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ニーナ・シモンのプロテスト・ソングが教えてくれたこと


「時代を反映し 伝えたいことを歌う」
という信念で『人種差別』に対するプロテスト・ソング(抗議の歌)にこだわり続けた ニーナ・シモン

アーティストとして公民権運動に関与していくことが意味するのは?

1960年代中盤のアメリカの黒人解放運動の流れや時代の変化を考察します

ニーナ・シモン(Nina Simone)



本名:ユニース・キャスリン・ウェイモン(Eunice Kathleen Waymon)

幼少期にクラシックピアノに没頭して クラシック音楽のトレーニングで有名なジュリアード音楽院でレッスンを受けながらユニースはアメリカで初めての黒人クラシックピアニストを目指します

そして フィラデルフィアにある名門カーティス音楽院の奨学金入学を目指して 試験では課題曲を完璧に弾けたのですが「黒人という理由」で奨学金選考に落選します


貧しかったユニースは 歓楽都市アトランティックシティーのナイトクラブでピアノを弾くようになり 客の求めに応じて歌うことで注目されていき シンガーとして名を成していきます

熱心なクリスチャンである母にナイトクラブでドレスを着て 男たちのために歌をうたう姿を見せるわけにはいかないという理由から自分自身につけた芸名が ニーナ・シモン(ニーナ(Nina)は女の子という意味 シモン(Simone)はフランス女優シモーヌ・シニョレ(Simone Signoret) からとりました)

その後 結婚して彼女の夫がマネージャーを務めるようになりますが 夫の厳しいDVを受け苦労しながら 当時盛り上がりつつあった公民権運動へ傾倒して 黒人のために闘う素晴らしいシンガーへと変貌していきます

『Ain’t Got No, I Got Life』

Ain’t got no home, ain’t got no shoes
Ain’t got no money, ain’t got no class
Ain’t got no skirts, ain’t got no sweaters
Ain’t got no perfume, ain’t got no luck
Ain’t got no fate

Then what have I got
Why am I alive anyway?
Yeah, what have I got
Nobody can take away

I’ve got life I’ve got freedom I’ve got life…


『バーミングハム運動(Birmingham campaign)』


1960年代初め バーミングハムはアメリカでも最も人種分離の激しい都市のひとつで 幾度となく黒人の住居や教会を狙って爆弾が仕掛けれて『爆弾都市(Bombingham)』という悪名すらあった都市でした

『バーミングハム運動(Birmingham campaign)』1963年の春 マーティン・ルーサー・キング牧師と南部キリスト教指導者会議 (SCLC)が組織して展開した戦略的公民権運動のひとつです

キング牧師率いる運動家らは 非暴力による直接行動の戦術(シットインなど)を用いることで マスコミを通じて『黒人の若者と白人側の市当局との対立』を全米全土に広く知らしめました


この運動が『公民権法』には消極的であったケネディ政権の方針を大きく転換させます 



① メドガー・エヴァーズ殺害事件


1963年6月12日 ケネディ大統領はTV放送で今までになく強烈に公民権運動を推進する決意を表明しました

その夜 車で帰宅したNAACP(全国黒人地位向上協会)ミシシッピ州支部ディレクターの【メドガー・エヴァーズ(Medgar Evers)】は何者かの銃弾を背中に受けて殺されました

ほどなくして 過激な人種差別主義者で銃の愛好家でもある白人肥料セールスマンのバイロン・ディラ・ベックウィズ(Byron de la Beckwith)が逮捕されます

✅第一回公判は「結論に達せず」で保釈

✅第ニ回公判も「結論に達せず」で 犯人バイロンは$10,000の保釈金を支払い事実上の無罪となります(地元民からは熱狂的歓迎を受けたそうです)

その後 この事件は 1989年にローカル紙の記者が「ある保守的組織の秘密書類によると1964年の裁判では陪審員を買収した可能性がある」と暴露したことで 

✅最初の裁判から30年後の1994年:第三回公判で犯人の有罪が確定します


② バーミングハム黒人教会爆殺事件


1963年8月28日に『ワシントン大行進』が行われて公民権運動が盛り上がりが最高潮を迎えた直後

9月15日にまた悲惨な事件が起こります

【バーミングハム黒人教会爆殺事件】アラバマ州バーミングハム市にあるパブテスト教会に『時限爆弾』が仕掛けられ 日曜学校にやってきた女の子4人が教会ごと吹き飛ばされて死亡して 多数のケガ人を出した事件(犯人はKKK団に所属する4人の白人)

この教会爆破事件は アメリカばかりでなく世界中を震撼させました

各地から「爆破犯人情報への報奨金」のための寄付金は$76,000に

しかしながら 爆破グループも特定されずに 個人も起訴されることもなく 寄付金は寄付者に返還されることになりました

✅ 事件から14年後の1977年11月17日に 主犯格のロバート・シャンブリス(Robert Chambliss)は終身刑を言い渡され 深南部の州による告訴で初めて「殺人事件」として有罪となりました


1964年 ニーナ・シモンは連続するテロ行為に怒りを爆発させて『Mississippi Goddam』を発表します

Alabama's gotten me so upset
Tennessee made me lose my rest
And everybody knows about Mississippi, goddam

Everybody knows about Mississippi
Everybody knows about Alabama
Everybody knows about Mississippi Goddam


1964年7月2日 ジョンソン大統領は「1964年公民権法」に署名



『血の日曜日事件』


1965年3月7日 黒人の選挙権を求める525人がキング牧師と共にアラバマ州セルマで立ち上がり 非暴力を貫いて州都モンゴメリーまで行進を続けることで 警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしようとデモ行進を行います 

白人のジョージ・ウォレス知事は「公共の秩序を乱す恐れがある」として 州警察の暴力的鎮圧によってデモの阻止(棍棒や催涙ガス、鞭などを使用)デモ隊は6ブロック進んだだけでセルマに追い返されます

全米のニュースに流れたその映像は『血の日曜日事件』として 人種をまたぎ世論を味方にして 米国大統領を巻き込み 世界をも突き動かしていきます(日々増え続ける参加者数は2.5万人にまで膨れ上がりました)

3月25日の3回目のトライでようやく州議会に到着して 以後の投票権法の成立と公民権運動を後押しします


1965年8月6日 ジョンソン大統領は「投票権法」に署名



長い暑い夏(Long and Hot Summer)


ジム・クロウ法や関連諸制度は連邦法によって無効になりましたが 名目だけの平等に不満を高めた北部や西部の大都市スラム街に住む黒人は非暴力主義に反抗して実力行動に訴える者も多くなり 各地で黒人暴動が頻発します

この64年から68年まで黒人暴動が「長い暑い夏(Long and Hot Summer)」と呼ばれています(1967年の夏には159もの無秩序な暴動が記録されています)


ボイコット期間中『非暴力運動』を行っても「敵(白人)の良心の目覚め」などなく 強権的弾圧は衰えることはありません

この事実は黒人の意識変化を齎したと考えられます

『非暴力運動』は「白人の権力体制」に対して譲歩を迫るほどの『パワー』がない


「ワッツ暴動」


1965年8月11日 ロサンゼルス市のワッツ地区で 道路上を蛇行運転していた黒人男性と警察官との間で口論が起こり これがきっかけとなって暴動が発生して 州兵を投入して鎮圧する事態になり暴動は6日間続きました

死者34人・負傷者1,032人・逮捕者約4,000名 損害額は3,500万ドル



1966年6月16日


ストーリー・カーマイケル(差別撤廃闘争の指導者・学生非暴力調整委員会<SNCC>第3代目議長)が演説で強い言葉で語ります

我々は6年間「自由を!」を言い続けてきた
今からは『ブラック・パワー!」


『Four Women』


1966年9月16日 ニーナ・シモンはアルバム『Wild Is the Wind』をリリース

収録曲『Four Women』は 黒人女性の悲しさ、逞しさを描いた素晴らしい楽曲です


「デトロイト暴動」

1967年7月23日 デトロイト市で捜査中の警官が黒人少年をなぐったことをきっかけに大規模な黒人暴動が発生して警官隊との銃撃戦となり 黒人居住区サウスサイド地区は放火によって廃墟と化しました

暴動は5日間続き 38人が死亡 負傷者は1000人を超えました


『I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free』


1967年 ニーナ・シモンは ビリー・テイラーのアルバム『Right Here,Right Now(1963)』収録曲の『I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free』(作詞:Dick Dallas)をリリースします

I wish I knew how it would feel to be free
I wish I could break all the chains holding me
I wish I could say all the things that I should say
Say 'em loud say 'em clear for the whole round world to hear

自由であるとはどんな気持ちかを知りたい
私を縛っているすべての鎖を壊せたらいいのに
言うべきことは全部言えたらいいのに
凛とした声 大きな声で 取り巻く世界に聞こえるように


『What Happened, Miss Simone?』


ニーナ・シモンの人生を振り返った映画
『What Happened, Miss Simone?』

この映画の中で彼女は次のように語っています

公民権運動に参加したことは後悔していなけど 当時歌った過激な曲のせいで 業界から干されて私のキャリアが潰れて 不買運動も起こった

反差別を掲げて仕事を失い 彼女は心も病み 見た目もボロボロ

1970年 彼女はアメリカを離れ アフリカで奴隷だった人々が建国した国リベリアに移住して自由気ままな音楽と無縁暮らしを始めます


1987年 シャネルが自社の代名詞的香水ブランド「No.5」のCMソングに彼女のデビュー・アルバム収録曲『My Baby Just Cares For Me(1958)』採用したことで再ブレイク(監督は『エイリアン』のリドリー・スコット)


まとめ


ニーナ・シモンは 人気と実力の絶頂期に キング牧師を中心とする黒人公民権運動そして過激なマルコムXやストークリー・カーマイケルらの運動に傾倒していくにつれて アメリカ音楽業界のメジャー・シーンでの存在感を失っていきます

黒人で女性のミュージシャンであるニーナ・シモンが政治的なメッセージを発することが意味するのは?

当時のアメリカ社会から忌避される存在になるということ

だったのでしょう



50年以上経った現在も何も変わってないのでは??



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