、まさにその通りで、全く目立たない物件だった。

 Iさんの記憶通りならば、かつて二階には『◯◯法律事務所』が入っていた。ただ、一階に関しては、どんな企業、または個人店舗が入っていたか思い出せない。
 とにかく、どちらもずいぶん前から『テナント募集中』だったと記憶しているそうだ。
 地元の人達と話題にあげたとき、しばらくしてから「そんな建物があったなあ」と、なんとなく思い出す。それほど地味な建物であった。

 しかし、最近になって、このビルの話題がちょくちょくあげられるようになった。
 それは、近年の不況の影響もあるだろう。そのビル群に限らず、近所から都心部まで、『テナント募集中』の張り紙がよくみられるようになり、「そういえば、あのビルも・・・」と思い起こされるようになった。

 いまでは、なんらかの噂話をする際に「そういえば・・・」と、誰かがあのビルに関する噂話を持ち上げるようになった。Iさんが思い出す限りでは、こんな話だった。

 いつの頃からか、夜中に件のビルの前を通ると、明かりもついていない二階のフロアから話し声が聞こえるという。
 なにを喋っているのかは分からない、建物から漏れてくるか細い声。ただ、一人のものではなく、集団で談笑しているように聞こえるのだとか。
 そしてなにより、その声を聞いた者は「声は楽しそうだった」と口を揃えて言っているそうだ。


 いったい、あのビルでなにが起きているのか。
 世の中には物好きな人物がいるもので、噂話を聞くだけに飽き足らず、件のビルに忍びこんだ者が出てきた。


 その人物はNさんといった。少し頑固、いや義侠心のある・・・というか、持ち前の正義感から物事によく首を突っ込む男だったという。

 Nさんが夜中にビルの目の前までいくと、微かな物音のようなものが二階から聞こえてくる。
 空きテナントにホームレスでも泊まり込んでいるのか。はたまた、二階には何かがあるというのか。

 階段の前に立って「おーい」「誰かいるのか」などと声を出す。返事がない代わりに、集団の話し声が漏れ聞こえてくる。そのまま声をかけながら階段を上っていく。
 なんの反応もない。しかし、やけに自分の声が響いた。その音が掻き消える瞬間、誰かたちが楽しげにする内緒話のようなものが聞こえる。
 そして、『テナント募集中』の張り紙がされた二階のガラス扉まできた。ガラス扉越し、二階のフロアには暗闇が広がっていた。ここまでくると漏れてくる声がなにを喋っているのか、なんとなく分かるような気がした。そして、明らかに中から集団の気配がする。その気配に蹴落とされないよう、恐る恐るノックをした。

 その瞬間、さっきまで聞こえた話し声は嘘のようにピタッ・・・と止んでしまった。

 









 なにも返事はない。



 返事がないのが、とても怖い。


 恐怖心を誤魔化すように、もう一度、小刻みに震える手でノックする。







 返事は、ない。



 ガラス扉の前、沈黙が続くさなか、「自分は取り返しのつかんことをした」と、そんなおぞましい感覚がグーッと膨らんでくる。




 そうして青い顔をして逃げるように帰ったNさんは、眠っていた奥さんを無理やり起こし、事の次第を話したという。
 それからNさんは三日三晩、高熱にうなされ、その後は人が変わったようにおとなしくなった。


 こんな話がNさんの奥さん経由で様々なところに知れ渡り、近隣住民からいっそう気味悪がられる建物となった。なので、表立っては、誰もあのビルの話題はあげないそうだ。
 また、別の物好きが、Nさんにその晩のことを詳しく聞こうとしても、「俺はあの二階にはいってない」の一言だけしか答えてくれないのだという。

 そして、この別の物好きの一人がIさんだった。
 Nさんの話を聞いた彼女は、どうしても気になったことがあった。


 ある日の昼間、件のビルの近くまで向かい、それを確かめた。

『テナント募集中』

 色鮮やかな張り紙、その下の方に小さく書かれた数字を打ち込むと、帰ってきたのは「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」という返事だった。


「そのときねー、なんとなーく、あれは関わっちゃいけない場所なんだなあ・・・って、分かっちゃったんですよ」


『テナント募集中』の一文と『電話番号』しか書かれていない色鮮やかな紙。そして、その張り紙しかないはずのビル。

 最近では、とても作業員や関係者に見えない私服の人間たちが、一階よりうえに続く階段を上っていく姿が昼間にみられる・・・そうだ。



 その他、そのビルに関する奇妙な噂は、いまだに絶えることない。